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1.はじめに

 

 筆者は病院の認知症ケアにおける回想法の題材として、大分の郷土絵葉書を収集しています。現在は国指定遺跡の大友氏遺跡となっている大分市元町周辺で少年時代を過ごしたこともあり、絵葉書のコレクションは大分市内の写真が多く、地元の古書店などから収集してきました。その中に「大分尋常小學校」の絵葉書があります。

 

2.大分尋常小学校(現在の大分市立金池小学校)の戦前絵葉書

 

 大分尋常小学校は、明治20年(1887年)に開校した、現在の大分市立金池小学校の前身校です。私が通学していた時(1975年-1981年)には昭和20年(1945年)の大分空襲での被災も免れた講堂が残っており、内部には「金池魂 大東亜戦争一周年記念」と書かれていた額が掲げられていて、その空間だけ戦前にタイムスリップしたような不思議な空間でした。現在は講堂を含めて戦前からの木造建築は全て取り壊されて、新しい校舎と体育館が整備されています。

 

3.大分尋常小学校で書かれた俘虜郵便絵葉書

 この絵葉書の写真面の下には青い印字で『(大分名勝)大分尋常小学校』と記されています。ドイツ語で『DIE BERUHMTE LANDSCHAFT ZU OITA(大分の有名な風景) 』と付記されています。なお、私が所蔵している100枚以上の大分市の戦前絵葉書のほとんどの外国語は英語で書かれており、ドイツ語の説明文はこの絵葉書と、府内城にあった大分県庁の絵葉書(後述)の2枚です。

 

また、写真右端の校舎の上には「×」が付けられています(後述)。

 この絵葉書の宛名面には「俘虜郵便・大分俘虜収容所 P.O.W. (Prisoners of Warの意味か)」の赤いスタンプが押されていることから、第一次世界大戦でドイツと戦った日本が、戦争終了後にドイツ兵俘虜収容所を大分尋常小学校に設置した時代に出された郵便であることがわかります。

 

 達筆な筆記体で、中国の上海(Shanghai Jates-Road No.11)の P. Hense 家族に充てて、『Herrlichste Ostergrüße (偉大なイースターを祝して)Thr Walter Gräf 』と書かれています。収容所名簿には『4371 Graef Walter  Hafenamt 』の欄があり、港湾局(Hafenamt)に務めていたウォルター・グラフさんが中国上海のヘンス家族宛に出した手紙と思われます。大分の消印の日付は大正5年(1916年)4月10日ですが、大正5年(1916年)のイースターの日(復活祭)は4月23日なので、その2週間前に大分で消印が押されたことになります。(※宛名面では、Oita 8.3. の数字の意味と、切手貼付欄にあるNo.105という数字が何を意味しているのか不明です(後者はウォルターさんが収容所で通算で書いた絵葉書数でしょうか?)。

 

 しかしながら、この葉書には上海の宛先で押されるべきスタンプがありません。この絵葉書が古書店にあったことからも、残念ながら日本を出ることはなく、何らかの理由で不達葉書になったと思われます。検閲済のスタンプが押された後、大分尋常小学校の校舎に×印がつけられていることを自分の収容居場所を相手に知らせているのでは?など疑われたのでしょうか。(そもそもウォルターさん自身が×をつけたかどうかも今となってはわかりませんが、、、)

 

 なお、差出人のウォルター・グラフさんについて、海上自衛隊幹部学校の本名龍児先生に教えて頂きました。大正3年(1914年)8月1日まで港湾局に勤務されていたウォルターさんは、同年11月熊本収容所、12月から大分収容所に移送されて、大正8年(1919年)8月千葉県習志野収容所に移送されています。翌年の大正9年(1920年)12月に釈放後、1960年にドイツで亡くなられたそうなので無事に帰国されたと知り安堵しました。また、大正4年(1915年)11月15日に上海のペンスさんに充てた手紙は記録されており、ご紹介した不達手紙以外に無事に届いた手紙もあると知ってさらに安心した次第です。

 

4.ドイツ俘虜収容所が設置された大正時代の大分市

 

 これから、御参考までにドイツ俘虜収容所が設置された大正時代の大分市の風景をご紹介します。

大正14年(1925年)大分市地図(毎日新聞社)東宮殿下(後の昭和天皇)御成婚を記念して作成された大分市街図です。府内城の外堀の南側に金池小学校(大分尋常小学校)が記されています。

 この絵葉書は、大正10年(1921年)の消印が押されていて、現在は大分市立上野ヶ丘中学校の敷地にあった大和組豊後製糸工場近くから大分市街を展望した風景です。この写真の撮影地点(視点場)は、大分大学工学部名誉教授の佐藤誠治先生のご協力を頂き、今の上野丘1丁目2番あたりであることが判明しました。写真の近景に後に大分市立上野病院と改称された「避病院」や、ドイツ俘虜収容所があった大分尋常小学校(金池小学校)、大分駅の鉄道操車場、遠景に府内城内にあった大分県庁をはじめ、大分県立高等女学校(後に第一高等女学校と改称)や、大分県女子師範学校(後に第二高等女学校を併設)の校舎が見えます。

 この絵葉書は、現在の上野ヶ丘中学校の南側の高台から見た風景で、左に市街に向かう上野道(新しい中学道)で、大分中学から府内城下町(現在の大手通り)につながる通学路が見えます。遠景に府内城内にあった赤い屋根を持つ大分県庁が見えます。

 この絵葉書は、豊後製糸工場を挟んで東方向を見た風景で、遠景に大分川の鉄橋が見えます。

 この絵葉書は明治40年(1907年)11月の記念スタンプが押されており、大分郵便局が右に見えます。左に大分町と別府を結ぶ市電のレール(当時は単線で、後に複線となる)が見えており、現在の中央通り(トキハデパートがある目抜き通り)にあたります。不達絵葉書に押された「大分」の消印はこの郵便局で押されたと思われます。

 

5.謝辞 

 

 このページは、海上自衛隊幹部学校の本名龍児先生が、大分俘虜収容所でお亡くなりになったユリユウスパウル・キーゼヴェッターさんの御親族であるドイツの日本大使館武官カーステン・キーゼヴェッター大佐を、大分志手の陸軍墓地にあるお墓に案内されたニュースを聞いて、所蔵する絵葉書の中に俘虜収容所から出されたものがあったと思いだしてまとめた次第です。絵葉書の解釈にあたっては、本名先生をはじめ、別府大学文学部の安松みゆき教授の論文「大分にあった俘虜収容所」(別府大学文学部芸術文化学科 芸術学論叢 (18), 114-130, 2009)を参考にさせて頂きました。また、大正時代の大分市の絵葉書に関して、視点場(撮影地点)と建物の同定を大分大学工学部名誉教授の佐藤誠治先生のご協力を頂きました。ここに改めて皆様に心から感謝申し上げます。

 

         令和2年(2020年)11月12日(木)

 

         森本卓哉 拝 

                         (医学博士 防衛省陸上自衛隊予備二等陸佐 郷土史家)