現在、世界中で使用されている『Oxford Advanced Learner's Dictionary(オックスフォード現代英英辞典)』の見開きページの題名の下に、初版の編集者 AS Hornby と大きく書かれている。左側には、1948年に英国で出版された初版の1ページが掲載されているが、その原版は日本で1942年(昭和17年)4月に出版された。(ダブルクリックすると拡大します)©Oxford University Press, ©旺文社
現在、世界中で使用されている『Oxford Advanced Learner's Dictionary(オックスフォード現代英英辞典)』の見開きページの題名の下に、初版の編集者 AS Hornby と大きく書かれている。左側には、1948年に英国で出版された初版の1ページが掲載されているが、その原版は日本で1942年(昭和17年)4月に出版された。(ダブルクリックすると拡大します)©Oxford University Press, ©旺文社
OALD出版50周年記念版の背表紙(著者所収)
OALD出版50周年記念版の背表紙(著者所収)

 『ホーンビーの英語辞典』の愛称で世界の英語学習者に親しまれているオックスフォード現代英英辞典(Oxford Advanced Learner's Dictionary:OALD)は英語圏の学習者だけでなく、英語を母国語としない外国人学習者に使いやすい、最も有名な英語辞書の一つとして知られています。OALD (写真上は第8版、最新版は9版)の見開きには、初版編者に敬意を表して、

A.S. Hornby (Albert Sydney Hornby = アルバート・シドニー・ホーンビー)の名前が大書されていますが、ホーンビー先生が大正13年から昭和 8 年にかけて10年に亘って大分で英語教育を行っていたことは地元でほとんど知られていません。。。これはホーンビー先生が太平洋戦争をきっかけに日本を去って 70 年以上が経過していることもありますが、かつてホーンビー先生が勤務していた大分高等商業学校(大分高商)を前身とする大分大学でもあまり知られていないことは卒業関係者として少し寂しいと思います。

大分高等商業学校に赴任したホーンビー先生(著者所収)
大分高等商業学校に赴任したホーンビー先生(著者所収)

さらに、ネット上でホーンビー先生の大分時代についての情報を日本語や英語で検索しても、わずかにオックスフォード出版局のホームページや Wikipedia などで、ホーンビー先生が大分に一時期赴任していたことが端的に書かれているのみでした(平成26年9月時点での検索)。それ以来、筆者が大分高等商業学校の資料や当時の著書、写真を収集して、これまでほとんど知られていなかった若き日のホーンビー先生の写真や授業風景を確認できたので、このページで紹介したいと思います。左の写真は、1926年(大正15年)に出版された大分高商の第2回生卒業アルバムに掲載されたホーンビー先生の肖像です。このとき先生はロンドン大学卒業後大分に赴任して2年目の青年教師でした。当時を回想した先生や元教え子の文章から英語授業や語学部の活動を積極的に行っていたことが伺えます。

大分高商での授業風景写真(著者所収)。黒板に「Reading The Japan Times (ジャパンタイムスを読む)」と書かれている。(平成28年11月発刊『写真アルバム 大分市の昭和』(樹林舎)にも掲載)
大分高商での授業風景写真(著者所収)。黒板に「Reading The Japan Times (ジャパンタイムスを読む)」と書かれている。(平成28年11月発刊『写真アルバム 大分市の昭和』(樹林舎)にも掲載)
大分高商1年生の時間割。英作文、英會(英会話)、英譯を担当していた。(著者所収)
大分高商1年生の時間割。英作文、英會(英会話)、英譯を担当していた。(著者所収)
大分高等商業学校の生徒が演じた英語劇(著者所蔵)。演劇の経験があったホーンビー先生の妻が劇の指導をしたといわれる。:著者所収
大分高等商業学校の生徒が演じた英語劇(著者所蔵)。演劇の経験があったホーンビー先生の妻が劇の指導をしたといわれる。:著者所収
写真左:太平洋戦争中の日本で昭和17年に出版された『新英英大辞典 (ISED) 』の初版。写真右:戦後の昭和26年に開拓社から出版された第3版。同じページ数だが昭和26年版の方が紙が薄く劣化している。(いずれも著者所収)
写真左:太平洋戦争中の日本で昭和17年に出版された『新英英大辞典 (ISED) 』の初版。写真右:戦後の昭和26年に開拓社から出版された第3版。同じページ数だが昭和26年版の方が紙が薄く劣化している。(いずれも著者所収)

  ホーンビー先生は当初3年だった大分高商との契約を延長して10年になった昭和8年(1933年)9月に契約満了後、東京高等師範学校と東京外国語学校の英語教授として上京します。両校で勤務する傍ら、ホーンビー先生を招聘した前任のハロルド・パーマーの薫陶を受けて、外国人学習者向けの英語辞書の編纂に取り掛かります。左の写真は、ホーンビー先生が編集して戦時中の日本(昭和17年)に出版された『新英英大辞典 Idiomatic and Syntactic English Dictionary (ISED) 』の初版(左)と、戦後まもなく出版された版(右)です。ISEDの特徴は、ホーンビー先生の大分や東京での英語教育経験に基づき、非英語圏の外国人学習者が英語を発信する(書き、話す)ことを主な目的として編纂されたことです。また、英語を効率よく学習するために25の文型(Verb pattern)を分類し、可算・不可算名詞の記号を新たに付記するなどの画期的な工夫がありました。ISEDは大平洋戦争中ながら、1万部の印刷用紙が優先的に確保され、1942年(昭和17年)4月20日に出版・発行されました。ところが1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が始まると、英国人であるホーンビー先生は『敵国外国人』として東京の仮設収容所(現在の東京雙葉学園内)で拘束され、昭和17年(1942年)4月の新英英大辞典の出版時にも収容所での生活を余儀なくされていました。その後、昭和17年10月に日英交換船で英国に帰国することとなります。

左:現在も初版が出版され続けているISED『AS Hornby 新英英辞典』©開拓社。右:オックスフォード現代英英辞典第第9版©旺文社 ©Oxford University Press
左:現在も初版が出版され続けているISED『AS Hornby 新英英辞典』©開拓社。右:オックスフォード現代英英辞典第第9版©旺文社 ©Oxford University Press

 

 英国に戻ったホーンビー先生は引き続き英語教育に従事しながら、1948年(昭和23年)に6年前に日本で出版した新英英大辞典(ISED)を写真製版して題名だけ変更した「A Leaner's Dictionary of Current English」を英国で出版したところ、初版で85万部を超えるベストセラーとなり、高い名声を得ました。それが現在でも版を重ねているオックスフォード現代英英辞典(Oxford Advanced Leaner's Dictionary:OALD)に引き継がれ、英語を学習する外国人にとって不可欠な辞典として世界中で使用されるようになりました。『ホーンビーの英語辞典』の特徴は、戦時中に日本で出版された現代英英大辞典(ISED)の出版から70年が経過した今でも、ホーンビー先生が編集した初版(右写真)が増刷を重ねている一方で、ISEDからスタートしたOALDは世界中で販売されて版を重ねている点で、日本でこのような英語辞典は他に例がありません。

 

 以下、ホーンビー先生の生涯を、大分や日本との関連を中心に当時の資料や写真と共に、詳しく紹介していきます。

 

Ⅰ. 英国ロンドン大学卒業~大分高等商業学校への赴任

Ⅱ. 大分高等商業学校での英語教育

Ⅲ. 東京高等師範学校・東京外国語学校赴任と新英英大辞典の編纂

Ⅳ. 敵国外国人施設での生活と新英英大辞典出版~英国へ帰国

Ⅴ. オックスフォード英語辞典出版と国際英語教育、BBC放送

Ⅵ. 戦後の大分再訪と同窓会誌への寄稿

大分高等商業学校職員室でのホーンビー先生(著者所蔵の大分高商卒業アルバムより)
大分高等商業学校職員室でのホーンビー先生(著者所蔵の大分高商卒業アルバムより)

Ⅰ. 英国ロンドン大学卒業~大分高等商業学校への赴任

1898(明治31)年8月10日誕生~1924(大正13)年:26歳

 ホーンビー先生は1898年(明治31年)8月10日に、英国イングランド北西部のチェスター市(City of Chester)で生まれました。地元のグラマースクール(Grammar School:大学を目指す学生のための中等学校)を卒業後、1914年(大正3年)から第1次世界大戦が起こったため、1917年(大正5年)に英国海軍に入隊します。後に日本で英語の授業を行った際、『Convoy (護衛船団)という単語を図解で説明した時には真に迫っていた(東京高等師範学校卒  高梨健吉氏の回想より)』という経験を積んだのはこのときです。第1次世界大戦が終結した翌年の1919年(大正8年)に海軍を除隊した後、ロンドン大学で英文学を3年間専攻して、1922年(大正11年)に学位(Bachelor of Arts)を取得、英文学優等生として卒業しました。

 

 1923年(大正12年)、ロンドン大学の Appointment Board(人事委員会)の仲介で、当時英国の同盟国だった日本で新設された大分高等商業学校(大分高商)の英語教師を探していた日本人と出会い、請われて1924年(大正13年)から大分高商に3年間の契約で勤務することとなりました。同年春に、妻のIda Louise(アイダ・ルイーザ)を伴って、英国から船で日本を目指して、シベリア鉄道を経由して九州の大分市に到着します。当時の大分は明治末から鉄道網が県下で整備されると同時に、電線敷設が進んでガス灯から電灯の生活に移行していく中で活気にあふれた時代でもありました。

ホーンビー先生が来豊した翌年の大正14年(1925年)の大分市街図。地図の右下に「(大分)高等商業学校」の表記が見える。府内城の外堀の西側が埋め立てられて、郊外に向かって街が発展していることがわかる。大分港の西側(旧港)に菡萏(かんたん)遊郭の記載があり、当時の世相が伺える。毎日新聞 東宮御成婚記念(大正14年)所収(2回クリックすると大きく拡大します):著者所収
ホーンビー先生が来豊した翌年の大正14年(1925年)の大分市街図。地図の右下に「(大分)高等商業学校」の表記が見える。府内城の外堀の西側が埋め立てられて、郊外に向かって街が発展していることがわかる。大分港の西側(旧港)に菡萏(かんたん)遊郭の記載があり、当時の世相が伺える。毎日新聞 東宮御成婚記念(大正14年)所収(2回クリックすると大きく拡大します):著者所収
 ホーンビー先生が10年に亘る大分高商勤務の最後の年となった昭和8年(1933年)頃の大分市街(航空写真)。写真の左(南)が大分駅の方向で、右(北)が府内城がある方向。写真の中央を斜めに走る広い通りが現在の中央通り(当時の電車通り)で、大分合同銀行や竹町通り入口から続く白い天幕が見える。電車通り沿いの大分合同銀行(戦後の大分銀行)の北側道路を挟んだ広い空地に、トキハ百貨店が昭和11年に建設される。大分市勢要覧(昭和8年):著者所収
ホーンビー先生が10年に亘る大分高商勤務の最後の年となった昭和8年(1933年)頃の大分市街(航空写真)。写真の左(南)が大分駅の方向で、右(北)が府内城がある方向。写真の中央を斜めに走る広い通りが現在の中央通り(当時の電車通り)で、大分合同銀行や竹町通り入口から続く白い天幕が見える。電車通り沿いの大分合同銀行(戦後の大分銀行)の北側道路を挟んだ広い空地に、トキハ百貨店が昭和11年に建設される。大分市勢要覧(昭和8年):著者所収
大正10年(1921年)に府内城西の丸に建設された大分県庁の記念絵葉書(著者所収)
大正10年(1921年)に府内城西の丸に建設された大分県庁の記念絵葉書(著者所収)
昭和初期の大分市街の絵葉書。竹町の一丸デパート屋上から北方向(写真上中央遠景に府内城と大分県庁が見える)を撮影した写真。昭和20年(1945年)7月の大分空襲にて、大分市街はほぼ全焼する。(著者所収)
昭和初期の大分市街の絵葉書。竹町の一丸デパート屋上から北方向(写真上中央遠景に府内城と大分県庁が見える)を撮影した写真。昭和20年(1945年)7月の大分空襲にて、大分市街はほぼ全焼する。(著者所収)
昭和初期の大分市街の絵葉書。竹町の一丸デパート屋上から南方向(写真右遠方に大分駅前の日本銀行大分支店、さらに遠方は上野丘の方向)を撮影した写真。(著者所収)
昭和初期の大分市街の絵葉書。竹町の一丸デパート屋上から南方向(写真右遠方に大分駅前の日本銀行大分支店、さらに遠方は上野丘の方向)を撮影した写真。(著者所収)
昭和初期の大分駅前(現在のアミュプラザおおいた・府内中央口前広場)を写した絵葉書。駅舎前の大きな夫婦クスノキが有名で、大正から昭和初期の大分に10年在住していたホーンビー先生には見慣れた風景だっただろう。(著者所収)
昭和初期の大分駅前(現在のアミュプラザおおいた・府内中央口前広場)を写した絵葉書。駅舎前の大きな夫婦クスノキが有名で、大正から昭和初期の大分に10年在住していたホーンビー先生には見慣れた風景だっただろう。(著者所収)

 

 大分高商は日本で8番目の官立高等商業学校で、大分県にとって待望の高等学校設置でした。大分市南東部の上野ヶ丘(上野丘)と呼ばれる丘陵地帯に大正10年(1921年)に開学して、大正11年(1922年)4月から授業を開始します。ホーンビー先生が大分高商に着任したときは開学2年目で、学校本館や講堂など主要な建物以外はまだ建築中でした(第VI章のホーンビー先生の回想寄稿文より)。

大分高商の航空写真(画面上が北の方向)。写真中央に校舎、その北側にグランドが見える。上の大分市街図と、下の大分高商平面図(図上が北)と対比するとわかりやすい。(著者所収)
大分高商の航空写真(画面上が北の方向)。写真中央に校舎、その北側にグランドが見える。上の大分市街図と、下の大分高商平面図(図上が北)と対比するとわかりやすい。(著者所収)
大分高等商業学校平面図(縮尺600分の1)(図上が北)(著者所収)
大分高等商業学校平面図(縮尺600分の1)(図上が北)(著者所収)
大分高商の航空写真(画面左が北の方向)。写真中央に校舎群と、その北側にグランドが見える。この写真の左下に正門が見えている。写真上(西側)に大分川が広がっている。(著者所収)
大分高商の航空写真(画面左が北の方向)。写真中央に校舎群と、その北側にグランドが見える。この写真の左下に正門が見えている。写真上(西側)に大分川が広がっている。(著者所収)
大分高商の航空写真(画面下が北の方向)。写真中央に校舎群と、その北側にグランドが見える。また、写真右上端には大分中学(現在の大分上野丘高校)の校舎が見える。(著者所収)
大分高商の航空写真(画面下が北の方向)。写真中央に校舎群と、その北側にグランドが見える。また、写真右上端には大分中学(現在の大分上野丘高校)の校舎が見える。(著者所収)
顕徳町側から坂を登っていく学生たちの登校風景。左遠方に大分高商本館が見える。(著者所収)
顕徳町側から坂を登っていく学生たちの登校風景。左遠方に大分高商本館が見える。(著者所収)
上の写真から大分高商のグランドに入って、学校本館、講堂、正門を見た風景。(著者所収)
上の写真から大分高商のグランドに入って、学校本館、講堂、正門を見た風景。(著者所収)
大分高商の本館前の桜並木、運動場、遠景に高崎山、由布山、鶴見山を眺めた絵葉書(著者所収)
大分高商の本館前の桜並木、運動場、遠景に高崎山、由布山、鶴見山を眺めた絵葉書(著者所収)

 

  ホーンビー先生が赴任する前の大分高商の英語教育は、カリフォルニア大学で学んだ天形矢十郎講師(1922年4月11日着任、1924年8月7日逝去)や、英会話は大分合同銀行(現 大分銀行)近くにあったロゴス教会の牧師であったエセル・セルス女史(1922年5月15日着任~1924年3月31日退職。ロンドン南郊のケント州出身で、当時の大分・別府で唯一の英国人女性と言われた)が担当していました。それまで和服が主であった学生たちにとっては、下宿でも洋服を通す天形講師や、室内でも帽子を脱がないことがあったセルス女史に戸惑ったという逸話も残っています。 

大分市長浜町に建設された大分高商の教員宿舎。背後に高崎山や鶴見山の稜線が見える。(著者所収)
大分市長浜町に建設された大分高商の教員宿舎。背後に高崎山や鶴見山の稜線が見える。(著者所収)

 

 後に学校教員のための官舎(大分市長浜町)が完成するまでの間、外国人教師の宿舎と校長、副校長家がホーンビー先生の宿舎の近所であったため、初代の山本祐作校長や2代目の山崎弥九太郎校長と家族ぐるみで付き合い、彼らの子弟に英語を教えていました。

Ⅱ.大分高等商業学校での英語教育

1924(大正13)年:26歳 ~ 1933(昭和8)年9月:35歳

写真上:大分市上野ヶ丘に開校した大分高商の正門(大正末期・著者所収)。写真下:現在は大分県立芸術文化短期大学が置かれ、校内に保存された門柱と桜木が大分高商時代の名残である。(著者撮影)
写真上:大分市上野ヶ丘に開校した大分高商の正門(大正末期・著者所収)。写真下:現在は大分県立芸術文化短期大学が置かれ、校内に保存された門柱と桜木が大分高商時代の名残である。(著者撮影)

 

 1924年(大正13年)4月1日から大分高商に着任されたホーンビー先生は、当初学校側から英文学を教えることを期待されていましたが、英語を教えるうちに学生たちは英文読解はできるものの、英会話や英作文に苦手意識があり、自信をもっていないことに気づきます。当時の日本は、明治初期のお雇い外国人が英語を教えていた時代から、日本人教師が英語を教える時代に変わっており、漢文やラテン語授業のような読解中心の教育が主体となっていました。特に高等商業学校の生徒はビジネスの場面で実践的な英語を身につけておく必要があることから、英文学は日本人の教師が教えて、英語を母国語とする自分は英会話や英作文を主体に教えた方がよいと考えるようになりました。そのためジャパンタイムズなどの英字新聞を題材にして実践的な英語授業を行い、英語部の学生には女優の経験がある妻の助けを得ながら、英語劇を熱心に指導するようになります。

大正14年頃の大分高商時代のホーンビー先生(著者所蔵の大分高商卒業アルバムより)著者所収
大正14年頃の大分高商時代のホーンビー先生(著者所蔵の大分高商卒業アルバムより)著者所収

 

 また、ホーンビー先生が大分に赴任する2年前の1922年(大正11年)に来日して、東京で英語教授研究所(現在の財団法人 語学教育研究所)を設立して英語教育の改善活動を行っていたハロルド・E・パーマー(Harold.E.Palmer)の存在を知って交流を深めます。パーマーはspeechとしての話し言葉(言語運用)と、codeとしての言葉(言語体系)を区別して言語教育を行う「オーラルメソッド(Oral method)を提唱した言語学者です。ホーンビー先生より21歳年上であり、大分高商で実践的な英語教育に従事していたホーンビー先生には恰好の先達でした。パーマーは昭和11年(1936年)に日本を去る前にホーンビー先生を英語教授研究所(現在の財団法人 語学教育研究所)の後継者として東京に招聘しました。このときからホーンビー先生は東京高等師範学校と東京外国語学校の講師も勤めることとなります。さらにパーマーは、日本人のように非英語を母国語とする高校生などの上級学習者向けに適した英語辞書の編纂を薦め、それが後の『新英英大辞典(Idiomatic and Syntactic English Dictionary :ISED)』が作られるきっかけとなりました。

署名入り写真(大分高商卒業アルバムより):著者所収
署名入り写真(大分高商卒業アルバムより):著者所収

  

 大正15年(1926年)の大分高商第2回生卒業アルバムには、ホーンビー先生が卒業生に贈る言葉としてFORWARD(巻頭言)に感動的な祝福と激励の文章を記しています。

 

  For the second time in the history of The Oita Higher Commercial School, we are sending out graduates to take their share in the work of the world. For the second time, too, an album has been made that they remember the three years passed here.

 

  Some will remain near us; others will go to the Capital and the distant cities. Wherever fortune, or the march of events, may take them, at home or abroad, all will look back on their life here with happy memories. This album will help to keep these memories fresh.

 

  The School has a very brief history. We are now at the end of fourth year of its existence. Japan has a long and glorious history, and with it, great traditions. It is for the students of these early years to make the history of their school likewise great and glorious. With them, traditions must go up. They must remember, when they go out into the world, that in their care lies the name and reputation of the School. Let them at all times speak of it with pride and fondness; let no one at any time say or do anything that might cast slur on its honour. 

 

  Those who remain behind, students and staff, offer to the 1926 graduates their congratulations. They wish them every success in their future careers. May prosperity be theirs, 

 

                                                Albert. S. Hornby 

大分高商第2回生卒業アルバムのFORWARD(巻頭言)をホーンビー先生が署名付きで書いている。(著者所収)
大分高商第2回生卒業アルバムのFORWARD(巻頭言)をホーンビー先生が署名付きで書いている。(著者所収)
大分高商における英語授業風景(大分高商卒業アルバムより)著者所収
大分高商における英語授業風景(大分高商卒業アルバムより)著者所収

 また高等学校で英語を学習する生徒向けに対する適当な教材の必要性を感じたホーンビー先生は、昭和3年(1928年)に The Geography of Japan through questions and answers(日本地理問答)を執筆して、日本の英語学習者にとって馴染みが深い題材を元にした英語教科書を出版しました。日本の地理、コミュニケーション、都市、言語・新聞、米と麦、日本茶、絹、満州、韓国など各章につき100題の問答を集めたもので、東京、横浜や京都、大阪、神戸など都市の話題から、Where's Beppu? It's on the east coast of Kyushu. など大分県や九州にまつわる文章があり、Are spas often visited by people who are ill? Yes, they are. Because the hot mineral springs are said to be good for health. など、各々の話題に簡潔で的を得た文章を揃えています。

 

以下に、 The Geography of Japan through questions and answers(日本地理問答)における、ホーンビー先生の巻頭言を紹介します。当時の日本の高等学校における英語教育現場にありがちな現状にも触れられて興味深いです。

 

 The Geography of Japan through questions and answer

(日本地理問答)

 

                                               PREFACE. 

 

 The teaching of English Conversations to students of higher schools presents difficulties that are not present in schools of middle grade. Methods and material are two of them. In schools of middle grade, conversation can be based on material taken from the text-books used as Readers. This is not always the case in schools of higher grade, where conversation is in the hands of British or American teachers, and where reading is usually in the hands of Japanese teachers. The students, moreover, have arrived at a stage where they can no longer find interest in drill-like work---even though it might still be advisable---and want more freedom in their conversation work.

 

  It is essential to find material that will have some interest for the students, and material, too, that will provide common ground for both teacher and student. It is, of course, not the primary business of a teacher of English Conversation to give instruction in facts. His chief duty is to give instruction and practice in how to put words together, how make sentences correctly and speak them fluently. The problem remains of finding suitable material, a problem that is to some extent complicated by the fact that teacher and student are of different nationality. The teacher can ask questions about Europe and America; the student could answer questions about his native country. But in most cases, the student is not in possession of sufficient knowledge to answer continuous questions about Europe and America, once one has got away from simple facts such as position, capitals, languages. And the lesson may become a lecture with the teacher answering as well as asking questions. And the foreign teacher, in most cases, is not in a position ask continuous questions about Japan to which the student would have no difficulty in answering as regards facts. 

 

 It is to meet this difficulty that these questions and answers have been prepared. Knowledge of facts and vocabulary should be acquired outside and used during the conversation lesson. Every teacher will find for himself the best way to use the material. A good method is for the class to prepare a subject beforehand from the book and to answer the questions in school without the book. Or the same lesson may used twice, once with and once without the book. 

 

  Although material consists chiefly of commercial geography, there has been no strict limitation to this subject. Originally intended to form a sequence, some of the lessons might be more correctly described as a peregrination, as when the subject of Malaya leads by way of the Malay Archipelago to New Guinea, to the subject of mandates and the League of Nations. Topics have been restricted to countries bordering on the Pacific as being of more importance to Japanese than more distant parts of the world. Special attention has been paid to Manchuria and countries with which Japan has close relations in commerce. 

 

  Many of the questions can be re-arranged or extended to form extra questions. Instead of the short answer given in the text, a long answer may be demanded. I have found it a food plan to vary the type of question according to the ability of the students answering, when this is known as experience. With a known good students, one may ask only direct questions, ("What...? Why ...? Where...? etc.) and with less advanced or less fluent students, one may prepare for the direct questions by means of alternative or sequential types of questions. In this way, it is possible with the same material to suit the questions to the ability of the students. 

 

  The teacher will find it a great advantage to use wall maps in connection with these lessons. If none are available in the school, one or other of the large steamship companies would probably be pleased to provide them. 

 

               Albert S. Hornby 

                                               Oita Higher Commercial School

                                                              April, 1928.

 

               

大正14年頃の大分高商時代のホーンビー先生(前列左から5番目)と語学部指学生(大分高商卒業アルバムより)著者所収
大正14年頃の大分高商時代のホーンビー先生(前列左から5番目)と語学部指学生(大分高商卒業アルバムより)著者所収
大分高商英語部の学生とホーンビー先生(最前列中央)。英語劇のProducer を務め、女優経験のある妻のルイーザも手伝っていた。著者所収
大分高商英語部の学生とホーンビー先生(最前列中央)。英語劇のProducer を務め、女優経験のある妻のルイーザも手伝っていた。著者所収

Ⅲ.東京高等師範学校、東京外国語学校への赴任と新英英辞典(ISED)の編集

1933(昭和8)年:35歳 ~ 1941(昭和16)年:43歳

昭和11年(1936年)東京高等師範学校卒業写真集より(著者所収)
昭和11年(1936年)東京高等師範学校卒業写真集より(著者所収)

 

1924年(大正13年)から足掛け10年に亘って大分高等商業学校で英語教育を行ったホーンビー先生は、東京の英語教授研究所(現在の財団法人語学教育研究所)所長のハロルド・E・パーマー(Harold.E.Palmer)の誘いで1933年(昭和8年)に上京して英語教授研究所に勤務する一方、東京高等師範学校と東京外国語学校の講師となりました。

 

 さらにパーマーからの提案による、非英語を母国語とする学習者向けに適した英語辞書の編纂を薦め、『新英英大辞典(Idiomatic and Syntactic English Dictionary :ISED)』を出版する準備を進めます。

東京高等師範学校本館及び東館(昭和6年10月30日発行 創立60周年記念葉書 所収)
東京高等師範学校本館及び東館(昭和6年10月30日発行 創立60周年記念葉書 所収)
東京高等師範学校西館(昭和6年10月30日発行 創立60周年記念葉書 所収)
東京高等師範学校西館(昭和6年10月30日発行 創立60周年記念葉書 所収)
昭和11年(1936年)東京高等師範学校卒業写真集より(著者所収)
昭和11年(1936年)東京高等師範学校卒業写真集より(著者所収)
昭和17年に日本で出版された、『新英英大辞典 Idiomatic and Syntactic English Dictionary (ISED) 』の編者のうちの一人である、A.H. Wakefield 先生   (昭和14年大分高商卒業アルバムより 「ウエークフイールド講師」と記されている。(著者所収)
昭和17年に日本で出版された、『新英英大辞典 Idiomatic and Syntactic English Dictionary (ISED) 』の編者のうちの一人である、A.H. Wakefield 先生 (昭和14年大分高商卒業アルバムより 「ウエークフイールド講師」と記されている。(著者所収)

Ⅳ.敵国外国人施設での生活と新英英辞典(ISED)出版~英国帰国

1941(昭和16)年 12 月8日:43 歳 ~ 1942(昭和17)年8月

 1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発して日本と英国、米国が交戦状態になったことに伴い、英国人であるホーンビー先生は『敵国外国人』として東京で抑留されることとなりました。当時の日本国内には342人の英米系外国人が在住していましたが、その多くは教員や企業社員、貿易商、宣教師や牧師とその家族であり、12月8日の開戦と同時に全国一斉に各地の抑留所に連行されました。ホーンビー先生もそれまで住んでいた東京の神楽坂の家を出て、世田谷にある董女学園(現在の田園調布雙葉学園)に設置された敵国人抑留所に収容されました。年が明けて1942年(昭和17年)4月20日には新英英辞典 (Idiomatic and Syntactic English Dictionary:ISED)が無事に出版の運びとなります。当時は太平洋戦争の最中で日本や英国や米国と交戦中でしたが、翌年の昭和18年(1943年)に発行された「英文學研究」の書評欄で、澤村寅二郎氏によって新英英辞典が紹介されています。『英語を外国語として学習する者、特に日本の学生の為に、英人Hornby が主として筆を執り、英語慣用語句の用法と文章構成法を教える立場から編纂されたものである』『英人としての著者が新たに考案した説明』『本辞典の著しい特色は(中略)、名詞にcountable とuncountable の別を示し、動詞の型(Verb Patterns)を明らかにしたことである』などと、大変好意的に評されています。(下記写真参照)。戦時中の当時、英語は「敵性語」として民間を中心に排斥運動がさかんになる中、このような書評が出されていることは日本人の良心の証左といえると思います。

澤村寅二郎『批評紹介 新英英大辞典』英文学研究第23巻第2号 日本英文學會 1943年(著者所収)
澤村寅二郎『批評紹介 新英英大辞典』英文学研究第23巻第2号 日本英文學會 1943年(著者所収)

 

 世田谷での抑留生活が半年ほど経過したとき、海外在住の日本人との交換船(日英交換船)への乗船が許され、英国に帰国できることになりました。しかしながら帰国前にホーンビー先生の妻が亡くなったことで傷心の旅となりました。なお日本を離れる際に、親しい友人や教え子が見送る中で、ホーンビー先生は「戦勝国の国民の一人としてまた日本にやってきます。」と笑顔で挨拶したそうです。英国人らしいユーモアを交えた発言であり、また当時の厳しい世相の中で公にならずに無事に帰国したことは、見送った日本人のホーンビー先生への信頼や配慮を感じさせる逸話と感じました。

 後にホーンビー先生は、自分が比較的早く英国に戻ることができたのは、日本での英語教育や英語辞典出版などの功績が認められたからだろうと回想しています。このときは日本も開戦初頭からの勝利が続いていて、1942年(昭和17年)4月18日の米軍による東京への小規模の空襲(ドーリットル空襲)や、6月7日のミッドウェー海戦で日本海軍が初めて大敗して4隻の主力空母を失うなどの戦局の変化はありましたが、国内では緒戦の戦勝気分もあり、比較的余裕のある時期だったと考えられます。ホーンビー先生は日英交換船を務めた龍田丸に乗り、昭和17年(1942年)8月に日本を出発しました。

ホーンビー先生が乗船した龍田丸の彩色絵葉書。昭和17年(1942年)に日英交換船として使用された。(筆者所収)
ホーンビー先生が乗船した龍田丸の彩色絵葉書。昭和17年(1942年)に日英交換船として使用された。(筆者所収)

 龍田丸には駐日英国大使をはじめ、英国とその同盟国の送還者が乗船しており、中立国のポルトガル領東アフリカのロレンソマルケス(現在のモザンビークのマプート)で、日本人送還者を乗せたグリップスホルム号との間で交換が行われた後、南アフリカ経由で10月にロンドンに到着します。当時のロンドンは交戦国のドイツからの空襲を受けている最中であり、物資が不足していた厳しい時期でした。

 

 ホーンビー先生が最初に来日して大分を訪れた1924年(大正13年)には、日本と英国は同盟国だったのですが、それから17年後には交戦国となり敵国外国人として収容されたことはさぞ不本意だったことでしょう。ただ先生は日本で出版した新英英大辞典のゲラ刷りを船便があるうちに英国に送っており、このため英国帰国後に英語辞書を出版できたことはホーンビー先生にとって大きな転機となります。

Ⅴ.オックスフォード英語辞典出版と国際英語教育、BBC英会話番組

1942(昭和17)年10月:44歳~

大分高等商業学校卒業アルバムより 語学部担当の教師、教え子たちと。後列左から10人目がホーンビー先生(著者所収)
大分高等商業学校卒業アルバムより 語学部担当の教師、教え子たちと。後列左から10人目がホーンビー先生(著者所収)

 英国に帰国したホーンビー先生はブリティッシュカウンシル(British Council、英国文化振興会)に勤務して、英語教育を続けます。太平洋戦争開戦前に日本から新英英大辞典(Idiomatic  and Syntactic English Dictionary:ISED)のゲラ刷りを送っていた原稿をそのまま写真印刷して、1948年(昭和23年)に『A Learner's Dictionary of Current English』としてオックスフォード大学出版局から出版したところ、世界中でベストセラーとなりました。ナチスドイツの侵攻から6年に亘る第2次世界大戦が終わり、改めて国際語としての英語教育の需要が高まっていた時期であり、BBC(British Broadcasting Corporation英国放送協会)のラジオ番組の英会話講師を務めるなど、英国を中心に世界的な名声をさらに高めます。

 

Ⅵ.戦後の大分再訪と同窓会誌への寄稿

1964(昭和39)年:67歳~1966年(昭和41年):69歳

大分港から出港する船。大正から昭和初期の撮影と思われる。遠景に赤灯台と白灯台が見える。著者所収
大分港から出港する船。大正から昭和初期の撮影と思われる。遠景に赤灯台と白灯台が見える。著者所収

 

 ホーンビー先生は、戦後の昭和39年(1964年)に東京で行われた英語教育会議等で来日された際に大分に立ち寄り、大分高商の元教官や教え子らと旧交を温めています。(註:日本には昭和31年(1956年)9月にもC.C. Fries, W.F. Twaddellらとともに英語教育専門者会議のために来日していました。)昭和20年(1945年)の大分空襲により、大分市街地は焼け野原となって大分師範学校や大分高等女学校などの教育機関は全焼してしまいましたが、市街から少し離れた大分高商(昭和19年より改称された当時は大分経済専門学校)の建物は幸いに空襲を免れて、戦後の学制改革で昭和24年に国立大分大学経済学部となりました。

 

 昭和41年(1966年)には、大分高商同窓会誌に掲載された『Various Literary and Linguistic Topics』に大分高商教官時代の思い出を寄稿されています。このときホーンビー先生は風光明媚な自然で有名な英国 Cotswolds 地方の Willersey に住んでいました。2年前の再来日と大分訪問を含めて、1924年~1933年に10年に亘る大分での教官生活を当時の校長、副校長、同僚、生徒との交流を回想しながら、当時のことを感慨深く振り返っています。

 

 On my desk as I write there is a large heavy album, bound in velvet-covered boards and with gilt edges. It has title "School Life", and was issued in 1925 for the first graduates of what was then the Oita Koto Shogyo Gakko. It was during the college life of these first graduates that many of the buildings were completed. When these students first arrived, only the main building and the dormitories were in existence. When I arrived in Oita from England in 1924, building was still in progress. I may claim, therefore, to have been one of he first teachers in the College. I was twenty-six, so perhaps only six years older than my students. These who are still alive to remember me must now be sixty or over. 

 

  Although this was so long ago I have clear memories of the years I spent there. I recall the first Principal of the College. Mr.Yamamoto, dignified and impressive in the splendid uniform worn on ceremonial occasions: I recall his successor, Mr. Yamazaki, to whose charming daughter I gave English lessons. By that time the official residences for the Principal, Vice-Principal, and the foreign teachers (one British, one American, and one Chinese) had been built, so we were neighbors. Professor Mori was a good friend of mine, and I remember giving lessons to his very bright boy who must, by now, be in prominent positions in Japan's industry and commerce. 

 

  When I returned to Japan In 1964 to take part in a Conference on the Teaching of English, I was delighted to be invited to a party in Tokyo (was in  at the Chinzan-so?) to meet some of my old colleagues (Mr. Mori and Mr. Kitazawa) and many of my former students. There was a most enjoyable occasions. After the Conferenece my wife and I travelled extensively in Japan. We went to Hokkaido, and then to Kyushu. We visited Oita. and of the professors I had known in the years 1924-33 only Proffesor Fukumitsu remained. He welcomed us warmly. We were met at Beppu by Mr. Tanaka, the Dean, and were provided with the official car for our short party. We toured the Beppu area and later went on to Aso-san, Unzen and Nagasaki, all places which were familiar to me because I had made so many excursions in Kyushu with Willian Nunn, my American colleague during the yaers 1924-36. 

 

  I rember, too, the teacher of French, Father Breguier, who had passed most of his life in Japan and was the Catholic priest in Oita for many years. Unlike me he spoke fluent Japanese. He remained very French,however, and when I had meals with him he always made his coffee himself, first roasting the beans over a charcoal fire, then grinding them, and then preparing his coffee. This is a ritual at every meal.

 

 I remember collaborating with Professor Takita in the teaching of commercial correspondence and with Professor Osada in the teaching of English literature. I recall the very numerous oratorical contests at which I acted as one of judges, and the drama productions for which I was producer. Occasionally there were Shakespeare plays in Japanese (for these

 I was not responsible), and my surprise when Bottom (In "A Midsummer Night's Dream") was addressed, politely, as "Bottom San."  And the parties which the teaching staff gave themselves every term, with delicious meals, lots of sake and entertainment from the local geisha. These cultivated ladies are now, I am told, an expensive luxury, probably far beyond the limited means of professors. 

 

 To all my former colleagues and students I send my best wishes. 

 

                                                      Albert. S. Hornby

 

  寄稿文には大分高商での同僚や生徒との触れ合いをはじめ、大分県や九州各地を旅したことなどが生き生きと描かれています。その後ホーンビー先生は1978年9月13日に80歳で永眠されますが、26歳から10年を過ごした大分での生活は、青年教師として非英語圏の上級学生に英語を教える経験を蓄積しながら、後に英語教育の世界的権威として飛躍するまでの準備期間としての青春だったといえるでしょう。ブリティッシュカウンシル(British Council 英国文化振興会)は、ホーンビー先生の名前を冠した Hornby Scholarship(A.S.Hornby Educational Trust)制度を設けて、現在も英国外で英語を教える先生を支援しています。

 

           (文責 医療法人医心会みえ記念病院 森本卓哉) 

大分高商から北西方向を眺めた風景。高崎山を中心に左に由布山、右に鶴見岳の稜線が見える。大分高商の卒業アルバムより(著者所収)
大分高商から北西方向を眺めた風景。高崎山を中心に左に由布山、右に鶴見岳の稜線が見える。大分高商の卒業アルバムより(著者所収)
昭和初期の碩田橋(おおいたばし)通りの絵葉書写真。右手に大分合同銀行(昭和2年(1927年)に竹町2丁目の旧大分銀行と二十三銀行が合併)が見え、二車線の別大電車が行き交っている。(著者所収)
昭和初期の碩田橋(おおいたばし)通りの絵葉書写真。右手に大分合同銀行(昭和2年(1927年)に竹町2丁目の旧大分銀行と二十三銀行が合併)が見え、二車線の別大電車が行き交っている。(著者所収)
別府湾に注ぐ大分川河口にある新川の風景。日傘を持った大人と子供二人の風景が微笑ましい。(著者所収)
別府湾に注ぐ大分川河口にある新川の風景。日傘を持った大人と子供二人の風景が微笑ましい。(著者所収)
春日浦の海沿いを走る別大電車の彩色絵葉書(著者所収)
春日浦の海沿いを走る別大電車の彩色絵葉書(著者所収)
春日浦の夕焼けを描いた彩色絵葉書(著者所収)
春日浦の夕焼けを描いた彩色絵葉書(著者所収)
別府湾を走る機関車(著者所収)
別府湾を走る機関車(著者所収)
戦前は現在ほど樹木がなかった高崎山頂上から眺める眺望は絶景だった。高崎山から別府市街を望む。戦前絵葉書・昭和10年頃(著者所収)
戦前は現在ほど樹木がなかった高崎山頂上から眺める眺望は絶景だった。高崎山から別府市街を望む。戦前絵葉書・昭和10年頃(著者所収)

                                  謝 辞

 

このページを作成するにあたり、一般財団法人 大分大学経済学部同窓会『四極会』事務局の皆様には大分高等商業学校の同窓会誌などの資料を拝見させていただくなど、大変お世話になりました。また、大分大学附属図書館では大分高等商業学校時代の資料を閲覧させて頂きました。関係各位に衷心より御礼申し上げます。

 

(参考文献)

 

○豊田寛三監修 森本卓哉ら共著『大分市の昭和』樹林舎 2016年

 

○A.S.Hornby 『The Geography of Japan through questions and answers(日本地理問答)英語教授研究所 1926年

A.S.Hornby, 岩崎民平 『New English Composition』1929年 至文堂

○A.S.Hornby 『An Elephant's Revenge(象の仇討)』The English as speech series Vol.XV 1937年 開拓社

A.S.Hornby E.V.Gatenby A.H.Wakefield 『Idiomatic and Syntactic English Dictionary(AS ホーンビー新英英大辞典)』開拓社 1942年(初版~新装版)

〇澤村寅二郎『批評紹介 新英英大辞典』英文学研究第23巻第2号 日本英文學會 1943年

A.S.Hornby 岩崎民平 『英語の型と正用法』研究社 1962年

大分県英語教育研究協議会『大分県英語教育100年の歩み』第一学習社 1970年

〇Peter Stevens『In honour of A.S. Hornby』Oxford University Press 1978年

〇高梨健吉ら『英語教育問題の変遷(現代の英語教育1)研究社 1979年

〇高梨健吉『英語の先生、昔と今 その情熱の先駆者たち』日本図書ライブ 1985年

〇伊村元道『パーマーと日本の英語教育』大修館書店 1997年

A.P.Cowie 『English Dictionaries for Foreign Learners』Oxford Linguistics 1999年 

〇小宮まゆみ『太平洋戦争下の「敵国人」抑留 : 日本国内に在住した英米系外国人の抑留について』お茶の水史学 1999年9月号

○Oxford University Press『Oxford Advanced Leraner's English Dictionary』(オックスフォード現代英英辞典50周年記念版)  1999

〇斎藤兆史『日本人と英語~もうひとつの英語百年史』研究社 2007年

○オックスフォード大学出版局『オックスフォード現代英英辞典 第9版』旺文社 2015年

             

作成履歴:

平成26年09月02日 ページ作成。

平成28年12月09日 資料写真と説明の追加。

平成29年02月17日 Wakefield 先生の写真掲載。

平成29年02月19日 Hornby 先生の大分高商第2回卒業生に贈る言葉と、昭和31年の大分高商同窓会誌への寄稿文および解説を掲載。

平成29年11月08日 写真解説文の補筆。

平成29年11月12日 第Ⅴ章の補記、写真資料掲載、参考文献の補記

平成29年11月16日 第Ⅳ章の補記。

 

            

                (文責 みえ記念病院 森本卓哉)