Dr. 森本の

 

   病院スタッフ日誌

 

2017年

9月

26日

『認知症と大分回想法について』の講演をしました。

 

こんにちは。9月10日(日)に、大分市種具の社会福祉法人永生会清流苑様から御依頼を頂いて、ライフUPカフェ(認知症カフェ)で『認知症と大分回想法について』の講演に行ってきました。

 

講演では認知症に関するお話をした後、拙著『大分市の昭和(樹林舎 2017年)』に収録した戦前の大分市の写真や、三重町や臼杵、竹田などの大分県の代表的な古写真を供覧して半世紀以上前の郷土の風景を思い出して頂きました。講演中に御来場された方々から、戦前の学校の中心だった『奉安殿』の思い出のエピソードや、大分県の旧12郡の語呂合わせを語って頂き、講演後は昼食をご一緒にさせて頂いて私自身もとても楽しい一時を過ごさせて頂きました。

 

清流苑の児玉貞夫理事長先生をはじめ、職員スタッフの皆様には大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。11月には舞鶴清流苑で大分回想法の御話をするようにと御依頼を承り、手持ちの大分市舞鶴周辺の古絵葉書や古写真をスライドに用意しています。(^^)/ 

 

永生会清流苑ホームページブログ9月20日『ライフUPカフェ IN 清流苑デイサービスセンター』

                      (文:森本)

 

 

2017年

9月

11日

日本赤十字社大分支部跡の松

写真上:大分市高砂町にある日本赤十字社大分県支部跡の松(著者撮影)。写真下:日本赤十字社大分県支部発祥の地の記念碑と昭和40年代の写真©日本赤十字社
写真上:大分市高砂町にある日本赤十字社大分県支部跡の松(著者撮影)。写真下:日本赤十字社大分県支部発祥の地の記念碑と昭和40年代の写真©日本赤十字社

 

こんにちは。大分市街は昭和20年(1945年)の大分空襲で中心部の大半が焼失しましたが、一部の建物や樹木は残っており、大切に保存されています。前回は、『大分県教育発祥の地に立つクスノキ(2017年6月21日ブログ)』にて、大分県庁内にある、戦前は大分第一高等女学校にあった大クスノキを紹介しました。

 

今回は、大分市高砂町の大分オアシスタワーホテル近くにある、日本赤十字社大分支部跡に残っている松を紹介します。上の写真のように、大きな松の傍らに『日本赤十字社大分県支部発祥の地』の記念碑があります。明治36年(1903年)に府内城下の西の玄関である笠和口(竹町通りの西の端で、オアシスタワーなどがある現在地)に日本赤十字社大分県支部の社屋が完成し、大正11年(1922年)に日本赤十字社の総裁がこの松を御手植えされたことに始まります。

 

大分市は前回紹介した県庁前のクスノキをはじめ、府内城の御堀端にある松など、街の中心部にある古木を大切に残していることは素晴らしいと思います。この日赤大分支部跡前にある松も植えられてから95年が経過していますが、高さ10メートル以上の巨木に成長しており、今は日赤の建物がなくなっても当時の佇まいを残しています。これからもできるだけ大切に保存してほしいと思います。

 

                     (文:森本)

 

2017年

8月

21日

福沢諭吉が幕末に書いた英語の手紙

1862年(文久2年)に福沢諭吉が参加した遣欧使節の旅の帰途で、セイロン島ガル港の船上で書いた手紙の前半(表)部分。©慶応義塾大学
1862年(文久2年)に福沢諭吉が参加した遣欧使節の旅の帰途で、セイロン島ガル港の船上で書いた手紙の前半(表)部分。©慶応義塾大学

 

 こんにちは。郷土の先覚者である福沢諭吉はあまりにも有名ですが、先日、福沢が幕末に書いた直筆英文を興味深く読みました。華麗な筆記体で書かれています。心のこもった、わかりやすい表現で書かれていますが、意外に英語の中で文法的な誤りもいくつかあったことが新鮮な驚きでした。以下に、私が気が付いた範囲で訂正可能な部分を赤字で付記しています(下の青字は私の試訳と補記です)。この手紙は、日本が欧州各国と結んだ修好通商条約の調整のために1862年(文久2年)に派遣された遣欧使節の通訳として、品川→長崎→香港→シンガポール→セイロン→スエズ→カイロ→マルタ→マルセイユを経て、フランス、イギリス、オランダ、プロシア(現在のドイツ)、ロシア、ポルトガルを巡り、帰路はリスボンからアレキサンドリア→カイロ→スエズ→アデン→セイロン→シンガポール→メコン→香港を経て、日本に帰国するまでの1年間の長い旅の帰途に書かれました。イギリス領だったセイロン島(現在のスリランカ)のガル港に寄港した船上から、フランスで福沢ら使節と交流があったレオン・ド・ロニー(Léon de Rosny)氏に宛てたものです。当時福沢は27歳でした。

 

18 Dec.1862 

On board of the French steamer Europen (Européen in French orEuropean in English?) 

Point de Galle 

1862年12月18日(文久2年10月27日)

フランスの蒸気船ヨーロッパ号の船上にて

(セイロン島)ガル港より

 

    With pleasure I have received your charming note including in the letter to D Motouki at Alexanderia (Alexandria?), where we have arrived (on) 17th November; of course I was obliged to answer for it directly, but as soon as we arrived at Alexandeira I have departed there to Suez with some of our officers taking care for the baggages before Ambassadores (Ambassadors?) , so that I had no time to write the answer to you, I hope you would not be angry for it. 

11月17日に到着したアレクサンドリアにて、D Motouki 氏への手紙を含むあなたの素晴らしい書簡を頂き、感謝しております。もちろんすぐにご返事するつもりでしたが、アレキサンドリアに到着した後ただちににスエズに向かって出立した際に、上官と共に大使の荷物の管理をしていたため、ご返事を書く時間がありませんでした。どうぞ御容赦下さい。

 

   At(On) 20th of November we have departed from Suez with French steamer Europen arrived at Adens 28th of said month staying there five daies(days) departed from Aden (on) 3(r)d of d(D)ecember and arrived here (point de Galle) yesterday, supposing the voyage forward we shall be at Japan in 45 or 50 days more. 

11月20日に、フランス国籍の蒸気船『ヨーロッパ号』に乗ってスエズを出発して、アデンに28日に到着、そこで5日間滞在しました。アデンを12月3日に出発して、こちら(セイロン島ガル港)に昨日到着しました。私たちが日本に向かう航海は、あと45日~50日以上かかる見込みです。

 

(以下は手紙の裏面部分です⇩) 

   On board I have not much official busyness to do, so I am now studing(studying)  the French every day but in embrassment(embarrassment?) to understand it. 

船上では公的な忙しい用事がそれほどないため、今私はフランス語を毎日勉強しています。それでもフランス語を理解するのは難しいです。

 

  That you are always in good health have the same feelings for Japan and for myself, is the hearty wish of 

あなたがいつまでも健康であることは、日本にとっても私にとっても同じ、心からの願いです。

your upright friend

親愛なる友人

Foucousawa Youkitchy(Fukus(z)awa Yukichi)

福澤諭吉(日本語での縦書き署名)

 

 僭越ながら現在の視点から訂正可能な箇所を示しましたが、文法や綴りがほんの少し間違っているからといって、英語教育の先駆者である福沢諭吉の偉大さは少しも損なわれることはないと思います。むしろ後学の私たちに「あの福沢諭吉先生でさえ、間違えることがあるのだな~。それよりも真摯な文章の中身やコミュニケーションをする積極性が大切。」と、大事な教訓を与えてくれる気がします。

 

 150年以上前の幕末、欧米とは暦も異なる時代(手紙は宛先のレオン氏に合わせて西暦の日付で書かれていますが、当時日本は太陰暦で、太陽暦の西暦より約1ヶ月遅れていました)に、オランダ語に加えて英語を先駆的に学び、慶應義塾を創設した偉人に改めて敬意を表したいと思います。

 

参考文献:

慶応義塾 編 『福沢諭吉書簡集 第1巻』 岩波書店 2001年 

 

                                                   (文:森本)

 

 

2017年

8月

08日

医者が患者さんの死期を予測するということ 

森鴎外著『カズイスチカ』が収録されている、鴎外全集(岩波書店 昭和47年刊)の第8巻です。
森鴎外著『カズイスチカ』が収録されている、鴎外全集(岩波書店 昭和47年刊)の第8巻です。

 

 こんにちは。

 

 明治の文豪  森鴎外の本業は医師で、陸軍軍医を務めていたことは有名ですが、鴎外の小説に『カズイスチカ』という短編があります。明治42年(1909年)に発表された作品で、東京で開業していた父 静泰の診療を、大学時代に手伝っていた鴎外自身の視点から描いたものと言われています。カズイスチカ(Casuistica)とはラテン語で、現代風に訳すと「臨床診療学」というような意味になります。

 

 あらすじは、大学を卒業して医学士となった主人公の花房が、東京で開業していいる父(翁)の診療を手伝った際に、大学で習った医学とは程遠い診療を行う父に反発すると同時に、患者さんに対する真摯な姿勢や死期を予測する確かさに感銘を受けたことを中心に描かれています。翁は、患者さんを単なる症例(casus:カズス)として見るのでなく、今で言うところの全人的医療として『カズイスチカ』を実践する医師として描かれています。以下、小説の該当部分を引用します:

 

『若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coupd' Œ il (クウ ドヨイユ) であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬる。それが花房にはどう見ても分からなかった。只これだけなら、少花房が経験の上で老花房に及ばないと云うに過ぎないが、実はそうでは無い。翁の及ぶべからざる処が別に有ったのである。翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以(も)って病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫(もてあそ)んでいる時もその通りである。茶を啜(すす)っている時もその通りである。』

 

 以上、森鴎外 著『カズイスチカ』より抜粋しました。上記の、Coupd' Œ il (クウ ドヨイユ)とは、フランス語で「一見」の意味で、この場合『一目で理解する洞察力』を表しています。

 

 現在の医療でも、臨床所見に加えて血液データや画像所見などを元にすると、死期をある程度予測することは可能です。例えば1日排尿量は、数時間~翌日の死期の目安になることがあります。私は医師になって20年目ですが、ほぼ死期が予期できる場合がある一方で、予期できないこともあります。後者については、そもそも人の寿命を予測することは不可能という考えもありますし、現代医学にも限界があるのは当然ですが、折に触れて『カズイスチカ』の翁を思い出して、全幅の精神を持って患者さんを診なければ、と日々自省しています。。。

 

参考文献 :『鴎外全集 第8巻 カズイスチカ』岩波書店 昭和47年(1972年)

参考サイト:青空文庫  森鴎外著『カズイスチカ』

 

                       (文:森本)

 

2017年

7月

20日

追悼 日野原重明先生

日野原先生が幼少時に大分を訪れた際に乗船された『くれなゐ(紅)丸』の絵葉書(著者所収)。幼い子供の頃に乗った船の名前を憶えておられるのも素晴らしいと思いました。。。
日野原先生が幼少時に大分を訪れた際に乗船された『くれなゐ(紅)丸』の絵葉書(著者所収)。幼い子供の頃に乗った船の名前を憶えておられるのも素晴らしいと思いました。。。

 

 聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が、7月18日に享年105歳でお亡くなりになられたニュースを知りました。心から御悔みを申し上げます。

 

 大学時代に、日野原先生の講義を拝聴したことを覚えています。先生の自己紹介で、牧師のお父様が大分メソジスト教会に赴任して、幼少期を大分市で過ごされた御縁から、大分を第二の故郷のように思っておられると伺って身近に感じました。講義は先生が『生活習慣病』という言葉を提唱されたお話から始って、『聴診器のチューブは短い方がよく聞こえます。私は回診の時に聴診器を持っていない時にはハンカチを当てて直接耳で聞くこともあります。』などの実践的な御話をしていただきました。また、『君たちは将来医師になるのですが、この中で大病をして入院したことのある人はほとんどいないんじゃないかな?』と話され、ご自身が京都大学在学中にご病気をされてしばらく休学されたお話をされました。『私の一番のお薦めは、患者の手記を読むことです。特に医師や看護師など医療関係者の手記は正確に書かれていますから是非読むように。』とアドバイスされたことが印象的でした。以来、できるだけ患者さんの手記を読むようになり、今も私が大学で講義するときには日野原先生のお薦めのお話を、医学生に伝えるようにしています。

 

 改めて先生の偉大さを感じております。合掌。

 

 

参考サイト:

朝日新聞2017年7月18日『日野原重明さん死去 105歳 聖路加国際病院名誉院長』

朝日新聞2017年7月18日『質素なにぎり飯の観音さま  寂聴さん、日野原さん悼む』

朝日新聞コラム 日野原重明先生『105歳 私の証・あるがまま行く』

 

                      (文:森本)

 

2017年

7月

18日

三十年ぶりに食べたラーメンの味

 

こんにちは。写真は大分市大手町1丁目の遊歩公園沿いにある老舗『清陽軒本店』のラーメンです。金池小学校のすぐ近くにあり、今から三十年以上も前になりますが、小学生の頃に家族や友達と食べた記憶があります。清陽軒は、久留米の大砲ラーメンのルーツであり、昭和35年(1960年)に開店したときには、その大分支店だったそうです。その後、久留米発祥のこってりとした豚骨ラーメンが、さっぱりとした味を好む大分県民に合わせて変化したそうで、今では有名人が御忍びで来るお店として知られています。店内には当院で職員向けの教育講演をして頂いたOBS大分放送の村津アナウンサーの色紙もありました(下記サイト参照)。

 

それにしても、三十年以上昔に味わったラーメンを食べると、小学生時代のいろいろなことが思い出されて不思議でした。これも回想法の一つかもしれませんね!店のおかみさんが今も調理をされている姿にも感動しました。今後も近くに行った時には、ぜひ立ち寄ってみたいと思います。皆様も興味ある方はぜひ清陽軒本店を訪れて下さい。

 

参考サイト:

西日本新聞2014年12月18日  モノクロ写真の物語 清陽軒本店(大分市)

 

当院ブログ2015年8月27日記事:「OBS村津孝仁アナウンサー講演会『患者さんに信頼される話し方やコミュニケーションを学ぶ』を開催しました。」

  

 

                                                  (文:森本)

 

2017年

7月

12日

若い米国人に『TOP GUN』が通じなかった話と、『TOP GUN 2 』

映画「TOP GUN」より ©Paramount Pictures 
映画「TOP GUN」より ©Paramount Pictures 

 

 こんにちは。

 

 先日、豊後大野市の小中学校にALT(Assistant Language Teacher:外国語指導助手)として勤務されている若い先生(米国人)と話していた時のことです。「トップガンという映画は見ました?」と聞くと、「そんな古い映画は見たことないですね~。」との答えが帰ってきました。「トップガン(TOP GUN)」は1986年に公開された米国映画で、若いALTの先生が生まれる前のことなので知らなくても当然なのですが、これまで初対面の米国人には「TOP GUN」を、中国人に「三国志」の話は滑らない鉄板ネタとして自信がありましたが、前者はついに滑ってしまいました(^^;)。。。

 

 米国では1980年~1990年代生まれの若者は『ミレニアル(millenial )世代』と呼ばれ、2000年以降に生まれた世代は『Z世代』と言って、生まれたときからインターネットに親しんでいることで、「Internet Native」とも呼ばれています。そういえば米国留学時に一番わかりにくかったのは現地の高校生の言葉で、「sort of」や「I feel like that~」など、ちょうど日本の若者が「~みたいな?」と言うのと同じような感じで早口で話すのがわかりづらかったです(^^;)、、、。

 

 ところで、TOP GUN 続編の製作をトム・クルーズが決定(公開は2019年7月の予定)」というニュースを見かけました。『トップガン』の主演俳優トム・クルーズは、映画の続編を製作する権利を持っているそうです。あの『STAR WARS』のように昔流行した映画の続編が作られることで、世代を超えて話ができるネタが増えるかも?とオジサンとしては喜んでいます。

 

参考サイト:

BBC ニュース2017年5月24日『Tom Cruise confirms Top Gun sequel』←←※トム・クルーズが続編を製作することを決めたというニュースです。下のウィキペディアの下の方にも続編の情報が掲載されています。

 

TOP GUN wikipedia (ENGLISH) 

 

映画「TOP GUN」 ウィキペディア(日本語版)

 

  

                           (文:森本)

 

2017年

7月

03日

大分の高校がマンガやアニメ番組の舞台に!

写真右上:正門から見た大分上野丘高校の本館(著者撮影)、写真右下および左:アニメーション番組「ReLIFE」より ©夜宵草 / comico / リライフ研究所
写真右上:正門から見た大分上野丘高校の本館(著者撮影)、写真右下および左:アニメーション番組「ReLIFE」より ©夜宵草 / comico / リライフ研究所

 

こんにちは。

 

 若者に人気のマンガ、アニメ番組に『ReLIFE』という作品がありますが、これは大分上野丘高校をモデルにしたものだそうです。私も先日見て驚きましたが、上の写真のように建物が本物そっくりで、高校生の制服が一部似ているのに驚きました(※実際は男子は詰襟で、女子の制服は襟とスカートが同色です)。

 

 あらすじは、職場を退職した27歳の男性が謎の研究所(リライフ研究所)から『1年間の高校生活を送る実験』への参加を提案され、現在の記憶や知識のまま高校生時代の体に戻って、17歳の高校三年生と一緒にもう一度高校生活をやり直すというストーリーです。作者は上野丘高校の卒業生だそうです。

 

 とても面白い作品だと思います。ただ私自身はもしも実際に『ReLIFE』のように高校生活をやり直すというプログラムを勧められたとしても、遠慮しておきたい気がします。母校には同窓会の理事や委員として時々訪問していますが、現在の高校は今の学生たちのものであり、少しでも彼らを支援できればという父親のような気持ちになっているからだと思います。『ReLIFE』の主人公のような20~30代だったらやり直したい気持ちも起きるのかもしれませんが、それ以上に年齢を重ねたからかもしれません。。。(^^;)

 

                    (文:森本)

 

参考サイト:

大分合同新聞2016年7月16日『ReLIFEアニメ化 夜宵草さん「楽しんで」』

 

 

 

2017年

6月

26日

『戦前の高崎山から見た風景~その2 由布院方向』

写真上:高崎山頂上から見た西方向(由布院方向。由布山と鶴見山が遠景に見える)。写真下:北方向(別府市街)。上の写真の右下の樹木と、下の写真の左下に映っている樹木は同じと思われる。(筆者所収)
写真上:高崎山頂上から見た西方向(由布院方向。由布山と鶴見山が遠景に見える)。写真下:北方向(別府市街)。上の写真の右下の樹木と、下の写真の左下に映っている樹木は同じと思われる。(筆者所収)

 

こんにちは。

 

以前、このブログで『高崎山(城)から見た風景(2014年12月26日)』として、戦前に撮影された、高崎山頂上から北方向の別府市街の絵葉書を紹介しました。先日、高崎山から見て西方向の由布院側の風景の絵葉書を入手しましたので、北方向の別府市街を望む絵葉書と合わせて紹介します。

 

高崎山は大分市の『高崎山セラピー道路』整備により、戦後伸び放題になった樹木が少し伐採されたため、以前に比べると高崎山から見た別府湾の風景が見えるようになりました。それでも、『戦前の絵葉書のような風景は樹木があって今でも見えない』と、「森林セラピートレイルランニング大会 in のつはる」大会理事長を務められた阿南徹さんから教えて頂きました。

 

高崎山は古くは『四極山(しはつやま)』と呼ばれ、頂上からは別府湾や由布山、鶴見山など四方が見渡せて、豊後国府がある府内(現在の大分市)のどこからでも望める象徴的な山として知られていました。今後、高崎山セラピー道路が更に整備されて、古代や中世から戦前までの風景が取り戻せるとよいですね!

 

                       (文:森本)

 

2017年

6月

21日

大分県教育発祥の地に立つクスノキ

 

 こんにちは。写真は大分市荷揚町の大分県庁正門前のバス停の横に立つ『大分県教育発祥の地』と『大分県立第一高等女学校碑』の写真です。左側の遊歩公園道路遠方には、大分城址公園(府内城)の着到櫓が見えています。写真の中央に聳える大木はクスノキで、戦前から大分第一高等女学校の敷地内にあったそうです。

 

 五角形の大分県教育発祥の碑の背面には、以下のような文章が刻まれています。昭和41年(1966年)に大分大学の教育学部同窓会が創立90周年を記念して建立したそうです。(※西暦は筆者が記載しました。)

 

       発 祥

 

大分県師範学校   明治 9年(1876年)10月

大分中学校     明治18年(1885年)  5月 

大分第一高等女学校 明治33年(1900年)4月

大分県女子師範学校 明治40年(1907年)2月

 

     大分大学教育学部同窓会

 

碑文について補足します。

 

①明治9年(1876年)に現在の碑や大分県庁の本館が立つ土地に大分県師範学校が開学します。その翌年の明治10年(1877年)に起こった西南戦争では西郷軍に呼応した増田宗太郎の中津隊が府内城内の大分県庁に向けて発砲する(後に撤退)など、世情が不安定な時代でもありました。

 

②明治33年(1900年)に大分県師範学校が春日浦(当時は海岸沿い)近くにある現在の大分市王子北町へ移転したことに伴い、大分県立大分第一高等女子学校が大分県師範学校の旧校舎を受け継ぐ形で開学しました。

 

③大分県立大分中学校は明治18年(1885年)に当時の大分県師範学校の北側、現在の大分県庁新庁舎の土地に誕生しました。その後、校舎が手狭となり、明治27年(1892年)に上野丘に移転して、戦後の大分上野丘高校の前身となります。

 

④大分県女子師範学校は、明治40年(1907年)に大分高等女学校に併設する形で開学し、明治44年(1911年)に大分市長浜町(現・長浜小学校の地)に移転しました。

長浜町に移転した女子師範学校に併設する形で、昭和5年(1930年)に大分第二高等女学校が開設されます。

 

このように現在の大分県庁の敷地がある一帯は、大分の主要な学校が最初に開設された地であり、まさに「大分県教育発祥の地」ですね。今では当時の遺構は発祥碑の隣にある大きなクスノキのみのようですが、そう考えるとひっそりと佇む大楠が何かを語りかけてくれるようですね。。。

 

                          (文:森本) 

 

2017年

6月

13日

訪問診療で見かけた鹿

 

こんにちは。

 

先日、訪問診療で豊後大野市内の某所に向かっている途中で、道路の真ん中にいた

小鹿に遭遇しました。ミミズを食べることに夢中なのか、車が近づいてもゆっくりと道路脇によけながらしばらくこちらをじっと見ていたので撮影できた写真です(^^;)。私が5年前から往診をはじめて、道路の真ん中にいた鹿に遭遇したのはこれで2回目ですが、これまでイノシシはもちろん、その子供(ウリボウ)が1列になって道路を横切ったり、道路を歩いて横切っていたキジも見かけました。

 

私は市街で育ったこともあり、これまで直に上記の動物を目にすることはなかったので、訪問診療で豊かな自然に触れることは新鮮な喜びです。ただ地元に住む方々にとっては、徐々に里山に降りてきているサルを含め、農作物を荒らす鹿や猪による被害が問題になっていて、対策に心を痛めておられるそうです。難しい問題ですね。。。

 

                       (文:森本)

 

2017年

6月

06日

三重農業高校と三重総合高校の三角屋根

 

こんにちは。先日、三重町秋葉の大分県立三重総合高校に行った時に、三角屋根の意匠のある校舎を見て、大正時代に撮影された三重農業高校の外観と似ていると思い、二つの写真を比較してみました。新校舎を作る際や増改築の際に昔の学校の外観を参考にしたデザインの例は、他にも大分上野丘高校などがあります。

 

ところで当院の病棟の壁には、「大分回想法」と題して1週すると大分県の三重町から大分市、別府、日出町、中津、久住、竹田、臼杵、佐伯など主な地域の100年前の写真が一覧できるように古写真のパネルを展示しています。下の写真もパネルの一つですが、三重農業高校を御卒業された患者さんや周辺に住む方々が「この三角屋根が特徴やったんや。懐かしいなあ!」とよく仰ってくれます。

 

現在私たちにとっては見慣れた風景も、昔の写真と比べると新しい発見があることが面白いですね!

 

                   (文:森本)

 

2017年

6月

21日

大分県教育発祥の地に立つクスノキ

 

 こんにちは。写真は大分市荷揚町の大分県庁正門前のバス停の横に立つ『大分県教育発祥の地』と『大分県立第一高等女学校碑』の写真です。左側の遊歩公園道路遠方には、大分城址公園(府内城)の着到櫓が見えています。写真の中央に聳える大木はクスノキで、戦前から大分第一高等女学校の敷地内にあったそうです。

 

 五角形の大分県教育発祥の碑の背面には、以下のような文章が刻まれています。昭和41年(1966年)に大分大学の教育学部同窓会が創立90周年を記念して建立したそうです。(※西暦は筆者が記載しました。)

 

       発 祥

 

大分県師範学校   明治 9年(1876年)10月

大分中学校     明治18年(1885年)  5月 

大分第一高等女学校 明治33年(1900年)4月

大分県女子師範学校 明治40年(1907年)2月

 

     大分大学教育学部同窓会

 

碑文について補足します。

 

①明治9年(1876年)に現在の碑や大分県庁の本館が立つ土地に大分県師範学校が開学します。その翌年の明治10年(1877年)に起こった西南戦争では西郷軍に呼応した増田宗太郎の中津隊が府内城内の大分県庁に向けて発砲する(後に撤退)など、世情が不安定な時代でもありました。

 

②明治33年(1900年)に大分県師範学校が春日浦(当時は海岸沿い)近くにある現在の大分市王子北町へ移転したことに伴い、大分県立大分第一高等女子学校が大分県師範学校の旧校舎を受け継ぐ形で開学しました。

 

③大分県立大分中学校は明治18年(1885年)に当時の大分県師範学校の北側、現在の大分県庁新庁舎の土地に誕生しました。その後、校舎が手狭となり、明治27年(1892年)に上野丘に移転して、戦後の大分上野丘高校の前身となります。

 

④大分県女子師範学校は、明治40年(1907年)に大分高等女学校に併設する形で開学し、明治44年(1911年)に大分市長浜町(現・長浜小学校の地)に移転しました。

長浜町に移転した女子師範学校に併設する形で、昭和5年(1930年)に大分第二高等女学校が開設されます。

 

このように現在の大分県庁の敷地がある一帯は、大分の主要な学校が最初に開設された地であり、まさに「大分県教育発祥の地」ですね。今では当時の遺構は発祥碑の隣にある大きなクスノキのみのようですが、そう考えるとひっそりと佇む大楠が何かを語りかけてくれるようですね。。。

 

  

 

2017年

5月

30日

東大史料編纂所の本郷教授に「大友の読み方はオオドモでは?」について伺ってみました。

こんにちは。5月21日(日)に大分市コンパルホールで、大分県立埋蔵文化センター開館記念講演会のシンポジウム『大分市と戦国時代』が開催され、テレビで御馴染みの東京大学資料編纂所教授の本郷和人先生や奈良大学教授の千田嘉博先生がそれぞれ、『大友氏の実像をさぐる』、『大友氏と城館』について特別講演を行っていたので聞いてきました。本郷先生はなぜ源頼朝が豊後大友氏初代の能直を重用したのかについて、系図や当時の地理的な環境を具体的に講義されていたことが非常に面白かったです。また、大分県立大分西高校三年の2人の女子高生が『中世大友氏に関する覚書』について学んだことを研究発表して、本郷先生と千田先生から絶賛されていたことも素晴らしかったです。

 

シンポジウムの最後で少し時間が余ったとのことで、司会者の方から「フロアの方から質問はありませんか?」と呼びかけがあったので、本郷先生にぜひ聞いてみたかった以下の質問をしてみました。

 

森本:『大友氏の読み方として、ふだんは「おおとも」と呼ばれているけれど、宣教師が書いた文書にはローマ字でtではなくdが用いられていて、『オオドモ』と読めます。郷土史家の芦刈先生から伺った話ですが、元寇の役の際に一時撤退した大友頼泰を揶揄した落首として『大友は 子供うち連れ 落ち行きて 方々にこそ よりやすみけれ(「寄り休み」は「頼泰」の掛詞)』があり、子供(コドモ)の対比語として「オオドモ」と読めるのではないでしょうか?』

 

これに対して、本郷先生は『すみませんが良く知りません。ただ一般論として恰好をつけて間違うよりも無難に読む方がいいかなあと私は思います(笑)。戦国大名の浅井氏も昔のテレビ番組では「あさい」と呼ばれながら、最近の大河ドラマで「アザイ」と呼ばれるようになりましたが、これは小和田哲男先生のこだわりというか、地元の人の読み方を尊重したもので明確な証拠はありません。宣教師やローマ字で書かれた文書も、伊達政宗はIDATEと書かれたり、黒田官兵衛をカンノヒョウエと読ませたりしているので、すべてを正確な発音で記載していたかどうかは不明です。いずれにしても非常に鋭い卓見だと思います。』と、大変明快に答えて頂きました。

 

大友氏の読み方は「オオドモ」だったのでは?という疑問は、2014年8月20日のブログ『芦刈先生との歴史談義① おおども宗麟』で郷土史家の芦刈政治先生とのお話でも紹介した話題ですが、昨年芦刈先生がお亡くなりになってからそのままになっていた宿題でもあり、ずっと気になっていました。

 

一説によると、関東では大友(オオドモ)と呼ばれていて、鎌倉時代の豊後下向の際におおともに替わったとする説を唱えている歴史家もおられると、会場の方から教えて頂きました。私の興味は大友宗麟の戦国時代にも「オオドモ」と呼ばれていて、宣教師がと割と正確に書き記したのではないかということです。

 

これから時間を見つけてポルトガル語を勉強してみようかな、と思った有意義な会でした。御答えを頂いた本郷教授に心から御礼申し上げます。

 

                    (文 森本)

 

(※筆者付記)

ポルトガル人の宣教師・通訳ロドリゲス・ジョアンが書いた「日本語小文典」には「Vôdomodono(大友殿)」と書かれています。Vôはオオと読み、その次に t ではなくdと記されて「オオドモ」と読める点について、例えば伊東氏に関して「Itôdono(伊東殿)」と書いていることから、当時の宣教師は「と(to)」と「ど(do)」を聞き分け、区別して記録していたのでは、と私は考えています。

 

 

2017年

5月

15日

英国医療機関を中心にサイバー攻撃があったニュース

こんにちは。

 

以前にこのブログで紹介しました(2016年5月9日『電子カルテは危険?~米国のニュースより』)が、医療機関を含む公的機関へのサイバー攻撃が欧米で社会問題になっています。先週末の5月13日には100か国にコンピュータウイルスが欧州の医療機関などを中心に広がったことがニュースで大きく取り上げられました。

 

『ランサム(身代金)ウェア』というコンピュータウイルスは電子メールに添付されたファイルを開くなどしてコンピュータが感染すると、感染を解除するキー代として、コンピュータ1台ごとに300ドル(約3万円)を仮想通貨ビットコインが要求されたそうです。特に被害が甚大だったのは、英国のNHS(国民保健サービス)という医療ネットワークで、ロンドンの5つの病院で全ての外来診療を取りやめたり、予定手術の中止が行われたそうです。なお今回のコンピュータウイルスはもともと米国家安全保障局(NSA)が監視活動用に開発したもので、4月にハッカー組織が入手して拡散したものだそうです。

 

コンピュータネットワークの仕組み上、上記のような事件は今後も起こりうるでしょう。日本でも医療機関のコンピュータ化や電子カルテ化が進みつつありますが、『究極の個人情報』といわれる患者さんの医療情報をきちんと守れるのかどうか、慎重に検討しなければいけないと思います。

 

                   (文:森本)

 

2017年

5月

08日

郷土史コラム『戦前の竹町通りの右横書きと左横書きが混じった風景』

 

昭和14~15年頃の竹町通り入り口(電車通り側から撮影)の風景絵葉書(著者所収)
昭和14~15年頃の竹町通り入り口(電車通り側から撮影)の風景絵葉書(著者所収)

 

こんにちは。上の絵葉書は太平洋戦争が起きる少し前の、昭和14年~15年(1939年~1940年)頃の大分市竹町通りの写真です。5年余り後の昭和20年の大分空襲で、竹町通りはほぼ全焼してしまいますが、写真は当時電車通り(碩田橋通り)と呼ばれた、今の中央通り(トキハデパート前のスクランブル交差点がある大通り)の側から撮影されました。竹町通りアーケードの看板が「竹町通」と現在のような左横書き(左から右に向けて横に続けて書く)で書かれている一方、その上奥に「久長運武(※武運長久=ぶうんちょうきゅう、を右横書きで書いたもの)」と、右から左に向けて横に続けて書く、右横書きの書き方が入り混じった風景になっています。

 

私は以前は、現在のような左横書き(このホームページも左横書きですね)になったのは戦後以降と思っていましたが、戦前絵葉書を収集するうちに太平洋戦争が始まる少し前から、上の絵葉書のように現在の左横書きが少しずつ普及した風景写真があることに気づきました。それでも当時の新聞の見出しや正式な横断幕などは、日本古来の右横書きが主流でしたが、絵葉書の右側に写っている「日進堂文具店」のような左横書きの看板も街中で普及していたようです。

 

なぜ日本語の表記が右横書きから左横書きに変化したかというと、絵葉書の右下の説明文のように、日本語と英語を併記する際にお互いに反対になる(説明文で英語で「TAKEMACHI-STREET」で書いてある一方、右横書きで「所名分大」※大分名所、というように真逆の書き順になる)ことで見づらいからでしょう。戦前に英語を学んでいた学生も、英語の下に日本語訳を書くときには左横書きにして書いてたことを、大分高等商業学校に10年間勤務されていたホーンビー先生の事績を調べる中で当時の教科書の書き込みなどで確認しました。(ご興味のある方は『ホーンビー先生の大分高商での英語教育』ページをご参照ください。)

 

ところで世界の言語は、英語のような左横書きが多い反面、昔の日本語やアラビア語、ヘブライ語は右横書きだそうです。アラビア語は書道の文化もあるそうですが、さまざまな文化の類似や違いが興味深いですね!

 

                      (文:森本)

 

 

 

2017年

5月

02日

樹齢110年の嘉仁親王(皇太子)御手植の松

写真左:明治40年11月に、大分市の府内城の庭園に植えられた嘉仁親王御手植の松(行啓寫眞帖 所収)、写真右:明治40年5月に鳥取県米子市に植えられて、今も保存されている嘉仁親王御手植の松
写真左:明治40年11月に、大分市の府内城の庭園に植えられた嘉仁親王御手植の松(行啓寫眞帖 所収)、写真右:明治40年5月に鳥取県米子市に植えられて、今も保存されている嘉仁親王御手植の松

 

こんにちは。写真右(カラー写真)は、昨年12月に日本臨床薬理学会で鳥取県米子市を訪れた時に、湊山公園にある『嘉仁親王(皇太子)御手植之松』と書かれた松を撮影したものです。高さ約15メートルの巨大な松で、5階建てのビルや東京お台場にあった等身大の機動戦士ガンダム(約18メートル)くらいの大きさです。学会出席のため、朝7時ごろに湊山公園に行って撮影した慌ただしい写真です(^^;)が、米子駅でもらった観光パンフレットに「嘉仁親王御手植の松」とあるのを見かけたときに、大分城址公園(府内城)整備検討委員として当時のことを調べていた矢先で不思議な御縁を感じました。

 

嘉仁(よしひと)親王は後に大正天皇として即位されますが、皇太子時代の明治40年(1907年)に行啓(ぎょうけい:皇太子など皇族がお出かけになること)で日本各地を訪問されます。鳥取県米子町(当時)には明治40年5月に滞在されており、その年の11月には大分県を訪れて写真左(白黒写真)のように御宿泊された府内城東の丸御殿の庭園で松を植えられています。府内城の御手植の松は残念ながら戦災で焼失したと考えられていますが、米子市の御手植の松は立派に残っており、もしも戦禍を逃れていたら大分にも巨大な御手植の松があったかもしれませんね。

 

それにしても、明治40年(1907年)に植えられて、今年樹齢110年となる松は15メートルもの高さにもなるのだな~と改めて実感した山陰の旅でした。

 

                        (文:森本)

 

 

2017年

4月

14日

豊後大野市介護認定審査会

こんにちは。桜の開花が今年は随分遅れましたが、4月10日ブログで紹介されたように三重川沿いの桜が満開ですね。

 

4月から豊後大野市の介護認定審査委員となり、先日今期最初の審査会に参加してきました。当院に赴任してから、地域で要請されることはできるだけ引き受けると決めて医師会の委員会や専門学校や大学の講義などを承ってきましたが、今回の審査委員のお仕事も大変勉強になりました。病院の毎日の診療で、主治医意見書を書くことは日常茶飯事であり、他の審査委員の方々とディスカッションをしながら判定を進めていく中で新しい気づきも多かったです。今後も日々精進して、少しでも地域のお役に立てればと思います。

 

                    (文 森本)

 

2017年

3月

27日

建設中の大分川ダム

 

こんにちは。先日、大分市野津原で行われたスポーツ大会で救護班を依頼されて出張したのですが、会場に行く途中に建設中の大分川ダムを見てその壮大さに驚きました。

 

大分川ダムは、大分川水系七瀬川の大分市下原地先に多目的ダムとして建設され、高さ約92メートル、長さ約500メートル、総貯水容量約2400万 立方メートル、有効貯水容量約2240万 立方メートルの規模を誇り、洪水調節、流水の正常な機能の維持、水道用水の供給を目的とするそうです。

 

現在、水のせき止め部分に当たる「堤体(ていたい:ダムや堤防の本体)」の工事に入っていて完成は今年度の予定だそうです。堤体に岩石や土を積み上げて造る「ロックフィルダム」というダムとしては珍しい形式で作られていて、来年度と再来年度は水をためてダムの安全性を確認し、2020年度に供用を始める予定だそうです。かつて大分市と野津原町が合併した一つの要因は、この大分川ダムの建設と聞いたことがありますが、今後の完成が楽しみですね!ご興味がある方はぜひ行かれてみて下さい。

 

                     (文 森本)

 

(参考サイト)

大分市ホームページ「大分川ダム」

大分合同新聞2016年6月2日記事「大分川ダム“着々” 本体工事、最終段階に」

 

2017年

3月

21日

吉野村の春藤猪三男先生の思い出

大分市梅が丘の吉野梅園入り口にある、『春藤猪三男先生頌徳碑』
大分市梅が丘の吉野梅園入り口にある、『春藤猪三男先生頌徳碑』

 

こんにちは。写真は大分市吉野梅園の入り口にある『春藤猪三男先生頌徳碑』で、高さが3メートル以上の大きな碑です。圧巻春藤先生は大分駅が開通した明治44年(1911年)3月3日に現在の大分市松岡で生まれ、京城医学専門学校を卒業後、台北帝国大学理学部を昭和19年(1944年)に卒業して昭和21年(1946年)に日本に帰国してからは吉野村(現在の大分市梅が丘周辺)で地域医療に従事されました。

 

昭和43年(1968年)生まれの私の記憶にある春藤先生はとにかく偉い人というイメージで、幼稚園か小学校低学年のころに吉野の実家に近所の人がたくさん集まって広間で車座になっているときに、その真ん中に来るように言われて座ると、ちょうど春藤先生にとって御尻を向けた方向で座ってしまったので、おじいさんから怒られた記憶があります(^^;)...。ただそのときにもニコニコと穏やかにされていた春藤先生が印象的でした。春藤先生はその後、大南町教育委員長や大分市議会議員をされて、お亡くなりになったときは写真のような大きな顕彰碑が建てられました。改めて碑文を読むと先生の笑顔が眼に浮かびます。。。

 

                       (文:森本)

 

2017年

3月

10日

3月12日(日)国際医療支援の吉岡秀人先生講演会

 

こんにちは。TBSテレビ『情熱大陸』に番組史上最多の取材を受けて大きな反響を呼んだ、国際医療支援に従事されている吉岡秀人先生の御講演が、3月12日(日)午後2時から大分市のコンパルホールで開催されます。

 

吉岡秀人先生は国立大分医科大学(現在の大分大学医学部)を平成4年(1992年)に御卒業され、ミャンマーやカンボジアの国際医療支援組織であるNPO法人ジャパンハートを立ち上げながら、長年に亘って活動されています。とても感動的な医療講演ですので、ご興味のある方はぜひご参加ください。

 

チケットのお問い合わせは、講演会の主催である情報誌「い~ち」編集部:電話番号097-549-6263か、ファン薬局の最寄りのお店でお問い合わせください。

 

                      (文:森本)

 

参考サイト:TBSテレビ『情熱大陸・吉岡秀人医師』

 

 

2017年

2月

27日

大分市街近くに空港があった50年前の風景

昭和40年頃の大分市街の航空写真絵葉書です。(画面をクリックすると拡大します)
昭和40年頃の大分市街の航空写真絵葉書です。(画面をクリックすると拡大します)

 

 こんにちは。写真は今から50年前、昭和40年(1965年ごろ)の大分市街の航空写真です。画面の左方向が北で別府湾が見えています。大分川に架かっている左側の橋(弁天大橋)を渡ると、すぐに旧大分空港に着くことができました。空港には飛行機の格納庫や、北西に伸びる1本の滑走路が見えています。さらに遠方には新日鉄などの工場群が建設される前の広大な埋立地が広がっています。大分市にあった旧大分空港は昭和14年(1939年)に大分海軍航空隊として開設された後、終戦に伴う米軍接収を経て昭和31年(1956年)に返還されて以来、昭和46年(1971年)に国東にある現在の大分空港が完成するまで使用されていました。

 

 当時の大分市のパンフレットには、『市街近くに空港と港がある東九州の玄関』などのキャッチフレーズをよく見かけます。もしも、ですが旧大分空港が当初の計画の通りに新しい埋立地に拡張移転していたら、今の福岡空港よりもっとアクセスが良い『空と海の玄関』として大分県全体がさらに発展していたかも(!?)と空想することがあります(^^;)。。。

 

 上記はさておき、絵葉書では大分空港のさらに遠方に広大な埋立地が広がっていて、これから新日鉄や昭和電工などの新しい工場群、海上の赤いシーバースなどが建設されることになります。昭和電工の大分工場建設を手掛けた技術者の人生を描いた有名な小説「生命燃ゆ」は、後に渡哲也さん主演でテレビドラマにもなりましたね。また、絵葉書の中央を東西に走る大きな道路は国道197号線ですが、府内城周辺から舞鶴橋へは『昭和通り』と呼ばれて、大分駅前から北に伸びる『電車通り(現在の中央通り』と並んで大分市の交通網の柱となります。この絵葉書には、府内城に建設された大分文化会館や、戦前からの建物が残っている府内城西側の旧大分市役所、旧大分県教育会館、トキハデパートの建物も印象的です。

 

 この絵葉書は戦後の大分の新しい息吹と、戦前からの伝統を感じさせてくれる写真だと思います。ご興味のある方はご笑覧ください。(写真をクリックすると拡大します)

 

                     (文:森本)

 

参考サイト:

大分空港 wikipedia 

高杉良著『生命燃ゆ』徳間文庫

渡哲也主演『生命燃ゆ 妻よ娘よ、わが人生に悔いなし』 [DVD]

 

『回想法に役立つ大分の風景』(当院ホームページサイト):戦前の大分の写真を集めています。今回の絵葉書(昭和40年頃の撮影)に写っている、旧大分市役所や旧大分県教育会館をはじめ、電車通り(現在の中央通り)にあった旧二十三銀行・大分合同銀行本店やトキハデパート旧館などの戦前絵葉書をアップしています。

 

2017年

2月

20日

『豊後麻地酒・肥後麻地酒の製法』のページ

ホームページ横の青いメニューバー下のアイコンか、上のアイコンを押すと「豊後麻地酒」の頁に移動します。
ホームページ横の青いメニューバー下のアイコンか、上のアイコンを押すと「豊後麻地酒」の頁に移動します。

 

こんにちは。室町時代~江戸時代にかけて豊後を中心に肥後で生産されていた麻地酒は『幻の名酒』といわれています。

 

小瀬甫庵が著した太閤記に、『名酒には加賀の菊酒、麻池(地)酒、其外(そのほか)天野、平野、奈良の僧坊酒、尾の道、児島、博多の煉(ねり)、、と書かれているように、豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に京都の醍醐寺で行った花見に集められた全国のお酒の中で、加賀の菊酒と並んで名酒として特筆されていました。残念ながら明治15年(1882年)に起こった日出城麻地蔵の火災や、太平洋戦争前後の米不足に伴って製造が途絶えたことにより、麻地酒の具体的な製造方法が不明となっていましたが、筆者が入手した元禄2年(1689年)に書かれた『合類日用料理抄(筆者所蔵)』に豊後麻地酒と肥後麻地酒の製法が書かれていたことから、上記のページで紹介したいと思います。『合類日用料理抄』の解読は臼杵市歴史資料館史料専門員の松原勝也さんにお願いしました。

 

ご興味のある方はぜひご覧いただければ幸いです。福岡県で博多練酒が再興された(下記参考サイト参照)ように、将来豊後麻地酒や肥後麻地酒が復活して、大分や熊本の地域振興に少しでも役立てばと幸いです。。。o(_ _)o 

 

 

                                                                 (文:森本)

参考サイト:

豊後麻地酒と肥後麻地酒の製法ページ(みえ記念病院)

 

大分県酒造組合ホームページ 日本酒の歴史 大分の清酒の歩み

二階堂酒造有限会社ホームページ 二階堂焼酎の秘密 

 

横山酒販(本店は大分県中津市)公式ホームページより:テレビ番組『華丸・大吉のなんしようと?』で博多練酒が紹介されました

 

2017年

2月

15日

春の訪れ~吉野梅園の黄梅(満月蠟梅)

2017年2月11日に撮影した吉野梅園の満月蠟梅です。紅梅や白梅を含めて梅園自体はまだ1~2部咲きでした。
2017年2月11日に撮影した吉野梅園の満月蠟梅です。紅梅や白梅を含めて梅園自体はまだ1~2部咲きでした。

 

こんにちは。国内ニュースでは鳥取など西日本海側は記録的な豪雪になっているようですが、大分ではまだ日中が温かい日が続いている関係で梅が咲き始めました。写真は吉野梅園の黄梅(満月蠟梅)です。梅といえば奈良時代から日本に伝わった白梅や平安時代からの紅梅がおなじみで、枕草子に「木の花は紅梅」という文章が登場しますが、黄色い梅にも風情があります。春の訪れですね!

 

                     (文:森本)

 

 

2017年

2月

06日

大分県緩和ケア研究会での発表

2017年1月28日の第32回大分県緩和ケア研究会で発表したスライドの一部です。
2017年1月28日の第32回大分県緩和ケア研究会で発表したスライドの一部です。

 

こんにちは。1月28日(土)に大分市ホルトホールで行われた第32回大分県緩和ケア研究会で、「緩和ケアの一助となる回想法に有用な資料(写真アルバム)の作成」と題して発表してきました。医療における回想法アプローチは、高齢者の患者さんとのコミュニケーションツールとして有用であることが知られていますが、大分ならではの回想法の題材の探索を行い、昨年11月に出版された「写真アルバム 大分市の昭和」で回想法について執筆したことを機会にこれまでの経験や考察を加えてお話しました。質疑応答では既に上記の本をお買い求めになられて介護施設で使用されている方をはじめ、多くの意見交換をすることができて、大変嬉しかったです。

 

大分県緩和ケア研究会では、佐賀県医療センター好生館緩和ケア科部長の小杉寿文先生による『治療と療養を支える緩和ケア~好生館の取り組み~』や、別府溝部学園短期大学幼児教育学科准教授の齊藤友子先生による『緩和ケアにおける援助的コミュニケーション~傾聴の理論と方法について~』の教育講演もあり、大変勉強になりました。会長の山岡憲夫先生、座長の大分大学医学部附属病院緩和ケアセンター長の奥田健太郎先生、事務局の加藤泰子様をはじめ、関係各位に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

                     (文:森本)

 

2017年

1月

30日

大分市若草公園のSL『そうりん号』のお色直し

写真上:昨年の2016年10月に全面塗装されてピカピカになったSL「そうりん号)」、写真下左:お色直し前のそうりん号(2014年9月21日撮影)。上の写真と比べると色のくすみや汚れが目立ちます。写真下右:現在のそうりん号の内部。窯に石炭を入れる投入口を含めてとても綺麗になっています。
写真上:昨年の2016年10月に全面塗装されてピカピカになったSL「そうりん号)」、写真下左:お色直し前のそうりん号(2014年9月21日撮影)。上の写真と比べると色のくすみや汚れが目立ちます。写真下右:現在のそうりん号の内部。窯に石炭を入れる投入口を含めてとても綺麗になっています。

 

こんにちは。大分市の若草公園に屋外展示されているSL『そうりん号(C55型機関車)』が新たに全面塗装されて、とても綺麗になっていました。今回のお色直し前に撮影した写真と比べてみると、違いが明瞭にわかりますね。これまでは落書きがあった運転席や内装もピカピカになって、まるで新しく製造された機関車のようでした。

 

この機関車は昭和12年(1937年)3月に製造されて、昭和46年(1971年)まで大分を中心に小倉や宮崎など日豊線で運行されていた旅客列車で、最高時速100キロメートルの性能を持っていました。昭和47年(1972年)に引退した後は、大分駅から臨時の線路を敷いて一晩で運ばれてきたそうです。そのときに市民公募で決まった愛称は「そうりん号」でした。私も子供のころから若草公園に行くと遊んでいた機関車なので、とても嬉しいです。後になって母から聞いた話ですが、幼児期に好きだった絵本『きかんしゃやえもん』の影響で、私はこの機関車を「やえもん」と呼んでいたとか(^^;)、、、。

 

このように昔からある歴史的遺物が大切にされるのは素晴らしいことだと思います。ご興味がある方はぜひ行ってみて下さい。

 

                   (文:森本)

 

参考サイト:

大分合同新聞2016年10月20日「大分市若草公園のSL約20年ぶりにお色直し」

『きかんしゃやえもん(阿川弘之 作 岡部冬彦 絵)』 wikipedia 

 

 

 

2017年

1月

23日

予備自衛官訓練に参加しました。

写真上:別府駐屯地から見た、鶴見山(左)と扇山(右)。山の間から雲が広がり、晴天から一転して雨雪に変わる少し前です。写真下:基地限定のお土産で、美味しいと評判のバターサブレです。
写真上:別府駐屯地から見た、鶴見山(左)と扇山(右)。山の間から雲が広がり、晴天から一転して雨雪に変わる少し前です。写真下:基地限定のお土産で、美味しいと評判のバターサブレです。

 

こんにちは。先日、災害医療などで活動する予備自衛官訓練に参加しました。今回は年度末に近い訓練での参加となって今冬一番の寒波に遭ったものの、全体として晴天に恵まれて無事に修了することができました。予備自衛官は年間5日間の継続訓練が義務付けられています。

 

本職である医療や衛生訓練はもちろん、実際の災害現場などで必要な土嚢の正しい積み方などを含めた実地演習は貴重な経験となりました。ご指導を頂いた自衛隊関係各位をはじめ、訓練の参加を快くご理解して頂きました当院に感謝しています。ありがとうございました。

 

                     (文:森本)

 

2017年

1月

16日

大分市碇山にある真田幸村の愛馬のお墓

写真上右:©NHK 大河ドラマ『真田丸』最終回より。写真上中央および左:大分市碇山にある真田幸村愛馬の墓。石碑には「真田栗毛埋所」と刻まれている。写真下:碇山から見た大分市の風景。左遠方に高崎山、中央遠方に大分県庁やオアシスホテルタワー、右遠方に新日鉄の煙突が見える(著者撮影)。
写真上右:©NHK 大河ドラマ『真田丸』最終回より。写真上中央および左:大分市碇山にある真田幸村愛馬の墓。石碑には「真田栗毛埋所」と刻まれている。写真下:碇山から見た大分市の風景。左遠方に高崎山、中央遠方に大分県庁やオアシスホテルタワー、右遠方に新日鉄の煙突が見える(著者撮影)。

 

こんにちは。昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」の最終回で、堺雅人さん演じる真田幸村(信繁)が大坂夏の陣の最後の戦いで、馬に乗って徳川家康の本陣へ突き進むシーンが印象的でしたね。

 

ところで大分市津守の碇山(いかりやま)に、真田幸村の愛馬のお墓があります。真田幸村を討ち取った徳川方の大名、松平忠直(越前75万石)が幸村の馬を持ち帰り、その後忠直が参勤交代を怠ったことなどから幕府から謹慎・隠居処分を受けて豊後に配流になった際に連れてきた「真田栗毛」という馬のお墓です。江戸時代以前に、特定の馬のお墓が残っている例は珍しいのですが、豊臣秀頼から真田幸村に与えられた馬はさぞかし立派な馬だったことでしょう。三国志に登場する赤兎(せきと)馬のように、名将が乗りついだ名馬ですね!

 

真田幸村の愛馬のお墓は、地元の住民以外には大分県内でもあまり知られていないようです。碇山には松平忠直の廟所や、ゆかりの熊野神社があり、徳川家の葵の御紋がある瓦が特徴です。写真のように、碇山頂上からの大分市街が見渡せる風景も感動しました。ご興味ある方はぜひ一度訪れてみて下さい(^^)/ 。

 

                       (文:森本)

 

 大分市碇山(いかりやま)住所:大分県大分市津守1364番地 ←碇山に行くときにはこの住所を車のナビで検索していくと良いと思います。碇山は標高56メートルで大分県で最も低い山で、数分で登れる頂上からの大分市の風景は絶景です。ただ碇山周辺の津守地区や滝尾地区は古くからの住宅街で道路が狭く、車の離合が困難な場所が多いのでご注意ください。o(_ _)o 

 

参考サイト:

グーグルマップ・大分市津守1364番地

NHK大河ドラマ「真田丸」公式ホームページ

松平忠直 wikipedia 

 

 

2016年

12月

13日

『大分市の昭和』が発売されました。

 

8月25日のブログでお伝えしておりました、『写真アルバム大分の昭和』が先月25日に発売されました。おかげさまで売れ行きが好調で、既にアマゾンでは品切れで取り扱いができなくなっているそうです。今は品薄ながら晃星堂や明林堂書店など地元の取り扱い書店か、出版社の樹林舎に直接注文すると、入手可能だそうです。下記の樹林舎のホームページを見ると、日本各地の写真集の中で、発売後2週間足らずで「残部僅少」という表示がされています。恐れ入りますが、購入をご希望の方は樹林舎の公式ホームページか、最寄りの書店でお尋ねください。どうぞよろしくお願い申し上げます。o(_ _)o 

 

 樹林舎公式ホームページ『大分市の昭和』サイト

 

(追伸)

先日本屋に行くと60代くらいの男性が、注文していた『大分市の昭和』を購入されていて、「(本が出るのを)楽しみにしちょったで」と笑顔で店員と話されていたのを見て、何ともうれしい気持ちになりました。また、大分市内の老舗書店のスタッフの方が、「大分市の昭和の売れ行きが絶好調で、これで年が越せます(笑)。

昔はこんな風に地元の本がよく売れたんだけどな~。」と仰っていたのが印象的でした。私は著者の一人に過ぎませんが、先日見たテレビ番組『重版出来(じゅうはんしゅったい)』のように本を出版することで、読者・書店・出版社・作家それぞれがみんな笑顔になる貴重な経験をさせていただきました。監修の豊田寛三先生をはじめ、樹林舎の担当スタッフの方々に心から感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

 

                         (文:森本)

 

2016年

12月

09日

TOMMY VOICEと任運騰々

 

こんにちは。写真はOAB大分朝日放送の『JOKER DX』と言う番組の最後に、明日の活力になる一言を冨永アナウンサーがつぶやく、TOMMY VOICE(トミーボイス)をあしらった缶バッジです。『加齢臭は人生のアロマオイルです』、『明日がダメなら明後日』、『迷ったら保留』など、思わずくすっと笑える言葉が並んでいます。一見お気楽な雰囲気もありますが、良寛和尚の『任運騰々(にんう(ぬ)んとうとう)=現実の運命に身を任せながらも、くよくよせず前向きに生きること』という教えのような、しなやかな力強さを感じました。

 

なお、『任運騰々』は大分県豊後大野市緒方町で先駆的に利用者本位の介護施設を創設した吉田嗣義さんが、1975年に社会福祉法人や療護施設を開設した際につけた名前(社会福祉法人「任運社」、特別養護老人ホーム「任運荘」、身体障がい者療護施設「騰々舎」)の元になったそうです。とても風格がある良い名前で、命名した吉田さんの見識は素晴らしいと思いました。

 

私たちも、日々『任運騰々』でいきたいですね!

 

                       (文:森本)

 

※『JOKER DX』で当院HPで紹介してる大分医療方言集が豊後遺産に認定されたとき、記念品としてもらった鉛筆にも「TOMMY VOICE」が刻印されていました。「向き・不向きより、前向き」の言葉がいいですね(^^)

みえ記念病院スタッフブログ2015年6月1日「豊後遺産認定と高視聴率御礼」

 

JOKER DX wikipedia (これまでのTOMMY VOICE の紹介一覧があります。)

 

 

2016年

12月

05日

当院から見た夕日に映える祖母山と傾山

 

こんにちは。写真は、当院から南西側を見た夕焼けの風景です。夕日の右側に豊後大野市役所、夕日の左側に旧 久丸酒造(文化財)や、エイトピアおおの(豊後大野市総合文化センター)の屋根が見えます。さらに左(南東)の遠方に祖母山と傾山の稜線が手前の山々の間からかすかに見えています。その山が祖母山や傾山であることを教えてくれたのは患者さんですが、改めて三重町が風光明媚な土地柄であることを実感した一日でした。。。

 

                       (文:森本)

 

 

2016年

11月

21日

『海賊とよばれた男』を救った二十三銀行(現 大分銀行)

写真左上:©東宝 ©2016「海賊と呼ばれた男」制作委員会 右上:二十三銀行(現 大分銀行赤レンガ館)の大正時代の絵葉書、下:電車通りと二十三銀行の絵葉書(いずれも著者所収)
写真左上:©東宝 ©2016「海賊と呼ばれた男」制作委員会 右上:二十三銀行(現 大分銀行赤レンガ館)の大正時代の絵葉書、下:電車通りと二十三銀行の絵葉書(いずれも著者所収)

 

こんにちは。先日、百田尚樹著「海賊とよばれた男」という小説を読みました。来月の12月10日に公開される映画の原作にもなっていますが、その中で主人公の国岡鐵造(モデルは出光興産の創始者 出光佐三)が、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和2年(1927年)の金融恐慌の際に、第一銀行(現在のみずほ銀行)からの貸しはがし(融資の突然の引き上げ)などに遭って会社が経営危機になったとき、その度に二十三銀行(後の大分銀行)が融資をして救済した話が載っていたことに、大分県人としてとてもうれしかったです。大分銀行は当院のメインバンクでもありますが、出光佐三を二度も救った歴史があることはこれまで知りませんでした。郷土の銀行に改めて敬意を表したいと思います (^^)/! 。

                      

                        (文:森本)

 

2016年

11月

16日

『大分市の昭和』が11月25日に発売予定です!

写真上:『大分市の昭和』の表紙、中右:明林堂書店大分本店 中左:リブロ大分(トキハわさだ)店 下:広告チラシ
写真上:『大分市の昭和』の表紙、中右:明林堂書店大分本店 中左:リブロ大分(トキハわさだ)店 下:広告チラシ

こんにちは。

 

8月25日のブログにてお伝えしましたが、『写真アルバム大分市の昭和(樹林舎)』が今月25日に発刊されます。その巻末特集心を癒し、世代をつなぐ回想法~戦前の大分の絵葉書を中心に』の原稿の校正が先日完成しました。

 

また、最近大分県内の書店で大きく広告されているのを見て驚きました。写真下段の広告チラシの戦前のトキハと電車通りの写真は私が提供させていただいたものですが、本が着々と出来上がりつつあることを実感しています。

 

ご興味がある方はぜひ書店でご覧下さい(^^)/ 

                                                  (文:森本)

 

紹介文より:

昭和の大分市・佐賀関町・野津原町を600点以上の当時の写真で振り返る。かつて大分と別府を結んでいた路面電車(別大電車)やトキハデパートの屋上遊園地など、昭和の大分といえば誰もが思い浮かべる風景が満載。各種コラムに加え、巻末には「回想法」を絡めた大分の懐かしい絵葉書を収録しています。

初版2000部限定、9,990円。カバー写真は大分駅前を走る別大電車〈昭和33年〉

 

 

2016年

11月

07日

三重町出身の偉人『重光葵』が歴史漫画に!

©集英社 学習まんが「日本の歴史」第18巻 占領された日本(昭和時代Ⅲ)                                     
©集英社 学習まんが「日本の歴史」第18巻 占領された日本(昭和時代Ⅲ)

 

こんにちは。

 

当院のある三重町は、戦前から戦後にかけて外交官、政治家として活躍した重光葵(しげみつ まもる)が生まれた町で生家も残っています。ただ地元の中高生や看護学生に重光のことを聞いてもほとんど知られておらず(^^;)、寂しい思いをしていましたが10月28日に出版された集英社学習まんが『日本の歴史 第18巻 占領された日本』で、冒頭から大きく取り上げられていたのでうれしく思いました。

 

重光葵は、明治20年(1887年)、大分県大野郡(現在の大分県豊後大野市)三重町に大野郡長の次男として生まれ、重光本家の養子として杵築に移って中学を卒業します。明治44年(1911年)に外務省に入省、米国シアトル領事や中国公使を歴任しながら、一貫して国際協調主義を貫きます。昭和7年(1932年)には爆弾テロに遭い、右足を切断する重傷を負いながら上海事変の停戦交渉を締結させました。

 

歴史教科書に載っている有名な場面として、昭和20年(1945年)9月2日に、日本政府の全権として太平洋戦争の降伏文書に署名をしたことがあげられますが、集英社のまんが(上の写真参照)に書かれているようにGHQ(連合国最高司令官総司令部)からの最初の指令として、「公用語は英語とする、円の通貨は廃止する」などのGHQの直接統治に反対して政策変更を促し、その後の日本の独立につなげたことは英雄的な行為であり、今の若い世代にもっと知ってほしいと思います。重光葵の生家のある町として、三重町が知られるようになれば、、と三重町の観光協会のような思いを巡らせております(^^;)。。。

 

ご興味ある方は、ぜひ集英社の歴史まんが「日本の歴史」をご覧ください!

 

                    (文:森本)

 

参考サイト:集英社 学習まんが「日本の歴史」

 

©BS-TBS 放送 『関口宏ニッポン風土記 第4回 大分県』より
©BS-TBS 放送 『関口宏ニッポン風土記 第4回 大分県』より

 

こんにちは。

 

先日、BS-TBS放送の制作局の方から当院ホームページの『回想法に役立つ大分の風景』の中で紹介した古写真を番組で使用させてほしいとの御依頼を頂き、快諾したところ、10月29日(土)に放送された『関口宏ニッポン風土記』の中で紹介されました。

 

『関口宏ニッポン風土記』は、東京生まれで生粋の江戸っ子である関口宏さんが、日本のことは東京以外よく知らないことに気づいて、『それぞれの地方にはどんな歴史があり、どんな唄を歌い、何を大切にしてきたのだろう、、」という疑問から生まれた番組だそうです。第4回の大分編では、東京の銀座にある大分県事務所やアンテナショップ、郷土料理店などを巡りながら、大分の歴史や文化、食べ物、唄などを紹介するという番組でした。東京や大分以外にお住いの方のために作られている視点は、大分県人が見てもとても面白かったです(^^)!

 

                       (文:森本)

参考サイト:

BS-TBS放送 関口宏ニッポン風土記

 

2016年

10月

20日

緒方町在住 乙野四方字さんのベストセラー小説

©ハヤカワ文庫JA ©乙野四方字
©ハヤカワ文庫JA ©乙野四方字

 

こんにちは。歴史マニアの私は、ふだんSF小説はめったに読まず、最後に読んだのは高校生時代以前の記憶しかありません(^^;)。。でも最近、豊後大野市緒方町在住の作家、乙野 四方字(おとの しもじ)さんの作品がベストセラーになっていると知って、30年ぶりにハヤカワ文庫を読んでみました。

 

乙野さんの新刊『僕が愛したすべての君へ』と『君を愛したひとりの僕へ』というパラレルワールドの二つの作品です。本の表紙の背景は、大分市の昭和通り交差点(トキハ前の中央通りと市役所前の昭和通りが交差している地点)の風景だそうで、作中にも上野丘高校や舞鶴高校、上野の森公園、大分市街にある彫刻『レオタードの女』など、大分県民に馴染みのある風景が出てきます。

 

作者の乙野さんによれば、『主人公が七歳の時、両親が離婚しました。そのとき母親についていった世界が「僕が愛したすべての君へ」、父親についていった世界が「君を愛したひとりの僕へ」です。それぞれの世界で主人公の人生がどう変わるのか、見守ってあげてください。』とのことです。また、『2冊は、どちらを先に読んでも大丈夫です。「僕が→君を」の順に読むと、最後に切ない気持ちになれると思います。「君を→僕が」の順に読むと、最後に幸せな気持ちになれると思います。お好みでどうぞ。』だそうです(乙野さんの公式ツイッター2016年6月21日および22日のツイートより)。私も読んでみて、確かにその通りだと思いました。

 

ご興味ある方はぜひ読んでみて下さい!

 

                       (文:森本)

 

大分経済新聞2016年7月16日『大分発の恋愛SF小説が人気に』

 

2016年

©NHK 大河ドラマ 真田丸より。上:第35回「犬伏」、下:第36回「信之」のシーン 
©NHK 大河ドラマ 真田丸より。上:第35回「犬伏」、下:第36回「信之」のシーン 

 

こんにちは。

 

日曜に放映されるNHK大河ドラマ「真田丸」が佳境に入り、さらに面白くなっていますね。特に主人公真田信繁(幸村)の兄、信幸(後の信之)扮する大泉洋さんの演技は素晴らしいと思います。私は大泉さんが「水曜どうでしょう」という旅番組で、大分県は三重町や竹田市などを訪れていた頃からファンですが、普段のコミカルな雰囲気を抑えて実直なお兄さんを演じられています。史実でも真田信幸は、舅の本多忠勝(豊臣秀吉から『東の本多、西の立花(宗茂)』と全国の諸将の前で絶賛された名将)と共に、敗軍となった父と弟の助命嘆願を徳川家康に行ったのは有名な話で、本多忠勝は「真田の助命をお聞き入れ下されなければ、殿と一戦つかまつる!」と家康に迫ったそうです。

 

本多忠勝を演じている藤岡弘、さんは私の世代には「仮面ライダー1号=本郷猛」として子供の頃からヒーローです。藤岡さんは昭和56年(1981年)に大河ドラマ「おんな太閤記」の番組宣伝で御来豊されたことがあり、トキハ本店でサイン会がありました。当時中学1年だった私はサインと握手をしてもらって、大きな手の感触が印象的でした。現在は70歳だそうですが、当時と変わらない威厳と体格は素晴らしいです。いつの日か『大河ドラマ 立花宗茂』が放送されたら、再び本多忠勝役をぜひ演じてほしいと思います!

 

                      (文:森本)

参考サイト:

NHK大河ドラマ真田丸ホームページ

「信繁との二人のシーンはどれもいとおしいです」大泉洋【真田丸インタビュー】

「カッコ良すぎるセリフを言って、、。」大泉洋【真田丸インタビュー】

「演じたかった武将ですから体が喜んでいます」藤岡弘、【真田丸インタビュー】

藤岡弘、魅せられた本多忠勝を熱演 毎日新聞2016年9月17日

 

2016年

10月

03日

三重川沿いの彼岸花とアルツハイマー病治療薬

こんにちは。

 

今年の彼岸は9月22日(木祝)の秋分の日を挟んだ前後3日を合わせた7日間で、9月19日(月)から25日(日)まででしたね。私は23日に三重川周辺のヒガンバナ(彼岸花)が咲いているのを見て実家のお墓参りを思い出して、慌てて行って参りました。一般に『暑さ寒さも彼岸まで = Neither heat nor cold lasts over the equinox』と言われるように、最近は朝と夕方がいっそう涼しくなりました。

 

ところでヒガンバナは人体に有毒な成分が含まれることが知られていますが、反対に薬としての成分(ガランタミン)がアルツハイマー病の治療薬(商品名レミニール)として使われています。このようにヒガンバナは文化的にも、医学的にもとても興味深い植物ですが、今年も鮮やかな朱色がとても綺麗でした。。。

 

                         (文:森本)

 

2016年

9月

26日

大学病院の実習を担当することになりました。

写真上:CANONの関数電卓(所収) 写真下:挟間町の大分大学医学部・附属病院全景(©大分大学)
写真上:CANONの関数電卓(所収) 写真下:挟間町の大分大学医学部・附属病院全景(©大分大学)

 

こんにちは。

 

今月から、大分大学医学部の病棟実習(臨床薬理学)の指導と講義のために2週間に1度、挟間キャンパスに通うことになりました。担当は薬物動態や高齢者の薬物治療などで、患者さんにどのように薬物治療を進めたらよいかを実際にシミュレーションしてもらっています。3年前に大学を退職して以来の講義になりますが、今回は地域医療を行う医師として医学生に現場の様子も紹介してほしいとのことで、大分の医療方言や回想法など高齢の患者さんにアプローチするコツなども雑談の中で話しています。

 

写真は実習に使用する関数電卓で、学生さんが電卓を忘れたときに貸し出すコレクションです。私には収集癖があって、つい集めてしまいました(^^;)が、こうして並べてみると関数電卓が華やいで見えますね。関数電卓は一般に黒がほとんどですが、写真のようにキャノンの電卓は様々な色があり、特にライトブルーは欧州向けに出荷されているレアなタイプですが、操作性は国内向けと全く同じです。

 

第1回目の実習では、海外からの留学生が見学されたため急きょ英語で行いましたが、医学生は熱心に参加してくれました。英語でも医学の内容に変わりがないので、中身さえ理解していればどの外国人とも有意義にディスカッションできると思います。大学の後輩が頼もしく思えて嬉しかったと同時に、彼らの父世代にあたる自分はもっと精進しなければと思いました。。。

 

                       (文:森本)

 

2016年

9月

12日

『下町ロケット・医療編』のような実話

©産経新聞 平成22年(2010年)6月14日
©産経新聞 平成22年(2010年)6月14日

 

こんにちは。

 

先々週の早朝に久しぶりに「NHKラジオ深夜便」を聞いていたら、愛知県のメーカー社長が娘の心臓病をきっかけにして、日本人の体格にあう人工心臓や補助循環装置(IABP:大動脈バルーンポンピング)を作るために、医学知識ゼロから開発を進めたインタビュー番組がありました。社長は東海メディカルプロダクツの筒井宣政さん(現在74歳)です。残念ながら娘さんは23歳のときにお亡くなりになったそうですが、父である筒井さんの行動を誇りに思い、東海メディカルプロダクツ社員として働いていたそうです。お話を聞いて大変感動しました。

 

昨年冬に『下町ロケット』という人気テレビ番組がありましたが、前半がロケットエンジンの開発、後半が医療機器開発の物語でした。医療編は人工心臓を開発するお話でしたが、もしかしたら作者は筒井社長のエピソードを参考にしたのかもしれないですね。筒井社長が開発した医療機器については、添付の産経新聞をご参照ください。

 

                      (文:森本)

参考サイト:

NHKラジオ深夜便2016年9月2日午前4時~『娘が遺したものづくりの心』

池井戸潤著 『下町ロケット2 ガウディ計画』

TBSテレビ『下町ロケット』公式ページ

 

2016年

8月

25日

写真集『大分市の昭和』が11月刊行予定です!

©樹林舎『大分市の昭和』の広告
©樹林舎『大分市の昭和』の広告

 

こんにちは。

 

上の広告は11月に出版予定の写真アルバム『大分市の昭和』のチラシです。日本各地の懐かしい写真を集めた写真集を出版されている樹林舎が企画された本で、大分大学・別府大学名誉教授の豊田寛三先生が監修されています。

 

豊田先生や樹林舎の担当の方が当院ホームページで回想法に役立つ大分の風景』のページをご覧頂いたことをきっかけに、大変光栄なことに私も一部のページを担当させていただくことになりました。今週に大分県立図書館内の先哲資料館で編集会議があり、執筆者の先生方と有意義で楽しい意見交換をさせて頂きました。いち郷土史マニアとして、御高名な豊田先生にお会いできたことがとてもうれしかったです。

 

出版は11月中旬予定だそうです。ご興味のある方はぜひご覧ください(^^)/ 

 

                                                             (文:森本)

 

2016年

8月

22日

カラーで見る戦前の大分の絵葉書

手彩色された戦前の大分の絵葉書(明治末~昭和初期)。クリックすると拡大します。
手彩色された戦前の大分の絵葉書(明治末~昭和初期)。クリックすると拡大します。

 

こんにちは。上記はいずれも明治末~昭和初期に撮影された大分の名所を写した写真に手彩色で色を付けたお土産用の絵葉書です。いずれも当院で『回想法』に使用しています。

 

上段左:電車通り(手前に大分合同銀行:現大分銀行が見えます)

上段中:春日神社(昭和20年の大分空襲で消失する前の写真)

上段右:春日浦を走る別大電車

左:大分中学(現在の大分上野丘高校の旧本館)

中:大分県公会堂(旧大分県立図書館・現在大分アートプラザがある土地)

右:府内城(昭和20年の大分空襲で消失する前の写真)

下段左:大分港の風景

中:竹町通り(左手奥に旧大分銀行本店が見えます)

下段右:春日浦の夕焼け:慶長豊後地震による大津波後、府内藩主の竹中重利が1万本の松を植えた美しい松原が広がっています。

 

白黒やセピア色の古写真も風情があってよいですが、カラーで見る風景の方が当時の様子が実感できて素晴らしいですね。。。

 

                     (文:森本)

 

2016年

8月

08日

スタンフォード大学HPにある三重町地図で『ブラタモリ』してみました。。。

上:スタンフォード大学HPにある昭和7年の三重町地図©Stanford University 下:©Google Earth による現在の三重町
上:スタンフォード大学HPにある昭和7年の三重町地図©Stanford University 下:©Google Earth による現在の三重町

 

米国カリフォルニア州にあるスタンフォード大学は、アメリカでハーバード大学と並ぶ名門です。10年ほど前に訪問したことがありますが、キャンパスが雄大で美しく、医学から人文・歴史まで幅広い分野の研究と教育のメッカです。

 

スタンフォード大学のホームページには、戦前の日本各地の地図をアップしているサイトがあり、昭和7年(1932年)に作成された三重町の地図(5万分の1)も掲載されています。高解像度で掲載されているため、かなり拡大しても非常に鮮明で驚きました。写真上は昭和7年の三重町地図で、参考のために ©Google Earth による現在の写真を下に添付しました。昭和7年の地図で上の方に『高女校』と記載されているのが三重高等女学校で、後の県立三重高校・現在の藤華医療技術専門学校リハビリ館です。また地図左下の「縣農校」は県立三重農学校・現在の県立三重総合高校です。戦前の地図と現在を見比べると、昭和7年には三重町駅周辺から三重町市場を貫く日向街道沿いに集中していた町並みが、当時の田園地帯を中心に現在は住宅が国道や県道沿いに広がったことがわかります。

 

ここで、人気テレビ番組『ブラタモリ』のように昭和7年の地図で当院のある場所を辿ってみることにします。地図の左上の方にある三重町駅から南に伸びる道路から、現在の市場ロータリー周辺から広がる田園地帯を通り、高女校へ流れる三重川支流に架かる橋を渡ると、現在のみえ記念病院や豊後大野警察署がある一帯です。今のトキハ通り商店街を含め当時は田んぼが広がっていたのですね。この周辺は、戦前まで日本酒を作っていた久丸屋さんや、戦後に市場から移られた大石とうふ店さんが今も豆腐を生産されているように、良質な水が取れることで有名です。その100メートルほど南に『卍』の記号がありますが、今のエイトピア大野(豊後大野市総合文化センター)の西隣にある宝光寺でしょう。宝光寺は江戸時代の寛永11年(1634年)に創建され、臼杵2代藩主 稲葉典通公の妻 志保の方の菩提寺になった由緒正しいお寺です。

 

こうして米国の大学のサイトから、80年以上前の地元の地図で『ブラタモリ』するのは何か不思議ではありますが、楽しい歴史散歩になります。御興味ある方は下記サイトをご参照ください。

 

                      (文:森本)

参考サイト:

スタンフォード大学公式ホームページ「日本の戦前地図」

スタンフォード大学公式ホームページ「三重町」

スタンフォード大学公式ホームページ「大分市街」

NHK『ブラタモリ』番組公式ホームページ

 

2016年

7月

20日

『真田丸』の長野県への経済効果が200億円超

写真上:©NHK『真田丸』 下:©信濃煎餅堂
写真上:©NHK『真田丸』 下:©信濃煎餅堂

こんにちは。

 

先日の日経新聞に、日本銀行松本支店がNHK大河ドラマ『真田丸』の長野県への経済効果を試算したところ、200億円を超えたことが報道されていました。

 

私も歴史マニアなので大河ドラマは毎年楽しみに見ています。『真田丸』は三谷幸喜さん脚本で、現代語を大胆に使ったり、史実と異なった破天荒な展開に当初は少し違和感がありましたが、娯楽番組として大変面白いです。

 

『真田丸』の舞台である、長野県上田市では、ドラマ中で有名になったセリフ『黙れ小童(こわっぱ)!』をモチーフにした煎餅が売られており、そのセリフを叫んだ俳優の西村雅彦さんがツイッターで紹介したこともあって、大変な人気商品になっているそうです。

 

わが大分県でも長野県の成功例に続き、『戦国最強の親子』として知られる、戸次道雪、高橋紹運、立花宗茂がいつか大河ドラマになって、地元や九州に経済効果をもたらしてくれたらいいなあと思っています(^^)/ 

 

                                                             (文:森本)

 

参考サイト:

日本経済新聞 2016年6月7日「真田丸」経済効果、県内200億円 

日本銀行 長野県における大河ドラマ「真田丸」の放映に伴う経済効果(PDF)

信濃煎餅堂公式サイト

西村雅彦さんSTAFF公式ツイッター『黙れ小童なう(笑)』

2016年

7月

11日

室内犬の危険性~大分県警察医会より~

©朝日新聞2006年5月26日夕刊(クリックすると拡大します)
©朝日新聞2006年5月26日夕刊(クリックすると拡大します)

こんにちは。7月2日に大分市で大分県警察医会学術講演会があり、福岡県警察医会会長の大木實先生と、九州大学法医学の池田典昭教授の講演をお聞きしました。

 

池田教授の講演「乳幼児の突然死」では、福岡県で起きた室内犬による小児への噛傷致死事件の2例についての報告があり、人と犬が室内で同居することが普及しつつある今の風潮に警鐘を鳴らされていました。

 

池田教授によると、人は高度な社会を築いた反面、一人では生きられない小児の期間が哺乳類の中で最も長く、放置されたら数日で死んでしまう脆弱さをもっているそうです。このため、元々狩猟犬であった室内犬と小児が一緒に生活することは大変危険とのことでした。

 

なお、インターネットで検索すると、例えば『新生児と室内犬は同じ部屋で生活しても大丈夫でしょうか?』というお母さんからの質問に対して、上記の池田教授のように実際の事故例を踏まえた答えではなく、「(ある匿名医師の解答):(自分も)住宅事情からワンコと赤ちゃんが同室で暮らしています。たまに、ミルクのいい香りのする赤ちゃんのお顔をペロリとしてしまったりしますが、すぐに消毒するようにしています。 今のところ我が子はとっても元気です! 」、などの楽観的な解答や説明が多かったことに驚きました。

 

インターネットの医療情報は玉石混交ですので、くれぐれもご注意ください。

 

                    (文:森本)

2016年

7月

04日

アメリカの書店で見かけた日本のMANGA

©Rumiko Takahashi ©Shougakukan
©Rumiko Takahashi ©Shougakukan

こんにちは。先週に引き続いて米国でびっくりしたことをお話したいと思います。

 

米国の本屋に行って驚いたのは、英語に訳された日本のMANGA (漫画)が書店のコーナーを占拠していたことでした。アジア人が比較的多い西海岸の都市だったからもしれませんが、「ONE PIECE」 や「NARUTO」を愛読している米国人から『英語版が出るのは日本語の原版より遅れるから、刊行されてすぐに読める日本人が羨ましい!』と言われたことがあります。私が漫画を読んでいたのは、今から30年以上前の中高生のころで「ONE PIECE」 は日本語でも読んだことがありません。ただ、高橋留美子さん作の「めぞん一刻」は夢中で読んでいた記憶があり、米国の書店で英語版を見かけたときには思わず買ってしまいました。。。

 

私が中学生のころ、ハリウッド映画「TOP GUN(海軍パイロットの成長物語)」に憧れて、何度も見て英語の台詞を暗唱しました。おかげでネイティブから『お前の英語は軍隊調だな、、』と言われたこともありますが^^;)、MANGAをきっかけに日本に好印象を持つ外国人は多く、世界に誇れる文化だと思います。

 

                   (文:森本)

6月

27日

ボールペンの話

病院で使っている三菱ジェットストリーム4&1です。 とても書きやすいです(^^)/
病院で使っている三菱ジェットストリーム4&1です。 とても書きやすいです(^^)/

 

こんにちは。

 

米国の大学病院に留学していた時、現地の医師は薬の商品名が入ったボールペンや文房具を使ってはならないという不文律があることを知って驚きました。日本ではそんなノベルティグッズ(Novelty goods:企業が商品の宣伝を目的として、名称を入れて無料配布する記念品)は製薬会社から医療機関向けに大量に配布されています。看護師さんなど、医師以外の医療スタッフが使用することは問題ないと思いますが、米国の医師が使うのはご法度とのことでした。意識しない間に行動が変わってしまうステルスマーケティング(Stealth marketing)という宣伝効果によって、処方が偏らないようにという配慮だそうです。以来、私は製薬会社のボールペンを使わなくなりました。

 

例外的に、写真の中央にある白いボールペンで「日本赤十字社」とロゴが入っているものだけは使っています。献血時にもらったもので私の宝物です(^^)。

 

                  (文:森本)

 

2016年

6月

22日

沈堕の滝周囲の水量がすごかったです。。。

沈堕の滝の男滝(画面左遠景)と、画面右端から流れる激流。中央に発電所跡が見える。※クリックすると拡大します。
沈堕の滝の男滝(画面左遠景)と、画面右端から流れる激流。中央に発電所跡が見える。※クリックすると拡大します。

 

こんにちは。

 

本日(6月22日)、いつものように訪問診療に向かう途中、沈堕の滝周辺を通りかかった時に、轟音とともに遠くから水しぶきがかかるくらいの激しい川の流れに驚きました。大雨が降った影響ですね。沈堕の滝の有名な男滝のほか、ふだんは大人しい女滝の方も鉄砲水のような激流でした。。。

 

                    (文責 森本)

 

2016年

6月

13日

祖父が乗っていた船

 

こんにちは。

 

先日、実家の両親に祖父が海軍勤務時代に乗船していた「名取」という船の模型をプレゼントしました。祖父が遺したアルバムの中に、名取の艦橋の前で映っていた写真を見つけて、どんな船だったのだろうと興味を持ったことがきっかけでした。

 

「名取」は大正11年(1922年)に建造された巡洋艦で、長崎県佐世保市が母港だったので、亡くなった祖母が子供たちを連れて長崎に面会に行っていたそうです。まったくの偶然ですが、一昨年前に予備自衛官補訓練で佐世保の相浦基地に行った際に、祖父が青年時代を過ごした土地であることを思い出しました。

 

私は決してプラモデルマニアではないのですが(^^;)、ときどきこの模型を見ては、祖父たちが80年前に眺めた風景を想像しています。

 

                      (文:森本)

2016年

6月

09日

旧 大分県立三重農学校の獣医畜産科

旧 大分県立三重農学校(現在の大分県立三重総合高等学校)の獣医畜産科と銃器室の新築記念絵葉書(著書所収)
旧 大分県立三重農学校(現在の大分県立三重総合高等学校)の獣医畜産科と銃器室の新築記念絵葉書(著書所収)

 

こんにちは。

 

上の絵葉書は、旧 大分県立三重農学校(現在の大分県立三重総合高等学校)の獣医畜産科と銃器室の建物が新築された記念に発行されたものです。

 

戦後の学制改革によって、獣医学科が農学校から大学に移管されたため、現在では三重町で獣医さんを養成することはなくなりましたが、当時の三重農学校は畜産獣医学科を備えた本格的な学校として、大分のみならず九州の農学の拠点として有名だったそうです。

 

現在の子供たちが獣医さんを志望する場合、九州では宮崎大学(農学部獣医学科)か、鹿児島大学(共同獣医学部。※2013年から山口大学との共同学部に改組)まで行かなければいけません。以下はあくまで私の空想ですが、将来大分大学に農学部や獣医学科を新設して三重町にキャンパスを作っていただけると嬉しいなあと思っています。特に三重町は大分県の農業大学校という設備や人的リソースが既にあるし、三重総合高校と連携して、大学農学部と獣医学科を作ると三重町は更に発展すると思います!御興味ある方はぜひご一考をお願いいたします。o(_ _)o  。。。

 

                       (文:森本)

2016年

5月

31日

藤華医療技術専門学校の講義が始まりました。

©学校法人後藤学園藤華医療技術専門学校 上:看護学科、下:リハビリテーション学館(建物は旧大分県立三重高等学校で、校内には前身の三重高等女学校の碑もあります。)
©学校法人後藤学園藤華医療技術専門学校 上:看護学科、下:リハビリテーション学館(建物は旧大分県立三重高等学校で、校内には前身の三重高等女学校の碑もあります。)

こんにちは。

 

先週から、三重町の藤華医療技術専門学校で担当している今年度の講義が始まりました。

同校の看護学科・理学療法学科・作業療法学科の授業を依頼されて今年で4年目になりますが、未来の医療を担う若い学生さんたちに講義させて頂くことに、責任の重さと喜びを感じています。授業では担当課目の内容はもちろんですが、病院の日常診療で経験した救命事例や在宅医療、大分の医療方言などを含めて、質疑応答をしながら双方向で理解を深めてもらえるように心掛けています。

 

最初の授業では、生徒の皆さん(18歳から19歳前後)に自己紹介していただき、現在の抱負や趣味、将来の夢などのお話を伺いました。中には医学の勉強を始めたばかりの悩み(暗記しなければならないことがたくさんあって、、)もありました。授業では病態や治療の仕組みをできるだけわかりやすく説明しながら、覚えやすい暗記法(たとえば国家試験で出題される閉経年齢は平均で48~52歳ですが、若者に人気のアイドルグループ名にちなんで語呂合わせで数字を記憶する方法(^^;)なども紹介しています。なお、医学用語や重要な数値を語呂合わせで覚えることは海外でも同じで、ワシントン大学の医学図書館や書店を訪れた際に、語呂合わせの本(英語)が書棚に並んでいたことが印象に残っています。

 

今春の藤華医療技術専門学校の看護師・助産師・作業療法士の国家試験合格率は100%、理学療法士国家試験合格率も82%(全国平均74%)であり、優秀な成績を毎年挙げられています。微力ながら自分も少しでもお役に立てればと思います。

                      (文:森本)

 

2016年

5月

23日

大分城址公園整備・活用基本計画検討委員会

写真上:委員会が開催された大分市保健所ビルから見た府内城。写真中:人質櫓外観とその内部、下:宗門櫓の内部
写真上:委員会が開催された大分市保健所ビルから見た府内城。写真中:人質櫓外観とその内部、下:宗門櫓の内部

こんにちは。

 

先日、大分市役所が主催している大分城址公園整備・活用基本計画検討委員会に市民委員として出席してきました。上記委員会は大分市長の佐藤樹一郎さんに諮問された内容を答申することを目的として、昨年発足以来、2~3ヶ月毎に大分城址公園(府内城)の復元計画を含めた整備と活用について会合を重ねています。

 

今月の5月は大分市職員の担当の方々の説明を受けながら、府内城の各櫓の内部を含めて現状を説明していただきました。委員長を務められている熊本大学名誉教授の北野隆教授(御専門は城郭研究)のお話を受けながら、詳細な説明を伺ったのは大変貴重な経験でした。今回の熊本地震で、熊本城は大きな被害を受けてしまいましたが、石垣を築城当時のように修復することは困難だそうです。府内城も大手門の棟瓦が落ちるなどの被害があり、現在はビニルシートが被せてあります。

 

写真は江戸時代から現存する人質櫓(二階櫓)と宗門櫓の内部です。今は現存櫓を含めて、昭和40年(1965年)にコンクリート製で復興された5つの櫓と大手門櫓の全ての内部公開はされていません。これから城址の整備が進んで、私が小学生のころのように歴史資料館と民俗資料館が場内の着到櫓と東南隅櫓に設置されていたように、府内城を訪れた観光客や子供たちがワクワクしながら訪れる場所がたくさんできればと思います。

                       (文:森本)

 

2016年

5月

16日

トキハデパート本店のミュージックサイレン

上:トキハ本店、下: ©OAB大分朝日放送
上:トキハ本店、下: ©OAB大分朝日放送                         

こんにちは。

 

先日、OAB大分朝日放送の『JOKER DX(ジョーカー・デラックス)』という深夜番組を病院で見ていたら、大分市トキハデパート本店の屋上にある「ミュージックサイレン」が紹介され、豊後遺産File No.73)に選定されていました。昭和29年(1954年)にトキハ屋上にミュージックサイレンが設置されて以来、現在は2代目で、今も稼働している同型機は日本で2台しか残っていないという貴重な存在だそうです。当時のトキハ常務さんが『百貨店なら商品だけでなく文化も発信しよう』と、ミュージックサイレンを導入して以来、60年間以上に亘って毎日欠かさず流れているとのことでした。

 

そういえばトキハが開店する朝の10時や、正午、夜の午後7時に荘厳なパイプオルガンのような音色の曲が流れて、かなり遠くにいても聞こえますね。主旋律のサイレンが鳴る前と後に、オーケストラが弦楽器のチューニングをするような音が聞こえる風景は、子供のころから慣れ親しんできた深い記憶であることに改めて気づかされました。。。

 

ミュージックサイレンの歴史を調べてみると、昭和25年(1950年)に静岡県浜松市の日本楽器製造(現 ヤマハ株式会社)が開発したもので、『戦時中の空襲警報のような単調なサイレンをもっと音楽的なものにして、人の心を和らげたい』という目的で作られたそうです。ミュージックサイレンは、円筒形の容器の中にある内部ドラムが回転して、圧縮された空気を内部ドラムと外部のカバーの穴が重なった時に放出するときに音が発生する仕組みになっています。(※私がオーケストラのチューニングみたいな音と思っていたのは、内部ドラムを回転させるモーターの音でした^^;)。音の高さはドラムの回転数とカバーの穴の数で決まり、音程の異なるドラムを複数設置(トキハのサイレンは10台)することで、さまざまな音を奏でることが可能になっているそうです。

 

現在もミュージックサイレンが稼働しているのは大分のトキハのほか、岡山県庁、伊賀市役所、宇和島城、愛媛県八幡浜市の愛宕山の時報塔など、全国的にも希少な存在になっているそうです。長年親しまれていた福岡県大牟田市の松屋デパートや宮城県仙台市の丸光デパートなどでは、平成になって老朽化や閉店でミュージックサイレンが廃止されたそうで、仙台や大牟田に住んでいる方が大分を訪問された際にトキハのサイレンを聞いてとても懐かしい気持ちになるそうです。(※仙台丸光デパートでは、仙台出身の土井晩翠が作詞した『荒城の月(滝廉太郎作曲)』のメロディが街の風物詩だったそうです。)

 

戦後間もないころから、今も鳴り続いているトキハのミュージックサイレンは貴重ですね。有名な『青い鳥』の話(メーテルリンク作)のように、普段は身近すぎてあまり意識されないけれど、大分県民にはとても大切な存在だと思いました。

                      (文:森本)

 

(参考サイト)

OAB大分朝日放送 『JOKER DX』wikipedia (←※豊後遺産(File No.52)に、みえ記念病院版 大分医療方言集が選定されています)

47ニュース『平和のサイレン 新年も響いて』中日新聞 2014年12月31日

岡山県立図書館『岡山県庁のミュージックサイレンについて』

仙台市立図書館Q&A『昔駅前にあった丸光デパートのミュージックサイレンは

 いつ始まって、いつ終わったのか知りたい』

松屋が刻んだ時~ミュージックサイレンの再現に関する研究~ 

伊賀市役所のミュージックサイレン(youtube動画)(←※トキハのミュージックサイレンの音色と似ています。曲は『家路(ドボルザークの新世界より)』です。

2016年

5月

09日

電子カルテは危険? ~米国のニュースより~

@SteveBellovinさんがTwitterに投稿した写真 ©GIZMODE ©Twitter                 @SteveBellovinさんがTwitterに投稿した写真 ©GIZMODE ©Twitter

 

 

こんにちは。

上の写真は米国のある医療機関のオフィスに貼られていたという掲示で、

 

YOUR PRIVACY IS PROTECTED (あなたのプライバシーは守られています)WE DO NOT USE ELECTRONIC MEDICAL RECORDS(私たちは電子カルテを使用していません)

 

と、書かれています。米国では、昨年から病院のコンピュータシステムにハッキングして個人情報を盗んだり、診療を妨害したり、ウイルス感染解除のためのパスワードを教える代わりに金銭(電子マネー)を要求したりという事件が後を絶たずに社会問題となっているそうです。今年の3月に入ってから、『ランサムウェア』というコンピュータウイルスの感染が広がり、カナダのオタワ病院、米国ハリウッドPresbyterian病院、メソジスト病院、ワシントンDCの MedStar Washington 医療機関グループに所属する多くの病院や診療所が被害を受けて、診療に甚大な支障が生じたとのことでした。これまでもコンピュータウイルスの発生と対策は常にイタチごっこでしたが、特に医療機関に対するハッキングが急速に進化していることへの警鐘が鳴らされています。以下の報道記事をご参照下さい。

 

Chicago Tribune 2016年3月29日『Washington-area MedStar hospital chain paralyzed by hackers' virus attack』(←CBSのニュース動画もあります)

 

GIZMODE 2016年3月30日『Why Hospitals Are Still Chumps For Hackers』

 

患者さんの医療情報は『究極の個人情報』と言われています。確かに電子カルテは便利ですが、外部からのハッキングの脅威をはじめ、内部からも大規模な情報流出のリスクがあるという構造的な欠点があります。特に医療現場での電子化は、金融や軍隊などの公的機関とは異なり、より多様で多数のスタッフ間で情報共有されるので、ハッカーから与しやすい攻撃対象(ソフトターゲット)として狙われやすい傾向もあるそうです。

 

日本では今、病院記録の電子化に向かってさまざまな施策が行われていますが、近い将来米国と同じ状況になる可能性もあり、十分な注意が必要と思います。ちなみに米国の病院での電子カルテ普及率は平均74%(米国CDC 2014年報告)、日本は平均22%(200床未満で14%:厚生労働省2011年報告)だそうです。

 

なお当院では『プライバシーが守られる』紙カルテを使用しています(※国の政策に従って医事会計システムは電子化しております)。私は大学病院で電子カルテが新設された際の最初の世代(40歳代後半^^;)になりますが、3年前に当院に赴任して紙カルテを久しぶりに使用して、『書いて伝えることの意義』を改めて実感できた気がします。また、看護師さんをはじめ、当院のスタッフのほとんどが美文字であることにも感謝しています。以前、米国の大学病院に留学した時に、医療スタッフのアルファベット文字が本当に汚くて読みづらいので、カルテを電子化していないと大変だろうなあと実感しました(^^;)。日本でも乱筆の方はおられますが、漢字を含む日本語の文字は文書の運用面で優秀だと思います。Twitter の文章を相手に応じて英語と日本語で書くときに気が付いたのですが、140文字では日本語の方が少ない文字で英語より圧倒的に多くの情報を伝えることができます。

 

あくまで私見ですが、当院のような規模の病院では紙カルテで運用上問題はなく、将来、全ての医療機関のカルテを国が責任をもってクラウドで管理する時代が来るまでは、紙カルテの方が安全性やコスト面で有利だと思っています。現在は日本も米国も多くのベンダー(製作会社)が独自に電子カルテを開発しているので統一性や一貫性がない上に、Windows XP 問題のような大規模なシステム変更が不定期に生じることで安全対策やメンテナンスの費用が膨張しています。またコンピュータ入力支援のために医師や医療者に付き添うクラークの人手が新たに必要となることを併せて、さらに医療費が増加する恐れがあることが課題でしょう。。。

                       (文:森本)

2016年

5月

02日

椎の木の花が咲きました。

写真中央の山にカリフラワーのような黄緑色の樹木が見え、椎の木の花が咲いたことがわかります。(※クリックすると拡大します)
写真中央の山にカリフラワーのような黄緑色の樹木が見え、椎の木の花が咲いたことがわかります)                         

こんにちは。

 

このブログで紹介されてきた染井吉野八重桜の花が散って新緑の若葉になった頃より、近郊の山々にカリフラワーのような黄緑色が目立つようになりました。上の写真では、九州に多いツブラジイという品種の椎の木の花が咲いて黄緑色に彩られています。大分県は日本で有名な椎茸の産地として知られており、古くは17世紀前期、江戸時代の寛永の頃から人工栽培が始まったと伝えられています。今はクヌギが原木として使われていますが、昔は椎の木を原木として使用していたそうです。

 

写真のように椎の木の花が咲き誇る季節になると、5月のゴールデンウィークがもう間近であることを実感します(^^)!

  

                       (文:森本)

2016年

4月

27日

昭和8年(1933年)の大分市街

大分市勢要覧(昭和8年)所収                         
大分市勢要覧(昭和8年)所収

こんにちは。

 

当院のホームページの中の『回想法に役立つ大分の風景』のページで、大分の古写真を紹介しています。そこで紹介している昔の大分の風景を見て懐かしんで下さったり、インターネットをしている若い世代がおじいさまやおばあさまと一緒に写真を見て、写真が撮影された当時のことを初めて話すことができたなどの御話を伺ってとても嬉しく思います。先週も、大分市の弁護士さんの勉強会にお招き頂いて、『地域の高齢者に寄り添うアプローチ』という講演をして、古写真を用いた回想法のアプローチが高齢者とのコミュニケーションに役立つことをお話させて頂きました。

 

上の写真は昭和8年(1933年)の大分市街の航空写真です。写真の左(南)が大分駅の方向で、右(北)が府内城がある方向となります。写真の中央を斜めに走る広い通りが現在の中央通り(当時は電車通りという名称)で、大分合同銀行(戦後の大分銀行)や竹町通り入口から続く白い天幕が見えます。電車通り沿いの大分合同銀行(現在の大分銀行赤レンガ館)の道路を挟んで広い空き地が見えますが、その空き地にトキハ百貨店が昭和11年に建設されることになります。

 

この写真が撮影された12年後には昭和20年(1945年)の大分空襲によって市街が焼野原となり、トキハ百貨店や大分合同銀行などを残してほとんどが焼失してしまいます。ただ当時のことを現在の高齢者の方々はよく記憶されており、最近訪問診療に伺っている方の御出身が大分市笠和町(府内城下町にとっては西側の玄関口であり、現在のオアシスタワーホテル付近)で、週末には竹町の夜市があって値段が安くなるので楽しみに買い物をしていたことをお話して頂きました。私たち医療者にとっても、日常診療をしながら貴重な御話を聞くことができて、有難く思う毎日です。

 

                       (文:森本)

2016年

4月

22日

タバコをやめると寿命はどのくらい延びる?

©British Medical Journal. Doll, R. et al. 2004
©British Medical Journal. Doll, R. et al. 2004

こんにちは。

 

左の図は、英国医学雑誌(British Medical Journal)

に報告された論文の図です。1900年から1930年に生まれた医師を対象に調査した結果で、青線は喫煙者の生存率、赤線は非喫煙者の生存率ですが、喫煙者は非喫煙者に比べて寿命が明らかに短くなっていることがわかります。年齢別には30歳代で禁煙すると寿命が平均で10年も延び、40代で9年、50代で6年、60代では3年寿命が延びることになるそうです。

 

何かをすると寿命が延びる(縮む)という話は、水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくるような少し怖い話でもあります。ただ日常診療では、胸部CTの画像を見ただけで、患者さんがタバコを吸っているか(または一緒に生活している方が喫煙者のために、受動喫煙しているか)をほとんど言い当てることができます。それほどタバコは肺に大きなダメージを与えてしまうので、タバコが止められない方は、ぜひ上の図をご覧になっていただき、お子さんやお孫さんの将来のためにも禁煙していただくことをお勧めします。

 

                      (文:森本)

参考文献 Doll, R. et al. : BMJ 328 (7455) : 1519, 2004

2016年

4月

18日

熊本地震

上:©朝日新聞2016年4月16日、下:©NHK放送
上:©朝日新聞2016年4月16日、下:©NHK放送

こんにちは。

 

先週末から大きな地震が熊本を中心に起こり、しばらく余震が続いています。当院のある豊後大野市三重町では目立った被害は出ていないようですが、特に大きな被害に遭われた熊本県や、今も避難が続いている大分県由布市の皆様に心からお見舞い申し上げます。

 

4月14日(木)午後9時24分の地震で携帯電話から初めて緊急地震速報が鳴ったのでびっくりしました。その後、4月15日(金)0時3分、4月16日(土)1時25分に、熊本では震度7を最高に、大分県でも震度6弱の大きな地震がありました。最初は4月15日が本震と言われていましたが、さらに大きな地震が16日にあったので、現在は16日が本震となっています。

 

私は予備自衛官(医官)をしている関係で、これまでに自衛隊から2回安否確認の連絡がありました。このような震災ではまず現役の自衛隊部隊が駆けつけ、被害の大きさに応じて予備役にも召集がかかることになっています。既に熊本県で42名の死亡者と、今回の地震で合わせて20万人の避難者が出ているそうです。今も余震が続いていますが、これ以上被害が広がりませんように、心からお祈りしています。

                    (文:森本) 

2016年

4月

01日

北海道演劇ユニット『チームナックス』20周年

©CREATIVE OFFICE CUE
©CREATIVE OFFICE CUE

先日のブログ「結婚式で流れた嵐の曲と二宮和也さんの話」で、今のアイドルの話をしましたが、40代(^^;)の私が楽しみにしているのは、北海道の演劇ユニット『チームナックス』です。

 

大泉洋さんをはじめ、お母さまが大分県戸次出身の戸次重幸さん、森崎博之さん、安田顕さん、音尾琢真さんの5人が行う公演は日本で一番チケットが取れにくいほどの人気で知られています。最年少の音尾さんが先月40歳になられたので、全員40代で既婚のアイドルユニット?は珍しいかもしれません。。。

 

私が彼らを最初に見たのは、研修医のころです。たまたま深夜に研修医室で見たテレビで「水曜どうでしょう」という北海道の深夜番組を見たのがきっかけでした。当時大学生だった大泉さんらが、サイコロを振って行き先を決め、ひたすら旅をする企画で眠たい中起こされてもコミュニケーションが巧みで、どんな緊張した状態でも笑いに変える話術に驚きました。それまでの『TVタレントといえば東京』というイメージを変え、北海道のような地方でも優れた娯楽番組を発信できるということを示したことは偉業だと思います。その後はあっという間に全国区の人気者になりましたが、、、。

 

そんなチームナックスも今年で結成20周年だそうです。月日が経つのは早いと思うと同時に、地方発で頑張っている彼らに元気づけられてきたことを感謝してます。私は特にファンクラブに入っているわけではないのですが、彼らが日々発信しているブログ「CUE DIARY」を時々読んでは、癒されております。

 

ご興味のある方はぜひご覧ください。

 

北海道テレビ ハナタレナックスEX 2015「ちょいのり!in 函館」DVD 

チームナックス2015年公演DVD悪童

 

                       (文:森本)

 

2016年

3月

25日

水力発電所が稼働していた頃の沈堕の滝

上:発電所が稼働していた明治末~大正時代の絵葉書(著者所収)、下:現在の沈堕の滝と発電所跡                         
上:発電所が稼働していた明治末~大正時代の絵葉書(著者所収)、下:現在の沈堕の滝と発電所跡                         

 

こんにちは。今日は久しぶりの「大分のタイムカメラ」として、豊後大野市にある沈堕の滝に設置された水力発電所が稼働していた頃の写真を紹介します。

 

室町時代に雪舟が描いたことでも有名な『沈堕の滝』は、その豊かな水量を利用して明治42年(1909年)4月に水力発電所(沈堕発電所)が作られました。上の写真は明治末期から大正にかけての絵葉書ですが、滝から引いた水が、写真右側の水路を通って発電所内のタービンを廻して発電する仕組みとなっていました。発電所が完成した当時は、500キロワット発電機2台を持つ最新鋭の設備であり、2万2000ボルトの送電線から大分町(現在の大分市中心部)に電力供給を行い、初めて大分町に電灯が灯りました。また、大分~別府間を走る豊州電気鉄道(九州初の市電で、後の大分交通別大線)にも安定した電力を供給しました。                             

 

さらに明治42年(1909年)11月からは、大野郡(現在の豊後大野市)の三重町、東大野村(現 大野町)、牧口村(現 清川町)、大分郡(現 大分市)の東大分村、日岡村、桃園村、三佐村、八幡村にも送電を開始します。それまで危険で取り扱いが面倒だったランプの生活から解放され、安全で便利な電灯を使えるようになった当時の人々の喜びは大きく、「ひとりでに灯がついて、ランプの何倍も明るい!」「風が吹いても消える心配がない!」というような新鮮な驚きがあったそうです。

 

下の写真のように、今では発電所は建物の外壁や骨格を残すだけの廃墟となっていますが、豊後大野市のジオパークの拠点の一つとして、観光客で賑わっています。こうして新旧の写真を比べてみると、発電所が稼働していた時代も、今もそれぞれに風情のある景観ですね。。。

 

                       (文:森本)

 

参考文献:高橋眞澄『大分文庫⑥ 大分の電力史』アドバンス大分 1981年 

2016年

3月

22日

結婚式で流れた嵐の曲と、二宮和也さんの話

嵐のテーマソングが流れるCM ©ゼクシィ 
嵐のテーマソングが流れるCM ©ゼクシィ 

こんにちは。

 

先日、お世話になっている先生の息子さんの結婚式に招待されて出席してきました。40代後半の私は友人や後輩の結婚ラッシュはとうに過ぎ、平成生まれの新郎新婦(自分にとって子供世代)の結婚式に呼ばれる機会がとうとうやってきました(^^;)。私も「年を取ったなぁ」と実感したのが、結婚式で流れる今流行りの曲をほとんど知らなかったことです。ただ結婚式で流れていた「愛を叫べ(嵐)」という曲はテレビのコマーシャルでよく流れていたので知っていて、『アイアイアイアイ愛して~る♪』という印象的な歌詞とアップテンポな曲調が耳に残りました。この曲は新婦の男友達からの祝福をテーマにしたウェディングソングですが、爽やかなカップルの結婚式にふさわしい明るい曲ですね。

 

嵐といえば、私はこれまであまり知りませんでした(^^;)が、米国留学中に知り合った日系の俳優さんから、嵐の二宮和也さんと日米合作の映画で一緒に仕事をしたというお話をうかがったことがあります。『とても真面目で、周りに心配りができる好青年』だと大変褒めておられました。今のアイドルに疎い私はそこで二宮さんの評判を知って感心したことを覚えています。

 

久しぶりにCDショップに行って、「嵐」のCDを買いに行こうかなと思いました。

 

                       (文:森本)

2016年

3月

07日

三重町駅の外観が新しくなりました!

こんにちは。先週に三重町駅の塗装工事が終わり、上の写真のように茶色とベージュ色をベースにした、アースカラーとなりました。豊後大野市は『ジオパーク』に指定されていることもあり、自然をモチーフにした落ち着いた色合いになったのかもしれないですね。

 

これまでは下の写真のように、三重町の文化財である『虹澗橋』をイメージして、白と青のお洒落なイメージでした。過去には俳優の大泉洋さんと鈴井貴之さんらが「水曜どうでしょう」という北海道の番組(1996年(平成8年)のサイコロの旅2という企画)で三重町駅に降り立ったときに登場した姿でもあります。                             

 

私はこれまでの色の方も好きでしたが、今回のアース色も素敵ですね。まだ見られていない方は新生三重町駅の姿をぜひご覧ください。

 

                       (文:森本)

2016年

2月

29日

昭和62年(1987年)清原選手の献血ポスター

©日本赤十字社 1987年
©日本赤十字社 1987年

こんにちは。今日は閏年の2月29日ですね。

 

写真は、今から約30年前に大分医科大学附属病院(現 大分大学医学部附属病院)の臨床検査室(採血室)にも張られていた日本赤十字社の献血啓蒙ポスターです。医学生時代から、研修医を終わってもしばらく見かけた記憶があるので10年近くは張られていたと思います。病院でのキャンペーンポスターは毎年のように張り替えられるので、きっと医療スタッフにプロ野球ファンがいるのだろうなという印象でした。当時(20代)は大分市たけまち献血ルーム、今はトキハわさだタウンの献血ルームで献血しています。

 

自分は清原選手より一つ下の年齢ですがほぼ同世代で、PL高校時代からの活躍をリアルタイムで見ていた者としては今回の事件は残念でした。早く更生されることを祈っております。。。

 

                         (文:森本)

2016年

2月

22日

三重町観光案内板 WELCOME to MIETOWN 

                     

 

こんにちは。

 

今日は、道の駅みえから降りた国道326号線沿いにある、三重町の観光版を紹介したいと思います。平成17年(2005年)に旧大野郡を中心とした三重町、千歳村、犬飼町、清川村、緒方町、大野町、朝地町の7町村が合併して豊後大野市になりましたが、この看板はその合併の前に作られたもので、町内の主な観光地や祭りなどの行事がきれいにまとめられて紹介されています。2014年8月8日のブログ『三重町の観光案内図』でも紹介しましたが、三重町の観光案内の標識はとてもわかりやすくて見やすいので好きです。みなさまも通りかかったら、ぜひ見てみて下さい。

                      (文:森本)

2016年

2月

15日

春の訪れ~梅の花が咲き始めました~

吉野梅園の紅梅(手前)と白梅(遠くの木々)。クリックすると拡大します。                         
吉野梅園の紅梅(手前)と白梅(遠くの木々)。

 

こんにちは。写真は2月14日に撮影した大分市吉野梅園です。最近は日中が温かいせいか、当院の三重町でも温かい場所の梅の花が徐々に咲き始めています。

 

吉野梅園の梅の木は樹齢850年で、鎌倉時代初期に福岡県の太宰府天満宮から伝わったという伝説があります。植えた木がいずれも左回りに地を這うように伸びたことから、『臥竜梅(がりゅうばい)』と呼ばれるようになりました。1560年の正月には戦国大名の大友宗麟が盛大な花見をした記録が残っています。

 

梅には白梅と紅梅がありますが、歴史的には白梅が奈良時代に、紅梅が平安時代に中国から日本に伝わったとされています。平安時代(996年頃)に書かれた枕草子に『木の花は  濃きも薄きも 紅梅』とあるように、清少納言は木に咲く花の中では紅梅が一番好きだったそうです。紫式部の源氏物語第43帖の巻名も『紅梅』ですね。私は白梅も好きですが、赤ちゃんの頬のようにほんのりと赤みがかった紅梅が青空に映える風景が大好きです。みなさんは白梅と紅梅のどちらが好きですか?

 

なお、吉野梅園の梅まつりは2月14日(日)から開催されています。まだほとんどの木が2~3部咲きで、写真のように咲いている木はわずかですがこれから咲き誇るのでしょう。見ごろは2月下旬~3月初旬かもしれません。梅まつり行事は2月14日・21日・28日・3月6日の日曜日に開催されるので、ぜひ行かれてみて下さい。

 

(文:森本)

 

参考サイト:iナビ大分 吉野梅まつり

上:吉野梅園入口の白梅(2月14日撮影)。下:吉野梅園内の紅梅。全体的には2~3部咲きです。                         
上:吉野梅園入口の白梅(2月14日撮影)。下:吉野梅園内の紅梅。全体的には2~3部咲きです。

 

2016年

2月

01日

大分予科練資料館長の川野喜一さん(90歳)

館長の川野喜一さんと、展示されている相良六男中尉のライフジャケット(右)
館長の川野喜一さんと、展示されている相良六男中尉のライフジャケット(右)

こんにちは。

 

先日、大分市の母校の高校を久しぶりに訪問した後、近くにある「予科練資料館」が目に入ったので立ち寄ってみました。呼び鈴を押すと、予科練資料館長の川野喜一さんが出てきてくださり、館内の貴重な展示物を丁寧に解説してくださいました。その中に、20年前に私に零戦の操縦法などを教えてくださった相良六男さん(元海軍中尉のパイロットで空母赤城など艦隊勤務を歴任した後、台湾や宇佐航空隊で勤務)が寄贈されたライフジャケットや当時の御写真があり、偶然ながら大変驚きました。川野さんは相良さんの予科練の後輩であり、戦後も戦友会を通じて密接な交流があったそうです。

 

川野さんは大分県挟間町のご出身で、予科練を卒業後に、千葉県の航空隊で昭和20年(1945年)8月15日の終戦の二日後には特攻隊として出撃される予定だったそうです。現在は戦友の方々の慰霊のために、私費を投じて資料館を運営されているそうです。とても御元気で、90歳に見えないご様子に感銘を受けると同時に、貴重なお話を伺うことができて大変有り難かったです。心から御礼申し上げます。

 

みなさまもご興味がある方は、ぜひ一度資料館を訪ねてみてください。

 

予科練資料館の住所:大分市上野丘1丁目7-16 地図

 予科練資料館ホームページ http://www.yokaren.net/ 

 

                                                (文:森本)

 

2016年

1月

25日

金魚屋コーヒー

こんにちは。

 

今日はコーヒーがとても美味しいお店を紹介したいと思います。大分市都町にある『金魚屋コーヒー』というお店です。大分市で研究会や同窓会などがあって飲み会があるときに立ち寄っています。

 

俳優のユースケ・サンタマリアさんの弟さんがマスターをされていて、コーヒーをサイフォンで淹れてくれます。マスターは歴史好きでとても実直な方です。店内には金魚の絵がたくさん飾っているのですが、実際に金魚は飼っていないそうです。その理由を聞くと、「金魚が死ぬと悲しいから、、、。」とのことでした。お優しい方ですね!

 

『金魚屋コーヒー』は、大分県内の老舗のコーヒー店が少なくなる中、とても貴重な存在だと思います。皆様もぜひ行ってみて下さい(^^)/   

 

『金魚屋コーヒー』大分市都町3丁目6−6 エンドービル2階 地図 

 

                         (文:森本)

2016年

1月

19日

『スターウォーズ』の新作を見に行きました!

映画の広告チラシ ©Walt Disney Japan
映画の広告チラシ ©Walt Disney Japan

こんにちは!

1月の連休に、『スターウォーズ  エピソード7 フォースの覚醒』を見に行きました。

 

『スターウォーズ』シリーズを最初に見たのは今から37年前になりますが、私が10歳(小学校4年生)のときに、クラスメートと一緒に見に行ったことを覚えています。当時は『スターウォーズ』最初の映画(エピソード4 新たなる希望)で、社会現象になったほどの観客動員数と熱気で「スターウォーズブーム」と呼ばれていました。映画館内では隣の席の友達をはじめ、観客がみんな興奮して叫んでいたので音声が聞こえづらかったことを覚えています(^^;)。。

 

スターウォーズも『三十年後』の世界となり、73歳になったハリソン・フォード(ハン・ソロ役)の体格がほとんど変わっていないことに感心しながら、自分も親としてハン・ソロの気持ちがよくわかるようになったことに時の流れを実感した映画でした。まだ見ておられない方はぜひ映画館まで足を運んでみてください。家族全員で映画を楽しめること、間違いなしです(^^)/ 

 

                                (文:森本)

2015年

12月

28日

今年もありがとうございました。

上:6月27日の大分合同新聞 下:明治末~大正初期の府内城のパノラマ絵葉書(所収)
上:6月27日の大分合同新聞 下:明治末~大正初期の府内城のパノラマ絵葉書(所収)

こんにちは!

 

今日は12月の最終週の月曜日で、今年も残すところあと4日となりました。このホームページも昨夏のリニューアル以来、1年半足らずでビュー数が39000を超え、たくさんの方に見ていただきました。真にありがとうございます。

 

今年を振り返りますと、5月にこのホームページの『大分医療方言集』を見て頂いたOAB大分朝日放送の番組『JOKER DX』の取材を受けたことをきっかけに、ディレクターの北川さんをはじめ、タレントの首藤将太さん(野良レンジャー)と大分の医療方言について楽しいお話をすることができました(ブログ2015年6月1日)。将太さんから『豊後遺産』として認定も頂き、感謝しております。また、8月にはOBS大分放送の村津孝仁アナウンサーをお迎えして、『患者さんに信頼される話し方やコミュニケーションを学ぶ』の御講演を病院スタッフにしていただき、大好評でしたブログ2015年8月27日)。

 

また、地域振興のための活動として、戸次道雪の顕彰を郷土史家の芦刈政治先生と元大野町長の佐伯和光さんらと共に活動している『戦国最強の親子(道雪・紹運・宗茂を大河ドラマにする準備会』のキックオフミーティングを豊後大野市役所公民館で開催させて頂き、会場に入りきれないほどの盛況でした。大分合同新聞でも大きく取り上げていただき感謝しております(写真上参照)。現在、ホームページの外枠(左の青いメニューバーの下)に『戦国最強の親子』のページを設けて、古写真や絵図を含めた三人のわかりやすい紹介や、芦刈先生の研究成果をはじめ、先生がほぼ解読が終わられている戸次道雪の古文書を今月中に公開する予定です。

 

それから、私のフェイスブックを大分市長の佐藤樹一郎さんに見て頂いたことをきっかけに、大分城址公園整備・活用基本計画検討委員に選ばれ、これまではマニアックな趣味だった(^^;)郷土史を通じて、地域に貢献できる機会を頂きました(ブログ2015年11月16日)ことはとてもうれしかったです。写真下は、明治末から大正初期に撮影された府内城の絵葉書をつなげたパノラマ風景です。『回想法に役立つ大分の風景』ページの写真(5-14)・(5-26)に大きく載せていますのでよかったらご覧ください。当時の堀では蓮が栽培されていて、北原白秋の歌白雉城 お濠の蓮の ほの紅に 朝眼よろしも 妻のふるさとが詠まれた風景です。現在の府内城東側の堀を挟んだ公園に白秋の歌碑があります。

 

今年の出来事として一番印象に残ったのは、念願だった災害医療への従事のために、自衛隊予備医官への訓練が修了して任官を受けたことです(ブログ2015年1月26日)。あくまで肩書上ですが予備役とはいえ、尊敬している志賀淑雄少佐(ブログ2015年12月7日)よりも位階が上になってしまい困惑しましたが、責任の重さを痛感しております。災害医療に備えて少しでもお役に立てればと思います。また、予備医官活動を通じて知り合った、大分医大の大先輩である吉岡秀人先生(ミャンマーとカンボジアの国際医療支援を展開されている先生。ブログ2015年9月14日)のご支援も微力ながらさせていただき、来年の3月の大分大学医学部での御講演の開催をお手伝いしております。

 

ここまで書いてきて、郷土史関連の話題が多くなってしまいました(^^;)が、本業の医学についても、11月7日に豊後大野市で開催された第78回 大分県医学会で、

初期診療で診断困難とされる肺血栓塞栓症を迅速に診断、救命しえた一例」と、「大分における Narrative Based Medicine~医療方言と回想法によるアプローチ~」の2題を発表させていただきました。12月には日本臨床薬理学会の年会に参加して、専門医の更新をすませることができました(ブログ2015年12月21日)。臨床薬理学分野では日本医事新報からの企画依頼を引き受けました。

 

以上、年末にあたって今年の出来事を振り返ってみましたが、2年前に当院に赴任してからたくさんの出会いがありました。病院やニコニコ生活村のスタッフをはじめ、地域の皆様に心から御礼申し上げます

 

来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。o(_ _)o 

 

                        (文:森本)

2015年

12月

21日

日本臨床薬理学会総会に参加しました。

こんにちは。

 

先週の木曜日~金曜日にかけて、東京都新宿の京王プラザホテルで行われた日本臨床薬理学会に出席しました。「臨床」薬理学と言う名前のように、日常診療において患者さんの治療の9割以上を占める薬の効果的な使用や注意するべきことについて探求する会なので、病院で治療にあたる上で大変役に立っています。

 

写真は大分大学医学部臨床薬理学の大学院に中国から留学されている JingNa Luoさんです。アレルギー治療薬に使われる抗ヒスタミン薬をアップルジュースと一緒に飲むと、例えば200mLの量では体内の薬の濃度を半分ほど減らしてしまうという研究発表です。

 

これまで、高血圧の治療薬であるカルシウム拮抗薬をグレープフルーツジュースと一緒に飲むと、消化管のCYP3A4という酵素を阻害することで、通常の代謝ができずに血中濃度が上昇する薬物相互作用が知られていました。Luoさんの研究では、アップルジュースと抗ヒスタミン薬であるフェキソフェナジン(商品名アレグラ®)を一緒に飲むと、消化管で薬物を取り込むOATP2B1というたんぱく質(トランスポーター)を阻害することで、逆に血中濃度が下がって効果が少なくなる相互作用の程度を発表されました。

 

Luoさんは中国から大分に来られて4年間臨床薬理学を学び、来年卒業して帰国される予定です。日本に来て印象に残ったことは、医局での大掃除で大学院生のみならず、職員も一緒に雑巾やホウキをもってお掃除したことは初めてで、大変貴重な経験だったそうです。(私も一昨年まで大学病院に勤務していましたので、それまで毎年医局の大掃除をしていました(^^:))。中国と日本の文化の違いに戸惑うこともあったと思いますが、とても楽しく有意義な留学生活を過ごされたとのことで、私もうれしいです!

 

今後ともますますのご活躍をお祈り申し上げます。

 

                          (文:森本)

2015年

12月

14日

元 航空整備士さんへのプレゼント

こんにちは!

 

先週のブログ(12月7日)で、零戦搭乗員の御話を書いたところ、「私の家族にも海軍のパイロットがいました!」とお話をして下さる方がいて、偶然にもブログで紹介した元零戦搭乗員会長の志賀さんと同じ航空母艦で勤務されていたことがわかりました。ちょうど日米開戦があった12月8日に、志賀さんに護衛されて真珠湾攻撃に参加されたそうです。。。

 

ところで右の写真は、戦前の陸軍飛行場で航空整備士をされていた方に私がプレゼントした、戦闘機「隼」の組立モデルです。この飛行機を見ると大変懐かしがられ、エンジンの音で飛行機の調子を聞き分けていたことや、当時整備していた隼の機体は迷彩色だったことなどを話して頂きました。御家族も「初めて父から聞きました!」と驚きながら、興味深そうに聞かれていました。

 

私たち医療者は、日常診療で「100から7を引くといくらになりますか?」などの決まった形の質問に終始しがちですが、シニアである年長者に昔のことを教えていただくにはどうすれば良いかということをもっと考えるべきだと思います。これは私が歴史マニアであることとはさておき(^^;)、そのうち医学教育にも反映されればいいなと思っています。

                         (文:森本)

 

 

2015年

12月

07日

元 零戦搭乗員会長 志賀淑雄さんのお話

写真上:筆者が米国の友人にプレゼントした零戦のモデル(志賀淑雄大尉搭乗機)、写真下:志賀淑雄大尉( ©wikipedia )
写真上:筆者が米国の友人にプレゼントした零戦のモデル(志賀淑雄大尉搭乗機)、写真下:志賀淑雄大尉( ©wikipedia )

こんにちは。12月に入って、そろそろ年賀状を書き始める時期になりました。季節柄、寒暖の差も激しいことから、調子を崩されている患者さんが多くなっています。どうぞお体をご自愛下さい。o(_ _)o 

 

写真は米国に2年間住んでいた際にお世話になった友人(日系Ⅲ世)へのプレゼントです。私を米国戦闘機の後部座席に乗せて飛行体験(ブログ2014年8月22日)をさせて下さった御礼に、飛行機博物館で販売されていた零戦のモデルをお送りしました。モデルのパッケージに、Lt.Yoshio Shiga (志賀淑雄大尉の乗機)と書かれているのを見て、全くの偶然ですが、20年前に私が医師になって最初に受け持った患者さん(80歳代の元零戦搭乗員)から、「素晴らしく尊敬できる方」としてお名前を伺った方であることを思い出しました。当時志賀さんは零戦搭乗員会の会長をされており、元搭乗員の間ではとても人望があったそうです。私は志賀さん本人にお会いすることはなくお話を伺うだけでしたが、大分航空隊などで勤務された後、真珠湾攻撃では制空隊長として写真のように赤が目立つ指揮官機に乗り、南太平洋海戦では攻撃隊を率いて米空母を2隻大破させるなどの活躍をされたそうです。特に驚いたのは、海軍士官としては非常に稀なケースだったそうですが、特攻作戦に公然と反対して部下を特攻に出さなかったエピソードです。上記のお話はそれまで学校などでは聞いたことがない、実際のお話だったのでとても興味深かったです。

 

志賀さんや私の担当患者さんは、戦後日本の復興に尽くされた世代ですが、復員された当時は敗戦の責任感から自らの功績をほとんど語ることはなく、御高齢になって戦争を後世に伝えなければという思いが募り、私のような孫の世代にして下さるようになったそうです。戦後から晩年は米軍パイロットからも尊敬され、基地での講演に度々招待されていたそうです。戦争を決して賛美してはいけないですが、志賀さんが若い搭乗員を庇って特攻作戦に公然と反対したエピソードは当時としては勇気ある行動であり、米国とは逆に、今の日本でほとんど知られていない状況は寂しい気がします。

 

志賀さんの御話は、詳しくは「志賀淑雄wikipedia」のサイト や、 「零戦最後の証言」という本にまとめられています。ご興味ある方は読んでみて下さい。

 

                          (文:森本)

 

2015年

11月

27日

映画 マイ・インターン(原題 The Intern)

映画「マイ・インターン(The Intern)のチラシ『Experience never gets old(経験は決して古くならない)』とあります。©Waner Bros
映画「マイ・インターン(The Intern)のチラシ『Experience never gets old(経験は決して古くならない)』とあります。©Waner Bros

こんにちは。三重町も日に日に寒くなって、早朝は外気温が3度でした(^^;)。

 

先日、映画「マイ・インターン(原題はThe Intern)」を見に行きました。急成長する会社を30代で立ち上げた女性社長(アン・ハサウェイ)と、孫が3人いる70歳男性のインターン:新人実習生(ロバート・デ・ニーロ)が主人公です。会社が社会貢献の一環として、シニア高齢者向けに始めたインターン制度で再就職した男性に、女性社長は当初は煙たい思いをしながらも、ピンチな場面を迎えるたびに的確な助言をしてくれることへの感謝が募っていくという物語でした。以前から見たいと思っていた映画で、デ・ニーロの安定した演技を含めて、とても面白かったです。『自分が70歳になったら、こんなおじいちゃんになりたいな~』と思わせるような映画でもありました。

 

映画の中で、デ・ニーロがハサウェイに「Sayonara(さよなら)!」と言うシーンが2回出てきます。仕事や家庭のことで落ち込んでいる彼女を元気づけようとする場面で、日本語が使われていたこともうれしかったです。私が米国に住んでいた時、アメリカ人から日本が割と好印象を持たれていたことを思い出しました。

ご興味ある方はぜひご覧ください(^^)/ 

 

(追伸)この映画の原題は「The Intern」で、邦題は「マイ・インターン」ですが、英語で「My ~」というと、『私だけの』とか『とっておきの』など占有的なイメージが強くなります。映画の後半でデニーロを頼りにする女性社長の心の動きは「My Intern」に近いのですが、それだと題名からしてネタバレになったり、客観性が薄れると判断されて「The Intern」となったのかなと思いました。また、「The ~」というと、「どんな人なんだろう」と想像力を掻き立てられる気もします。以上、私見でした(^^;)

                         (文:森本)

 

2015年

11月

16日

大分城址公園整備・活用基本計画検討委員会の市民委員に選ばれました。

大分城址公園の東側の写真です。中央の石垣の上には「御三階櫓」があり、府内城築城時には天守の役割も果たしていました。その両脇には二階櫓が合計で4基も見え、左遠方には大分市役所が見えています。
大分城址公園の東側の写真です。中央の石垣の上には「御三階櫓」があり、府内城築城時には天守の役割も果たしていました。その両脇には二階櫓が合計で4基も見え、左遠方には大分市役所が見えています。

 

こんにちは。11月中旬になって、朝や夕方はめっきり寒くなってきましたね。寒暖の差が激しくなったために、体調を崩される方が増えているようです。インフルエンザ予防接種も始まっていますが、どうぞお体をご自愛ください。

 

ところで先日、『大分城址公園整備・活用基本計画検討委員会』の市民委員に選定されました。きっかけは、府内城や郷土史に関する私のフェイスブックやブログを大分市長の佐藤樹一郎さんがお読みになって下さり、半年ほど前に市役所に呼ばれてお話しに行ったことが始まりです。その後、上記委員会の立ち上げがあり、行政や専門家に加えて市民委員を公募するとのお知らせを頂き、申し込みしたところ、幸いにも採用されることとなりました。

 

先週第1回目の会合があり、城郭研究が御専門の熊本大学名誉教授の北野隆先生が委員長となり、行政、学識経験者、関係団体から9人、市民から6人の委員からなる委員会が発足しました。これから市民へのアンケート調査を行いながら、大分城址公園の整備計画を2か月に一度の割合で話し合う会議を来年度まで行って、市長さんに具体案を答申するという運びになります。私は子供のころから「郷土史マニア」ですが、そのことに関するこれまでの周囲の反応は『変わり者』というイメージを持たれることがほとんどで(^^;)、今回のように世の中にお役に立ちそうな活動へのお声がけを、行政からして頂いたことは初めてなので、とても嬉しいです。

 

現在、このHPで『回想法に役立つ大分の風景』というページを設けて、高齢者の方々とのコミュニケーションツールとして使っておりますが、先日から府内城と周辺の写真を多数追加して解説をつけております。ご興味がある方はご覧ください。なお、11月7日(土)の第78回の大分県医学会(豊後大野市主催)でも「大分における Narrative Based Medicine~医療方言と回想法によるアプローチ~」として上記ページを紹介発表させていただき、座長の先生や聴衆の方々から温かい反応を頂きました。今後とも医療を主体としながら、地域のみなさまが笑顔になる活動ができればと思います。

 

                       (文:森本)

参考サイト

大分城址公園整備・活用基本検討委員会の市民公募委員が決まりました。

 

2015年

11月

11日

『下町ロケット』

こんにちは!

 

テレビは普段あまり見れませんが、先日当院に取材に来てくださったOAB大分朝日放送の『JOKER DX(金曜深夜0時20分)』と、話し方の講演に来てくださったOBS村津アナウンサーの『旬感!3ch』(水曜日19時)は録画して必ず見るようにしています。

 

最近は、日曜21時放送の『下町ロケット』を見るのがとても楽しみです。「半沢直樹」の原作者で有名な池井戸潤さんが直木賞を受賞した作品で、下町の工場である佃製作所が舞台です。主人公役の阿部寛さん(佃製作所社長、元宇宙科学開発機構主任研究員役)をはじめ、個性豊かな俳優さんが感動的な演技をしていて面白いです。

 

特に、大泉洋さんら北海道の演劇ユニット「チームナックス」から、安田顕さん(佃製作所技術開発部長役)と、戸次重幸さん(帝国重工審査部主任役)が出演していることも、ナックスファンとしては嬉しいです。戸次重幸さんは、本名は佐藤さんですが、芸名は大分県戸次出身のお母様の名前からつけているそうです。お母さまの姓の読み方は「べっき」が正しいそうですが、北海道や全国の人は誰も読めないので、「とつぎ」と名乗っておられます。大分県人としても嬉しい活躍ぶりですね(^^)。

 

『下町ロケット』をまだ見ていない方はぜひ見てみて下さい。前半がロケット編で、後半が医療編なので、再来週から人工心臓の部品開発の物語になります。医療関係者にもきっと面白いですよ(^^)/ 。

 

                                                         (文:森本)

 

2015年

11月

02日

大野町『おおの芋祭り』で「戸次道雪」展示をお手伝いしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは!

 

11月1日(日)に、豊後大野市大野町の「道の駅おおの」広場で、恒例の『おおの芋祭り』が開催され、元大野町長の佐伯和光さんがブース出展されるとのことでパネル展示のお手伝いをしました。パネルの内容は、今年の6月に豊後大野市役所内の公民館で『戦国最強の親子(道雪・紹運・宗茂)を大河ドラマにする準備会 in 豊後大野市』のキックオフミーティングで佐伯元町長さんの講演「これまでの戸次道雪顕彰」と芦刈政治先生の講演「戸次道雪の生誕地についての研究」のスライドを中心にパネルにしてまとめたものです。

 

佐伯元町長さんの娘さんが戸次道雪の立派な肖像を描いて下さり、多くの来場者の目を引いていました。豊後大野は五百年前(1513年)に生まれた道雪の故郷ですが、今だに若い世代の注目や尊敬を集めていることは凄いと思います。きっと道雪も天国で喜んでいることでしょう(^^)。

 

                        (文:森本)

 

2015年

10月

27日

『回想法に役立つ大分の風景』ページを新設しました。

大分上野丘高校創立130周年記念『アーカイブスパネル展』で展示した「大分の懐かしい風景」のうち、『府内城と大分県庁・市役所・教育会館』の部分です。明治40年から昭和12年頃に撮影された写真です。
大分上野丘高校創立130周年記念『アーカイブスパネル展』で展示した「大分の懐かしい風景」のうち、『府内城と大分県庁・市役所・教育会館』の部分です。明治40年から昭和12年頃に撮影された写真です。

 

こんにちは。

 

当院のホームページに『回想法に役立つ大分の風景』ページを新設しました。(※PC画面の左の青いメニューバーの下にアイコンを作っています。)

 

このページは8月の大分上野丘高校130周年記念行事に際して、同窓会副会長の上尾裕昭先生(うえお乳腺外科院長)から御依頼を受け、大分市ホルトホールで開催された『アーカイブスパネル展』全100枚のパネルのうち、「大分の懐かしい風景」部分で作成した15枚のパネルにした原稿の写真と解説をまとめたものです。アーカイブスパネル展の様子は、ブログ8月18日『大分の懐かしい風景のパネル展示』でも紹介しました。

 

おかげさまで、『アーカイブスパネル展』は好評のうちに終了して、その後も県内の小中学校の先生や、ご興味を持たれた方々からお問い合わせを頂きましたので、私が担当した風景写真と原稿を上記ページにまとめました。もともと、大分上野丘高校の展示用に作成したため、現在は大分市内の風景が主ですが、今後は豊後大野市や竹田市、臼杵市、佐伯市など県下の全ての地域を網羅しようと思います。

 

                                                                   (文:森本)

参考サイト:

大分合同新聞2015年8月7日『大分の歴史知ろう 上野丘高130周年 あす市民公開講座』 

大分合同新聞2015年8月9日『卒業生が記念講演 上野丘高校130年』

 

2015年

10月

21日

続 大分のタイムカメラ 戦前の府内城② ~東の丸の着到櫓に大分測候所が設けられた頃~

上:明治中~後期に撮影された、(右手前から)着到櫓、大手門櫓、宗門櫓、西南隅櫓の写真。中:明治40年の府内城。下:昭和5年 第30回大分第一高等女学校卒業写真集より 府内城の西南隅櫓の前の御堀端を登校する女学生(いずれも著者所収)
上:明治中~後期に撮影された、(右手前から)着到櫓、大手門櫓、宗門櫓、西南隅櫓の写真。中:明治40年の府内城。下:昭和5年 第30回大分第一高等女学校卒業写真集より 府内城の西南隅櫓の前の御堀端を登校する女学生(いずれも著者所収)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは。

 

今回は明治から昭和初期の府内城の風景をご紹介します。上と真ん中の写真の右手前に見える二重櫓は東の丸(二の丸)の大手門側にあり、「着到櫓」と呼ばれていました。明治18~19年(1885~1886年)に連続して大分県下で大きな台風被害があり、気象観測と予報の重要性が認識されました。そのため明治20年(1887年)に、府内城の着到櫓を「大分測候所」と定めて、屋根上に観測設備が設置されました。そこで、気圧、気温、湿度、風向きと強さなどを1日6回(午前と午後の2時、6時、10時)測定して、東京気象台に発信していました。

 

上の写真は明治中期~後期に撮影された、私が所有している府内城の絵葉書では最も古いものですが、着到櫓の1階の南側の窓が二つあり、他の櫓の窓の数と同じでした。一方、真ん中の写真は明治40年に大正天皇が皇太子時代に行啓のために大分に来県され、府内城内の東の丸御殿にご宿泊された時のものですが、1階の窓が4つに増えています。測候所が設置された櫓として、より多くの採光が必要だったのでしょうか。。なお、着到櫓に設置された大分測候所は明治20年(1887年)から明治40年(1907年)まで稼働して、明治41年(1908年)に長浜町の現在地に移転しました。着到櫓は真ん中の写真に見える大手門櫓や西の丸の西南隅櫓と共に昭和20年(1945年)の空襲で焼失してしまいますが、昭和40年(1965年)に復元された際に窓が2つの形に戻りました。

 

また、大手門櫓の上には鐘楼があり、朝の出勤時や正午に時を告げる鐘が鳴らされていました。府内城の堀を隔てて南に大分第一高等女学校があり、お堀端は通学路でもあったそうです。下の写真をみると、大分第一高女の女学生が元気に登校している姿が映っています。  

 

                        (文:森本)

 

2015年

10月

05日

続 大分のタイムカメラ 戦前の府内城① 西側の堀と蓮の風景

府内城の西南隅櫓と堀を挟んだ、武家屋敷が並ぶ風景。2枚でセットになっています(著者所収)
府内城の西南隅櫓と堀を挟んだ、武家屋敷が並ぶ風景。2枚でセットになっています(著者所収)

 

 

 

 

こんにちは。

 

今回は、大分のシンボル、府内城の西側の堀と蓮の風景を紹介します。この方角から見た古写真は本などであまり見たことがなく、珍しいかもしれません。府内城の堀を挟んだ西側というと、現在は大分市役所やその北側にあるアートプラザ(旧 大分県立図書館)がある場所ですが、写真では武家屋敷が広がっています。当時は高い建物があまりなかったので、右側の写真に写っている西南隅櫓が、府内城下町の南側遠くからよく見えていたようです。また、堀には栽培されていた蓮が密集して見えますが、蓮の花が咲く7月から8月はとても綺麗で、蓮の実が9月から10月に収穫されていたそうです。

 

上記の写真では、現在ある西側から城に入る通路ができていないことから、大正10年(1921)に城内に洋風の大分県庁が建てられる前に撮影されたものだと思います。当時は大分県女子師範学校や附属小学校、大分県立第一高等女学校の生徒の通学路であり、お堀端を通って元気に通学する生徒たちが多かったようです。(次回に続きます(^^)/   

 

                                                            (文:森本)

 

2015年

9月

14日

国際医療支援の吉岡秀人先生(大分医大卒、『情熱大陸』に出演)の講演会のお知らせ

 

おはようございます。

 

10月10日(土)午後6時より、大分市OASISひろば21 iichiko 音の泉ホールにて、吉岡秀人先生(平成4年に大分医科大学:現 大分大学医学部卒業後、小児科医となり、ミャンマーやカンボジアの国際医療支援を長年行われている。現在、特定非営利活動法人 ジャパンハート代表)の医療講演会があります。

 

吉岡先生はTBSテレビの『情熱大陸』で3回に亘って、アジア各地の医療支援を行われている様子が全国に放送されるなど、大分医大(現 大分大学医学部)卒業生の中では最も有名な先生の一人です。私は先日先生にお会いした際に貴重な体験談を伺い、恐縮ですが吉岡先生も、私が自衛隊予備医官をしていることに興味を持って頂いたそうで、お酒を飲みながらたくさんの御話をすることができました。

 

『医療支援をしたいという夢を持つ医学生や医者はたくさんいるけど、その思いを実現している人は少ないですね。。』というお話から始まり、『情熱大陸』で紹介されたミャンマーやカンボジアの医療支援の実際はとても興味深いです。ご興味がある方は10月10日の講演会にお越し頂ければ幸いです。

 

                         (文:森本)

 

入場前売券(700円・当日券1000円)は大分市府内町のトキハ会館プレイガイド(097-538-3111)で販売されているほか、070-5411-7580(担当:アクサ生命保険会社 後藤さん)に御電話すればチケットを確保していただけるそうです。

 

なお、吉岡先生の講演終了後、午後8時から「吉岡秀人先生との座談会」を医療者30名限定でOASIS 21ひろばにて開催されるそうです。ご興味ある方は上記の後藤さんに御連絡をお願いします。

 

参考サイト

 特定非営利活動法人ジャパンハート

 

2015年

9月

07日

同級生の活躍

 

こんにちは(^^)

 

御盆が過ぎてから、随分と涼しくなりました。日中はまだ暑い日が多いので、夕方や朝方は冷房などで冷えないようにご注意くださいね。

 

先日、三重町のコンビニエンスストアの雑誌コーナーで、大学時代の同級生が写真付きで掲載されておりました。大分医科大学(現 大分大学医学部)12期生(平成7年卒業)の岩嶋義雄先生で、大阪市の国立循環器病研究センター病院の高血圧・腎臓科の医長を務めています。こうして同級生が活躍しているのを見ると大変励みになります(^^)。

 

岩嶋先生は大阪出身ですが、大学時代は一緒に草野球をしたり、学内や国家試験のテスト勉強対策をしたり、と楽しい思い出ばかりでした。同窓会などで会うと昔話に花が咲きますが、卒業して20年は長いようで、あっという間だったという感想は同じでした(^^;)。私が当院で診療する上で、岩嶋先生のような同級生はもちろん、知り合いの専門医や研究者に意見を聞くことも(聞かれることも)よくあります。今はインターネットやフェイスブックがあるのでとても便利ですね。

 

岩嶋先生の本にご関心がある方は、ぜひ読んでみて下さい。私の外来(第2診察室)にもおいてあります(^^)

                              (文:森本)

参考サイト

岩嶋義雄監修「高血圧治療の名医が教えます!自力で血圧を下げる本 宝島社」

 

2015年

8月

31日

「大分の医療方言」につきまして後日談です

豊後方言を描いた戦前の絵葉書(著者所収)
豊後方言を描いた戦前の絵葉書(著者所収)

 

こんにちは!(^-^) 

 

このホームページの中に『大分医療方言集』を作成したところ、さまざまな方々から面白かったという御感想を頂きました。誠に有難うございます。o(_ _)o 今年の5月には、OAB大分朝日放送の『JOKER DX』という番組にも取り上げていただき、タレントの首藤将太さん(野良レンジャー)から『豊後遺産』として認定していただきました。誠にありがとうございます。(詳細は、2015年5月7日ブログおよび6月1日ブログをご参照ください)

 

大分医療方言集』の参考文献として、大分県立看護科学大学の先生方が中心になってまとめられた「大分保険医療方言集」(註1)を挙げておりますが、大分医療方言集ページを作成した当初は文献(註2)で本の存在は知っていたものの、残念ながら手にする機会がなかったので、初版(2014年7月21日)では当院で聞かれる医療方言を中心に、明治から平成にかけて発刊された大分方言に関する本を参考にしてまとめました。

 

先日、大分県立看護科学大学准教授の伊東朋子先生の御来院を頂き、その際に伊東先生らが作られた「大分保険医療方言集」註1をプレゼントしていただきました。心より御礼申し上げます。o(_ _)o 上記の御本は平成10年(1998年)に大分県立看護大学が開学して間もない頃から企画されて作られたそうで、今も看護学生が実習をする際に配布されているそうです。流石に大分県立看護大学は素晴らしい教育をされていると感銘を受けました。自分は大学の講義や実習で習ったことはなく、研修医になってから指導医に恵まれて、これまでの勤務地(大分、長崎、名古屋、千葉など)の医療方言を教えてもらったことが現在とても役に立っています。

 

大分県立看護大学は、私が大分大学医学部附属病院に勤務していた頃、当時学長を務められていた草間朋子先生の御依頼を受けて、『ナース・プラクティショナー』養成のために臨床薬理学と処方学の実習と講義を担当させて頂いたことがあります。今後とも県立看護大学と交流を温めていくことができればと願っております。

 

註1日高貢一郎編『大分保険医療方言集』大分保健医療方言研究会 平成13年                 

註2肥後球『医療現場における方言の活用(PDF)』慶應義塾大学 湘南藤沢学会 研究会優秀論文 平成19年

                                              (文:森本)

 

 

2015年

8月

24日

戦前の名古屋城写真と愛知県がんセンター

昭和15年(1940)の名古屋城大天守と本丸御殿の彩色写真(著者所収)。5年後の名古屋大空襲(昭和20年5月14日)でいずれも焼失した。
昭和15年(1940)の名古屋城大天守と本丸御殿の彩色写真(著者所収)。5年後の名古屋大空襲(昭和20年5月14日)でいずれも焼失した。

 

 おはようございます!

 

 写真は名古屋城が昭和20年(1945)の名古屋大空襲で焼失する前の、昭和15年にお土産として販売されていた彩色写真です。

 

 名古屋城天守は江戸時代初期の慶長17年(1612)に建てられ、下の写真の本丸御殿と共に空襲で焼失してしまいますが、天守は昭和34年(1959)にコンクリートで再建されました。平成21年(2009)から、焼失した本丸御殿が木造で復元される工事が進み、平成25年(2013)には玄関と表御殿が公開、来年の平成28年(2016)には対面所が公開されて、平成30年(2018)には全面公開されるそうです。半世紀前にコンクリートで再建された天守も、現在木造で立て直す計画が進んでいるとのこと。素晴らしいですね!

 

 ところで名古屋と言えば、私は平成11年(1999)に勤務していた大分医科大学(現 大分大学医学部)附属病院から愛知県がんセンター中央病院に国内留学を命じられ、病院のある名古屋市千種区に居住して放射線化学療法やがん患者さんの入院治療管理の研修を受けました。残念ながら大好きなお城を見に行く余裕がなかったですが、病院スタッフの方々と名古屋名物の味噌カツやきしめんを食べたことが懐かしい思い出です。

 

 お陰様で愛知県がんセンター中央病院の先生方とは今も交流があり、大分のがん患者さんで先端的な治療を県外でも受けたいという御希望の方に紹介しています。もともと愛知県はCTの原理や回転照射を開発した高橋信次先生以来の伝統で先端的ながん治療が進んでおり、紹介した患者さんが元気になって帰られた時は大変うれしかったです。

 

 平成30年に本丸御殿が完成したら、ぜひまた名古屋に行きたいです(^^)/ 

 

                                                                           (文:森本)

 

2015年

8月

18日

「大分の懐かしい風景」のパネル展示

こんにちは!

 

御盆が終わると同時に夜は少し肌寒くなってきましたね。今年の御盆は実家の御墓参りや母校の同窓会、子供のスポーツ練習、献血などであっという間に過ぎました(^^;)。

 

写真は8月8日から16日まで、大分駅南口のホルトホール1階で、大分上野丘高校同窓会主催のパネル展示『写真と新聞記事でたどる大分と母校の130年間の歩み』で、同窓会副会長の上尾裕昭先生(うえお乳腺外科院長)の御依頼を受けて、戦前の大分の写真をまとめた15枚のパート「大分の懐かしい風景」の一部です。パネルは全部で100枚以上あり、大分合同新聞の記事を題材を取り入れた母校の歴史年表や、栗林信幸さんが撮影された昭和40年代~60年代の懐かしい大分市の写真もありました。

 

おかげさまで期間中はたくさんの来場者があり、8月9日の大分合同新聞朝刊にも『当時のことが懐かしくよみがえってくる』という、72歳の来場者の話が紹介されていました。

 

医療分野では、「回想法」といって、青少年時代の懐かしい風景や記憶を思い出すことが認知症予防や症状の改善に役立つことが知られています。このホームページでも「認知症と地域支援の取り組み」「大分のタイムカメラ」で大分の古写真を紹介しています。ご興味のある方はどうぞご覧ください。

 

                       (文:森本)

 

2015年

7月

23日

変わりゆく風景 ~大分川新橋の建設~

写真上段左:2016年竣工予定の大分川新橋の完成イメージ図。写真上段中:大分川新橋の告知板。写真上段右:上空からのイメージ図。写真中段:元町の大分川防波堤からのパノラマ風景(道路遠方が北)。画面右側(東側)に建設中の橋脚が映っている。写真下段:同じくパノラマで道路遠方が南。(※クリックすると拡大します) 
写真上段左:2016年竣工予定の大分川新橋の完成イメージ図。写真上段中:大分川新橋の告知板。写真上段右:上空からのイメージ図。写真中段:元町の大分川防波堤からのパノラマ風景(道路遠方が北)。画面右側(東側)に建設中の橋脚が映っている。写真下段:同じくパノラマで道路遠方が南。(

 

 こんにちは!1月30日のブログ『変化の年』by リハビリ課職員 の中で紹介されていた、大分川の新橋(仮称。正式名称は未定)が建設中で、先週末に見に行ってきましたのでお知らせします。

 

 大分川新橋は、国指定遺跡の大友氏遺跡がある大分市元町から、庄の原佐野線として大分市街と下郡工業団地をつなぐ幹線道路にかかる橋で、新しく大分川に架けられる橋としては半世紀ぶりだそうです。父が元町で勤務していた関係で、私は写真に映っている取り壊し中の建物に子供のころから住んでおりました。35年以上前になりますが小学生の頃、大分川の防波堤で友達と草すべりをして遊んだり、チビッコ広場(大分川沿いの野球広場)で地元のヒーローだった岡崎郁さん(大分商業のエースで4番として甲子園に出場。長嶋茂雄監督が獲得のため元町を来訪し、その後は読売ジャイアンツで活躍。現在は同 二軍監督)を見かけたり、といろんな思い出が詰まった場所だったので、最近の変化はとても感慨深いです(^^)。。。

     

                       (文:森本)

 

2015年

7月

21日

英検準1級試験を受けてみました。

 こんにちは!

 

 先日、学生さんたちに混じって英検を受けました。地元の子供たちにボランティアで英語を教えていて、今の英語試験を体感しておかなければと思ったのですが、中でも語彙テストの単語が深すぎて(日常会話ではほぼ出ない、ネイティブも普段はあまり使わないと思われる単語)、びっくりしました(^^;)。

 

 私が大学生時代に始まった準1級試験の最初の頃の問題と比べて、レベルが格段に上がっている気がします。今回は幸い合格できましたが、1級はさらに難しそうなので気合を入れて勉強したいと思います。

 

 文部科学省は大学入試改革がある平成30年に向けて、TOEIC 780点、英検準1級以上でセンター試験英語を「満点扱い」にする方針だそうですが、英検熱が再燃するのかな。。もちろん英語も大切ですが、地元の子供たちが北海道の大泉洋さん(俳優)やチームナックスのように地域を元気にする人材に育つのが私の夢です(^^)/ 

 

                           (文:森本)

参考サイト:

産経ニュース2013年12月31日TOEIC 780点、英検準1級以上なら、センター試験英語は満点扱い 文科省」 

 

日経ニュース2015年7月15日「英検準1級、教員には高いハードル」

 

クリエイティブオフィスキューのホームページ:大泉洋さんらが大学演劇部時代に結成した劇団チームナックスが所属する北海道プロダクションです。メンバーの戸次重幸さん(お母さまが大分県出身で戸次(べっき)姓ですが、北海道や全国では難しい読み方なので「とつぎ」さんと呼ばれています)は、北海道テレビの番組で大泉さんらと大分県を訪問されて、戸次(へつぎ)名物ほうちょう(鮑腸)や、別府冷麺などを召し上がっています(^^)。

 

 

2015年

7月

13日

医学講義の雑談から② ~恋と愛の英語の違い

米国西海岸のシアトル から車で3時間のところにあるカナダのバンクーバーです。美しい街でした(^^)
米国西海岸のシアトル から車で3時間のところにあるカナダのバンクーバーです。美しい街でした(^^)

 

 こんにちは! 先日のブログ(講義の合間に、恋と愛の違いについて雑談した話)の続きです。

 

 普段あまり意識されていないかもしれませんが、結婚式で永遠を誓うのは「愛」であって、「恋」ではありません。また、「恋に落ちる」という言葉がありますが「愛に落ちる」とは言わないように、日本語で恋と愛は言葉で区別されています。

 

 ところが英語では「愛」と「恋」のいずれも『LOVE』という言葉が広く使われています。ただ英語のネイティブスピーカーも、「God's love」なら神様の愛、「Love affair」なら情事、というように前後の言葉や文脈から意味を区別しています。日本語でも何かを勧められたときに Yes と No の意味を両方持つ「いいです」という言葉があるのと少し似ているかもしれません。「いいです」は、その場の雰囲気や話し手の表情で意味が正反対になるので、日本語を学んでいる外国人にとって理解しにくい言葉のひとつだそうです。
 また、英語の『LOVE』は趣味や嗜好の意味でも使います。マクドナルドの宣伝文句で、「i'm lovin' it !(I'm loving it !) 」というのがありますが、love を現在進行形で使う口語では、「夢中」とか「はまっている」を意味します(中学高校の英文法のテストで書くと×かも)。余談ですが、米国で一番わかりにくかったのは現地の中高生の言葉でした。初対面では遠慮して話してくれますが、ある程度慣れてくると早口で若者言葉を連発するので、Cool!(すごい)と You bet!(もちろん)しか聞き取れなかったこともあります(^^;)。。。いずれにしても、恋と愛を言葉として区別している日本語と、多様な意味を持つ『Love』を文脈や場面で使い分けている英語の違いは興味深いですね。

 

 ところで「恋人」と「愛人」は現在の日本語では意味がまったく異なりますが、後者は時代の変遷に伴って不倫関係を暗示する意味合いが強くなった言葉だそうです。一方、「Lover」を英和辞典で引くと「恋人」と「愛人」が両方載っていますが、私が実際に聞いた中では、後者の意味合いが強かった印象でした。前者は口語でsteady や sweet heart (※恋人のほか、親友の意味もある)の方が日本語の「恋人」の意味に近いと思います。『場の空気を読むこと』は日本だけでなく、海外でも大事です。外国人の友達や親戚に「僕の彼女を紹介します!」と英語で話す場合に、不用意に「Lover」を使わない方が無難なのではと思います。

 

 以上、医学講義の雑談とはいえ、昭和生まれの私が恋と愛の話題をすることに当初はためらいがありましたが、関連した英語や歴史の話をすることで、19歳前後の平成生まれの生徒たちに少しでも勉強になり、将来くれぐれも事件や誘惑に巻き込まれないことを祈って、お話をしています。

 

 今日も良い一日をお過ごしください(^^)/ 

 

                       (文:森本)

 

(補遺)英語でも「affection」など日本語の『愛情』とほぼ同じ意味を持つ言葉もありますが、このエッセイでは一般に広く用いられている言葉『LOVE』を例にあげて説明しました。

 

2015年

7月

10日

医学講義の雑談から ~恋と愛の違いについて

こんにちは!

 

大学教官時代からの御縁で、地元の医療専門学校に依頼されて、二つの講義を受け持っています。一コマ90分間ずっと医学のことを話し続けると、生徒が飽きてしまうので時折雑談を挟むようにしています。医学にちなんだ郷土史や医療方言などの話題が多いのですが、先日は『恋と愛の違いについて』、話してみました。

 

主旨は『恋は一過性の病気のようなもので、必ず終わりがある(例:色恋沙汰など)。愛は無償の愛と言われるように、終わりがなく世代を超えて人々の心の中に残る』というものです。戦後世代は、「ご褒美の世代」とも言われますが、最近のさまざまな事件の多くは、人に見返り(ご褒美)を求めるけれどそれがないことへの不満が背景になっている気がします。無償とか無私の愛なら、見返りがなくても全く構わないわけで。。。恋と愛を区別できないことが、ストーカー行為や人を傷つける事件の遠因になっているかもしれません。俳優の大泉洋さんが、「自分は結婚に関して(相手が何かをしてくれるというような)期待をしていなかったから良かったと思う」とテレビで話していたのは至言だと思います。

 

生徒たちは、これまでの雑談の中で一番目を輝かせて聞いてくれましたが、19歳の彼らに役に立ったかどうか。。。少なくとも社会人になってセクハラ、パワハラ、ハニートラップ、美人局(つつもたせ)など、さまざまな事件や誘惑に巻き込まれないことを願って雑談をしました。また、学校の歴史ではあまり教えられていないようですが、史実としてナチスドイツが日独伊枢軸同盟を成立させるために、日本の在外公使館員にハニートラップを仕掛けた逸話は教訓になると思います。さらに豊後高田出身の戦国武将・高橋紹運(秀吉から日本一と評された立花宗茂の実父)の有名な話(婚約者が天然痘に罹って容姿が変わったために、彼女の実家が遠慮して破談にしたいと申し出たときにも約束を守り、仲睦まじい家庭を築いて生涯側室は持たなかったこと)をすると、生徒たちが感心した表情をしたことがとてもうれしかったです。一過性の色恋に動じない効果的な方法は、先人の歴史から学ぶことだと思います。

 

最後に、ある友人の体験談を雑談のオチとしました。『私の友人が中学時代に生まれて初めて女子からラブレターをもらいました。彼はシャイなので返事を出せずにそのままになったことがずっと気になっており、30年後の同窓会で「あの時返事を出さずにごめんね。」と謝ると、彼女は「何のこと?人違いでは。。。?』と言われたそうです。30年の歳月は長いですが、恋をした彼女から完璧に忘れられたエピソードです。彼女は認知症でないので、「恋=一過性の病気説」を裏付けるよい例かもしれません(爆笑)』。。。

 

                      (文:森本)

 

 

 

2015年

6月

29日

満員御礼『戦国最強の親子を大河ドラマにする準備会 in 豊後大野市』

~なぜ今、道雪・紹運・宗茂なのか~

大分合同新聞に掲載された記事と、会場の様子(写真撮影:阿南徹さん)      大分合同新聞に掲載された記事と、会場の様子(写真撮影:阿南徹さん)

 

こんにちは(^-^) ! 

 

先日のブログでご案内しました、『戦国最強の親子(道雪・紹運・宗茂)を大河ドラマにする準備会 in 豊後大野市』を、6月27日(土)に豊後大野市役所中央公民館視聴覚室で開催しました。当日の大分合同新聞の朝刊に大きく取り上げられたこともあり、用意していた資料や椅子が足りなくなって、急きょ補充するなど、盛況のうちに終了することができました。真にありがとうございました。o(_ _)o 

この準備会は、三重町の郷土史家で元三重中学校長の芦刈政治先生(87歳)、元大野町長の佐伯和光先生(69歳)を中心に、森本(46歳)が事務局を務めています。

 

会の最初に『なぜ今、道雪・紹運・宗茂なのか?』と題して、私より会の立ち上げの主旨を説明しました。現在の日本では少子高齢化が叫ばれ、地方の過疎を含めて懸念されています。テレビや新聞では、少ない現役世代で多くの高齢者を支えなければいけない、などと連日のように報道していますが、逆に考えれば多くの年長者が若い世代を大切に育てていける時代でもあると思います。

 

豊臣秀吉から『鎮西一(九州一)、西国一、日本一』と絶賛された宗茂(※ある若い人は「そうしげる?」と読んでいましたが、「むねしげ」です(^^;))は、道雪と紹運の二人の父(それぞれ養父と実父)に育て上げられました。有名な「名将言行録」では、少人数で大軍を破る武勇や人柄が敵からも尊敬された三人の親子が多くの頁を割いて紹介されています。『なぜそんなに強く、みんなから慕われているのか?」と、道雪にぜひ会いたいと手紙を送った武田信玄をはじめ、三代将軍の徳川家光や幕閣、外様大名に至るまで当時から強い関心を持たれていました。彼らはいずれも豊後出身で、特に道雪は57歳まで鎧ケ岳城主として豊後大野の領内をはじめ、府内の大友館や柞原八幡宮(大分市)での逸話(道雪の生母が子宝を授かることを祈念した)など多くの事績が残っているにも関わらず、大分県でもあまり知られていないことを残念に思っています。先日、高校の後輩でテレビ局で活躍している20代~30代のアナウンサーに「戸次道雪や立花宗茂って知ってる?」と質問したら、「日本史には弱いんです~」という反応でした(^^;)。三人の親子は学校の日本史には登場しませんが、たとえば紹運の有名な逸話(婚約者が天然痘に罹患して命は取りとめたものの容姿が変わってしまったために、彼女の実家が遠慮して破談にしたいと言われた時にも約束を守り、仲睦まじい家庭を築いた)を若い人たちが知る機会があれば教育にも役立つと思います。ちなみに紹運は生涯側室を持たず、宗茂とその弟の父となります。

 

大分県では『大友宗麟を広く知ってもらおう』という事業が盛んに行われていますが、実は戦前から同様の活動が続いていて、大分駅前の銅像をはじめとして地元では既に有名であり、何度も映画やテレビに取り上げられてきた(映画「国東物語」(1985年)、NHK「大友宗麟~心の王国を求めて~ 2004年)にも関わらず、大河ドラマ「独眼竜政宗」の伊達政宗や、「風林火山」の武田信玄のように、日本全国でブームになるには至っておりません。

 

私たちの活動で取り上げる『道雪・紹運・宗茂』の三人の親子は、これまで映画やテレビの主人公になったことは一度もありませんが、もし大河ドラマや映画などに取り上げられて、大友宗麟から徳川家光までの時代を通して、彼らの「智勇節義(三浦梅園が道雪を評した言葉)」をもった爽やかな生き方が紹介されれば、「独眼竜政宗」のようにブームとなり、その前半の舞台である豊後(大分県)や筑後(福岡県)は仙台や長野県上田市(真田氏で有名)のように活性化されることを確信しております(^^)。。。

 

この会は、大河ドラマや映画実現までの『準備』として、若者によく知られていない三人の親子の物語をまとめて伝えると同時に、これまで場所が不詳だった道雪生誕の地(鎧ヶ岳城のふもとの「藪河原館(複数の古文書を解読した芦刈先生の御研究により、現在の小字の城浦にあり、明治37年の銅板画にも記されている「柳台城」と同じであることが判明します)」を特定して、その地に観光案内板を建てたいという目標があります。実は2年前に大分合同新聞社文化部に依頼されて、戸次道雪生誕五百年について寄稿したことをきっかけに、高校の同級生で豊後高田市役所に勤めている飯沼憲一さんに案内されて、紹運・宗茂が生まれた吉弘館(筧城)の地(豊後高田市立戴星学園都甲中学校の周辺)を散策しました。そのときは案内板がなかったのですが、現在では豊後高田市役所の担当者をはじめとした関係者の尽力により、「吉弘統幸、高橋紹運、立花宗茂生誕の地」という立派な案内板が設置されています。豊後高田市は永松博文市長のリーダーシップにより『昭和の町』として活況を呈していることや、飯沼さんをはじめとする介護行政が国から高く評価されてNHKの全国放送でも紹介されていますが、歴史顕彰についても大変積極的に行われていることは素晴らしいと思います。豊後大野市でも、橋本祐輔市長が私の郷土史講演に御来場してくださったり、そのきっかけを作って下さった三重町の玉田輝義 県会議員がこの会の立ち上げから陰に日向に応援してくださっていることを大変感謝しております。御二人に重ねて御礼申し上げます。(市長の部屋 6月24日ページ参照)

 

次に、佐伯和光先生(元 大野町長)に、長年に亘って戸次道雪の顕彰を行い、道雪ゆかりの地の整備(若宮神社、常忠寺)をはじめとして、道雪を主人公とした舞台の開催、柳河の筑後立花会との交流など幅広く活動されたお話をしていただきました。

 

                     (文:森本)

                            

2015年

6月

24日 

佐賀関の大煙突頂上から見た戦前の風景

佐賀関の大煙突の頂上から見た風景。写真上が南方向で、手前に港が見えます。(戦前絵葉書所収)                                                                 
佐賀関大煙突の頂上から見た風景。写真上が南方向で手前に港が見えます(戦前絵葉書所収)                                                                 

 

こんにちは(^-^)

 

当院では高齢者から昔の思い出をお聞きして、長期記憶の確認をしながら認知症の予防や症状の改善に努めています。(※認知症と地域支援の取り組みページをご参照下さい。)そのときの補助資料として、郷土史マニアとして収集している大分の昔の写真をご覧いただきながら御話を伺っておりますが、今回は、佐賀関精錬所にあった東洋一の大煙突(通称:関の大煙突)の頂上から見た風景をご紹介します。※病院スタッフ日誌のページからこの記事をお読みになっている方は、「続きを読む」をクリックすると下の2枚の写真が開きます。

佐賀関の大煙突(戦前絵葉書所収)                                                                 
佐賀関の大煙突(戦前絵葉書所収)

大正5年(1916)に完成した当時は、167.6メートルを誇る世界一の高さであり、その後も長く東洋一を誇っていたことから『東洋一の大煙突』、地元からは『関の大煙突』として大分県民に親しまれてきました。私も小学校や中学校時代に、社会見学に行った記憶があります。

 

『関の大煙突』は百年近くに亘って大分県の産業のシンボルでしたが、老朽化に伴い、平成25年(2013年)6月に解体されて、現地には記念碑が建っています。現在は昭和47年(1972年)に建てられた第二大煙突(高さ200メートル)が役割を担っています。

 

上記の二つの煙突は標高125メートルの丘の上にあることから、煙突頂上は約300メートルの高さですね。最初にご紹介した絵葉書の写真は、まるで航空写真です(^^)/ 

佐賀関精錬所で作られた金属類。今も大分県の金属産業の中核を担っている。(戦前絵葉書所収)

佐賀関精錬所で作られた金属類。今も大分県金属産業の中核を担っている(著者所収)

 

                        (文:森本)

                                                                 

 

 

 

 

 

 

 

2015年

6月

22日

豊後出身の戦国武将 戸次(立花)道雪・紹運・宗茂を大河ドラマにする準備会

上のプログラムは、クリックすると拡大します。
上のプログラムは、クリックすると拡大します。こんにちは(^-^)!

 こんにちは(^-^)!

 

今週の6月27日(土)午後2時から、三重町の豊後大野市役所中央公民館にて、『道雪・紹運・宗茂を大河ドラマにする準備会in 豊後大野市』の第1回キックオフミーティングを開催します。

 

「大分の歴史には、ワクワクするような英雄がいない」というような話を時々聞くことがありますが、戸次道雪(べっきどうせつ、後の立花道雪)、高橋紹運(たかはしじょうん)、立花宗茂の三人の武将は江戸時代に書かれた「名将言行録」で、多くのページを割かれて紹介されており、いずれも豊後出身です。

 

戸次道雪(べっきどうせつ、後の立花道雪)は、落雷に遭って足が不自由になった以後も生涯現役で活躍した豊後大野出身の戦国武将です。毛利や竜造寺、島津など、敵対する武将からも尊敬され、武田信玄からぜひお会いしたいと手紙を送られたことでも知られています。さらに、後に豊臣秀吉から「東の本多、西の立花」「西国一」と絶賛され、一時は徳川家康に敵対しながら、秀忠、家光の三代に亘って高く評価された立花宗茂(たちばなむねしげ。後の柳川藩主)を養子にして育て上げた、優れた教育者でもあります。

 

高橋紹運(たかはしじょううん)は、国東(現在の豊後高田市)の吉弘家の出身で、立花宗茂の実父です。岩屋籠城戦をはじめとする知勇兼備の武将として、道雪と並んで大友家を支えました。有名な逸話として、紹運の婚約者が天然痘に罹患して容姿が変わってしまい、彼女の実家が遠慮して婚約を解消したいと申し出た際にも約束を違えず、仲睦まじい家庭を築いたことが当時から賞賛されています。

 

後に、三浦梅園が戸次道雪を『智勇節義の名将』と絶賛したように、三人の親子の人生は爽やかで節度があり、味方や部下だけでなく敵からも敬愛されていたことは郷土の誇りだと思います。今回のミーティングでは豊後での道雪の事績について、今まで所在がわからなくなってしまっていた生誕地(藪河原館=柳ヶ臺)の解明(初公開です!)を含めて、古文書と現地調査した結果を大分の郷土史家の芦刈政治先生(三重町在住)に講演していただきます。また大野町で戸次道雪の顕彰を行ってこられた元大野町長の佐伯和光さん(大野町在住)にこれまでの活動についてご紹介していただきます。私からは、事務局としてインターネットを中心とした今後の会の活動をお話しします。

 

ご興味のある方は、6月27日(土)の会にふるってご参加ください。 入場無料です。(^^)/  

 

フェイスブックページ:戸次(立花)道雪・紹運・宗茂を大河ドラマにする準備会

 

                                                           (文:森本)

コメント: 2
  • #1

    みなみどうせつ(金曜日, 26 6月 2015 05:23)

     大友宗麟、島津義久、龍造寺隆信の大河ドラマでの場面の比重はどれくらいですか。大友能直が大野町の「風早のお堂」で大友一族の繁栄を願って亡くなる場面から始めませんか。原作を童門冬二氏に頼み、2020年に放映されるようにしませんか。いろいろと夢は広がります。

  • #2

    森本(金曜日, 26 6月 2015 08:01)

    みなみどうせつさま、貴重なコメントをありがとうございます。私たちは『戦国最強の親子の物語を大河ドラマの題材にどうでしょう?』と控えめに提案して、後はプロの作り手や脚本家にお任せしたいと思っておりますので、具体的には考えておりませんでした。私見ではありますが、ドラマの大筋は、1.豊後編、2.筑後編、3.柳川・江戸編の3つの大きなパートに分かれて、それぞれ3~4分の1程度の比率でしょうか。大友能直になると日本全国で知っている視聴者はまれでしょうから(^^;)、なかなか扱いが難しいかもです。。。もちろん、みなみさんの構想は素晴らしいと思います。

2015年

6月

16日

大分県人の回想療法~大分12郡の覚え方『東西南北宇佐下毛、速見て通るは、、、。』

大正10~12年、養蚕業が盛んだった頃の繭生産量の分布図です。大野郡は県内で2番目の生産高で、大正10年に三重町駅も完成しました。大分県が繭の形で囲まれていますね。(戦前絵葉書所収)                                                     
大正10~12年、養蚕業が盛んだった頃の繭生産量の分布図です。大野郡は県内で2番目の生産高で、大正10年に三重町駅も完成しました。大分県が繭の形で囲まれていますね。(戦前絵葉書所収)

 

こんにちは(^-^)。

 

当院では高齢者の認知症の状態(長期記憶)を知るために、戦前のすべての学校に設置されていた奉安殿(ブログ『訪問診療とアルバム』参照)や、学校で暗記していた歴代の天皇陛下のお名前など、その時代で印象深いエピソードを伺うことがあります。これは長期記憶の確認のみならず、私たち医療者や同伴されている家族とのコミュニケーションの構築にもとても役立つものであり、当院の病棟では三重町を中心に昔懐かしい大分県の風景の写真を拡大したパネルを展示して、患者さんの憩いや御家族とのコミュニケーションツールとして利用してもらっています。

 

ところで、私の世代(40歳代)から50歳代までの少し若い世代で、上記のような話題はないかな~と思っていたのですが、先日出席した同窓会で、大分12郡の覚え方の話題が出て、みんな30年ぶりくらいに思い出して一斉に斉唱して心地よかった(脳が活性化されて大脳皮質などの血流が増えた^^?)、のでご紹介します。

 

『東西南北宇佐下毛、速見て通るは大分郡、大野直入、玖珠日(ッ)田』(読み方:とうざいなんぼくうさしもげ。はやみてとおるはおおいたぐん。おおのなおいりくすひった。初めから順に、東国東郡、西国東郡、南海部郡、北海部郡、宇佐郡、下毛郡、速見郡、大分郡、大野郡、直入郡、玖珠郡、日田郡、です。冒頭の「東西南北宇佐下毛」の部分は、十返舎一九の小説『東海道中膝栗毛』の韻を踏んでいて、楽しいですね!)

 

最後の「くすひった」は玖珠と日田の方々には申し訳ないのですが、ユーモアを含めた楽しい語呂合わせは印象に強く残っています。もちろん、同年代でもこの語呂合わせを習っていない方はおられるでしょう。このような『回想療法(ブログ「健康教室を開催しています。その2」をご参照ください)』はかなり個別的なものであり、全ての人に当てはまるものではありません。このため、回想療法を行う医療者は、医学的知識だけでなく、郷土史や地理など幅広い知識の集積が必要です。

 

なお、今では大分県の郡は平成の市町村合併でほとんど消滅したので、現在の子供たちが大分12郡を覚えることはないと思いますが、奈良時代以降の大分の歴史を学ぶときに郡の名前は重要になります。興味がある学生さんはこの語呂合わせで楽しく覚えてほしいと思います(^^)/ 。

 

                                                              (文:森本)

 

コメント
  • #1

    赤星憲一(水曜日, 17 6月 2015 13:42)

    認知症の予防のため市役所2階公民館で2、4毎月曜日午後1時30分から健康マージャンをしています。
    国士無双の覚え方は、東南西北白發中(トン、ナン、シイ、ぺー、はく、はつ、ちゅん)、竹19万19ピン19ローンです。(タンヤオの時捨てる牌)

 

2015年

6月

15日  

沈堕の滝(豊後大野市大野町)に行きました。

                                                 

こんにちは(^-^) ! 

 

先週末に大野町の沈堕(ちんだ)の滝を見に行きました。大野町は当院のある三重町の隣町で、車で15分程度です。ちょうどその前に大雨が降った関係で、いつもより水量が多く、『ゴゴゴゴ、、、』と滝水が落ちる音が遠くから響いてとても迫力がありました。写真の雄滝は幅100メートル、高さ20メートルもあります。沈堕の滝は、室町時代に来豊した雪舟が描いた『鎮田瀑図(1476年)』でも有名ですね。ちょうど豊後大野市が主催するジオパーク事業に関連した説明会があり、講師のお許しを得て見学ツアー客と一緒に説明を聞くことができました。

 

写真(上)の手前の建物の跡の外壁や基礎柱は、明治42年(1909)に豊後電気鉄道株式会社によって作られた水力発電所(沈堕発電所)の跡です。ここで作った電気を別府市や大分市に送電して、九州で初めて敷設された市電を運用していたそうです。

 

沈堕の滝をまだご覧になっておられない方は、ぜひお越しください 。水力発電所の建設によって大正から昭和時代は滝の水量が少なくなったそうですが、平成8年から11年にかけて堰堤(えんてい。沈堕滝の手前の堰(せき)のこと。)と滝の岩盤が補強、整備されてからは、雪舟の絵を彷彿とさせる迫力の水量と轟音が評判です。特にこれから夏は涼しいですよ(^^)/。

 

※ご参考までに大正時代の沈堕の滝(左:雄滝、右端:雌滝)と、発電所(中央)の絵葉書(所収)と雪舟の絵(沈堕の滝に設置された豊後大野市の観光案内板より撮影)を紹介します。「続きを読む」をクリックしてください。今の写真と見比べてみると興味深いです。

 

                                                                          (文:森本)

明治時代の沈堕の滝(左:雄滝、右端:雌滝)と、発電所(中央)の絵葉書(所収)                                                     
明治時代の沈堕の滝(左:雄滝、右端:雌滝)と、発電所(中央)の絵葉書(所収)

 

沈堕の滝にあった観光案内板(©豊後大野市)の雪舟作『鎮田瀑図』。原図は、関東大震災の際に焼失しており、この絵も狩野常信の模写(京都国立博物館所蔵)と思われます。大正時代の写真のように雄滝と雌滝のコントラストがいいですね!                                                 

沈堕の滝にあった観光案内板(©豊後大野市)の雪舟作『鎮田瀑図』。原図は、関東大震災の際に焼失しており、この絵も狩野常信の模写(京都国立博物館所蔵)と思われます。大正時代の写真のように雄滝と雌滝のコントラストがいいですね! 

 

2015年

6月

03日

カナダのジャパドッグ(JAPADOG)

こんにちは(^-^)。

 

このブログで、病院スタッフが三重町や各地のお店を紹介していて、私も楽しみにしていますが、今回はカナダでとても美味しかった食べ物を紹介したいと思います。

 

以前留学していた米国シアトルから車で3時間ほど北に行くと、カナダのバンクーバーがあります。(※米国とカナダとの国境はビザやパスポートの簡単な確認があるだけですぐに通過できました。)地元の研究者が市内を案内してくれたのですが、気候が穏やかで綺麗な町でした。

 

そのとき紹介されたのが、ジャパドッグ (JAPADOG) というお店です。ワーキングホリデー制度を利用してカナダ西海岸のバンクーバーに2005年に渡航した栃木県のご夫婦が、屋台から始めて有名チェーン店に成長したそうです。日本で売られている「ホットドッグ」は、カナダや米国ではあまり見かけず珍しい上に、和風のタレや具材を使ったジャパドッグは現地で大変な人気でした。2010年のバンクーバー冬季オリンピックをきっかけに、広く知られるようになったそうです。そういえばシアトルでも、飲食店の看板にSUSHI(寿司)はもちろん、『TERIYAKI(てりやき)』や『BENTO(弁当)』などの言葉がよく掲げられており、英語として馴染んでいるようでした。ただお店の人は日本人でないことがほとんどでしたが(^^;)。

 

日本でもジャパドッグのような店ができたら、きっと流行ると思います。飲食店の方や、起業を考えておられる方はご一考ください。ただ、数年前にできたジャパドッグ・ニューヨーク店は現在閉店しており、一方でロサンゼルス店が新規開店しているので、どちらかというと日本人・日系人やアジア人の口に合っているのかもしれません。私を案内してくれた方は少年時代を日本で過ごし、味の趣向も日本人とほぼ同じでした。

 

参考サイト:

JAPADOGホームページ(日本語)(米国ABC放送が取材した動画もあります。)

JAPADOG wikipedia (英語版のみで、まだ日本語版はありません。)

 

                     (文:森本)

 

2015年

5月

25日

『ご来豊』という言葉を広めませんか?

三重町のシンボル、佩楯(はいだて)山と周囲の山々の春景色                                     
三重町のシンボル、佩楯(はいだて)山と周囲の山々の春景色

 

こんにちは(^^)!

 

大分から福岡県を訪問する際に、メールや手紙で『ご来福を頂き、ありがとうございます。』とお便りを頂くと、なぜかとてもうれしくなります。同様に、大阪では『来阪』、京都では『入洛』、札幌では『来札(※北海道全体では来道)』など、各地の言葉があるようです。一番知られているのは東京へ行くときの『上京』ですが、言葉の語感からか『ご上京、ありがとうございます』と言われたことは一度もないですね(^^;)。。。

 

ところで大分は、『来分』という言葉をごくたまに聞くのですが、今一つしっくりきません。そこで、豊の国大分県に因んで、『来豊』という言葉を数年前から個人的に使っています。読み方は、来訪という言葉にかけて「らいほう」でもよいし、豊後のぶんから「らいぶん」でもいいですね。特に県内の豊後大野市や豊後高田市にとっては「豊」の字が入っていてちょうど良いです。また、大分県に帰ってこられる方々には『帰豊』という言葉もよいかもしれません。NHK朝ドラマの『まれ』や『あまちゃん』に登場する地域の方々のように、温かく迎える気持ちが言葉で表現できれば、と思います。

 

ネット検索すると、『来豊』は豊橋市(愛知県)の方々はよく使っているようですが、大分県全体や豊後大野市、豊後高田市でも観光案内などにお使いいただければキャッチコピーとしても有用だと思います。よろしければ、みなさまでどうぞ。

 

『このたびは、ご来豊を頂きまして誠にありがとうございます(^^)/ 』

 

                         (文:森本)

 

2015年

5月

11日

ガレリア竹町のチャリティーコンサート

                                 

こんにちは!

先週末の5月10日(日)に大分市ガレリア竹町広場にて、大分チェロ軍団のチャリティーコンサートを聞きに行ってきました。クラッシック音楽から、NHK「あまちゃん」のテーマなどを幅広く演奏されて、とても楽しかったです。大分チェロ軍団は東日本大震災のチャリティーコンサートを積極的に行っておられて、当院の病理検査でお世話になっている秋月先生や、OBS大分放送の村津アナウンサーらが参加されています。みなさん、とても良い表情ですね!豊後大野市名物の「観音饅頭」を差し入れに持っていきました。(^^)/  

                                                              (文:森本)

 

2015年

4月

09日

アメリカのチューリップ祭

2011年4月、ワシントン州スカジットにて
2011年4月、ワシントン州スカジットにて

4月8日(水)のブログ(『チューリップフェスタ』by 医事課職員Yさん)を読んで、米国在住時に同僚家族とチューリップ祭に行ったことを思い出しました。 ワシントン州のシアトルから北に100キロ離れた郊外のスカジットバレーで3月下旬から4月にチューリップ祭が開かれます(註1)。驚いたのは、遠く地平線上に赤や黄色の線として見えるくらいにチューリップ畑が広がっていたことでした。ただその時の私の感想はとても素晴らしい思う反面、『チューリップ畑が無駄に広いなあ~。。。』というものでした(^^;)。。。

 

もちろん視界一杯に広がる米国のチューリップ畑は雄大で壮観ですし、それは感動しますが、私は緒方町のチューリップ祭も大好きです。以前、俳優の大泉洋さんらが北海道のテレビ番組『水曜どうでしょう(註2)』で立ち寄って、ゆで餅対決をした場所でもあります。その時をきっかけに、北海道テレビのディレクター陣が大分をとても気に入って今でもよく訪れているそうで、後に彼らが出版した本の表紙に大分を訪れたときの写真が使用されています(註3)。

 

いずれにしても、私は日米のチューリップ祭のどちらも好きです(^^)。

 

 

参考サイト:

註1Skagit Valley Tulip Festival 2015(公式Facebook)

 

註2北海道テレビ『水曜どうでしょう 原付西日本制覇(2000年)』DVD                             

豊後大野市緒方町、竹田市などが登場します。※当院がある豊後大野市三重町は『サイコロの旅2(1996年)』で登場。

 

註3藤村忠寿、嬉野雅道「藤やん、うれしーの悩むだけ損!」アスキー・メディアワークス 2012年 表紙の写真は、竹田市の後藤姫だるま工房で撮影されています。

 

2015年

4月

06日

大分のタイムカメラ⑨ 臼杵編~戦前の臼杵城の海岸風景~

写真上:戦前の臼杵城に広がる海岸。写真中:下り松(さがりまつ)と言われた海岸沿いの景勝地から臼杵城を望む。写真下:戦前の臼杵市街(いずれも著者所収)
写真上:戦前の臼杵城に広がる海岸。写真中:下り松(さがりまつ)と言われた海岸沿いの景勝地から臼杵城を望む。写真下:戦前の臼杵市街(いずれも著者所収)

 

こんにちは!(^-^) 

 

今日ご紹介する絵葉書は、戦前の臼杵城(臼杵公園)から見た海の景色や、『金亀城』という愛称のあった臼杵城全体の風景です。

 

私の実家は臼杵市と接する大分市吉野ですが、祖母をはじめとして臼杵市に縁が深いことから、臼杵の昔ばなしをいろいろと聞いて育ちました。中でも、現在は埋立地が広がっている臼杵城周辺は昔は海で、とても風光明媚だったという話に興味を持ちました。

 

臼杵城周辺と同様に、大分市の春日浦も戦前は松原が広がる大分の名所として知られており、海水浴やボートに行った話を祖父母から聞いて羨ましいなあと子供心に感じていました。戦後はいずれも埋め立てられ、工場や住宅地が広がることで大分県の経済は大きく発展したのですが、こうして昔の風景を見ると現代の私たちも癒される気がします(^^)。。。

 

                       (文:森本)

 

2015年

4月

01日

なんでも医のつぶやき⑬ ダイエットの話 

三重町で3月29日のさくらロードレースが行われた時の三重川の様子です(^^)。
三重町で3月29日のさくらロードレースが行われた時の三重川の様子です(^^)。

 

こんにちは!(^-^) 今回よりダイエットの話をしたいと思います。まずは恥ずかしながら、自分が実際に体験した話をします(^^;)。

 

私は身長175cmですが、5年前の米国での生活で出されたものを残さず食べる習慣が災いしてしまい、帰国前には90kgをオーバーしてしまいました(><)。さらにシアトルで出場した市民マラソン大会で明らかに体力と心肺機能の低下を自覚したことと、その後受験しようと思った陸上自衛隊予備自衛官補試験での体重制限(私の身長で84kg以下)が設けられていることを知り、結局14キロ減量しました。それでも軽度の肥満(Ⅰ度)をぎりぎり回避できた程度なので、今は標準体重()の67kg を目指しております90kgから77kgまで割とスムーズに減量できた理由として、具体的にカロリー計算をしたことが挙げられると思いますが、一番は予備自衛官試験というモチベーションがあったことだと思います。

 

さまざまな治療の中で、特に肥満治療や禁煙治療はモチベーションの高さが効果に大きく影響することが知られており、それまで基幹病院の専門科を受診しても治療に難渋していた患者さんが、結婚などのライフイベントをきっかけに改善することは割と経験します。

 

           

標準体重=体重(kg)÷身長(m)÷身長(m)×22(健康に最も良いと考えられているBMI:Body Mass Index の係数)で計算されます。日本では BMI が25以上を肥満としていますが、米国では30以上が肥満の定義です。他にも結核診断の際のツベルクリン反応の扱いなど、日米の医療で大きく異なる点があることは興味深いです。

 

                          (文:森本)

2015年

3月

23日

なんでも医のつぶやき⑫ ご近所の医療機関との診療連携

こんにちは。(^-^)

 

当院から徒歩1分のご近所にある『つばさ歯科』さんは、当院に来られる患者さんで歯や口腔が悪くなった方を治療して頂いている専門医療機関のひとつです。院長の荒金慶子先生をはじめスタッフが全員女性で、きめ細かな優しい治療をして下さっています。上の写真のようにトキハインダストリー三重店さんの隣にあり、コミュニティバスのトキハ前停留所がすぐ前にあるほか、大野竹田バスのトキハロータリー前停留所も近くにある利便性もあります。

 

有名な言葉ですが『歯の手入れは健康長寿のもと』であり、私も特に症状はなくても定期的に歯医者さんに行って、虫歯(医学用語で齲歯:うし、といいます)のチェックや、歯石を取ってもらったりしています(^^)/ 。

 

『つばさ歯科』(※受診には事前予約が必要です)

住所:大分県豊後大野市三重町市場426-1 

電話番号:0974-22-6262 FAX:0974-22-6269

ホームページ『つばさ歯科』 ホームページ  

 

                         (文:森本)

 

2015年

3月

16日

なんでも医のつぶやき⑪タバコ雑感~舘ひろしさんに憧れて吸い、舘さんのCMで禁煙した同級生

当院に掲示された禁煙啓蒙ポスター
当院に掲示された禁煙啓蒙ポスター

こんにちは!(^-^)

 

先日、母校の同窓会に出席した際、ある同級生が、『舘ひろしさんに憧れてタバコを吸い始めたけれど、舘さんのCM(註1)をきっかけに、禁煙外来を受診して止めたんや(^^;)。。』と話していました。私たち四十代にとって、子供の頃に見た刑事ドラマでかっこよくタバコを吸う警察官を演じていた舘さんは憧れの存在でした。六十代になられた現在も変わらない体型を維持しておられることも素晴らしいと思います註2

 

タバコ(喫煙)は私たちの祖父の世代の多くは職場や軍隊で覚え、父の世代は石原裕次郎さんなど映画スターの影響で吸い始めた方が多いそうです。私も自衛隊の訓練を実際に経験して感じたのですが、高い緊張感を伴う場面ではタバコの役割は確かにあるのだろうと思いました。

 

しかし現在では、タバコは肺がんやCOPD(慢性閉塞性肺疾患)などの呼吸器疾患をはじめ、心臓病や閉塞性動脈硬化症などの循環器疾患など、多くの病気の原因になることが知られており、当院でも撮影する胸部CTを見ただけで、長い喫煙歴があるかどうか大体検討がつきます。さらにタバコの喫煙習慣がない方も喫煙者と長年過ごすことによって、COPDなどになって呼吸機能が低下する『受動喫煙』の弊害も明らかになっています。一方で、喫煙を続けて80~90歳を過ぎても御元気なスモーカーもおられますが、タバコによる健康への影響に個人差がある原因の一つに、ニコチンを代謝する酵素の違いがあることが報告されています(註3、註4)。

 

ところで、日本では健康増進法が平成14年(2002年)に制定されて以来、公立病院などで分煙措置(院内に換気装置のついた喫煙所を設けるなど)が整備されたことを手始めに、最近ではほとんどの施設が全館禁煙や敷地内禁煙に移行している傾向にあります。後者は受動喫煙を防ぐという意味では理想的なのですが、たとえば(前の職場の)大分大学医学部附属病院の敷地外の道路脇に、入院患者さんが寒い日も暑い日も喫煙のために集まるという、ちょっと異様な光景が見られるようになりました。ただ5年前に訪れた米国の大学病院でも院外の道路脇に入院患者さんがタバコを吸いに大挙していた光景を見て、日米同じなんだな~と思った次第です。あくまで私見ですが、病院敷地内全面禁煙で入院患者さんを院外に追い出してしまうよりも、分煙の仕組みを充実させた方がよいと思っています。私はタバコは吸いませんが(^^;)。。。

 

参考サイト 

註1お医者さんと禁煙しよう~『喫煙歴40年の舘ひろしさんが禁煙に挑戦』ファイザー株式会社ニュースリリース2010年3月9日

註2)時事通信社 Youtube 配信動画「舘ひろしさんが女子高で禁煙を講義

     

註3)鎌滝哲也「CYP2A6の遺伝子多型と喫煙による発がんリスク」 喫煙の整理・薬理 喫煙科学研究財団                     

註4)中島美紀、横井毅「ニコチン代謝の個人差に影響を及ぼす遺伝子多型」喫煙の生理・薬理 喫煙科学研究財団

 

                    

                                                                            (文:森本)

 

2015年

3月

09日

なんでも医のつぶやき⑩  臨床薬理学の話

こんにちは!(^-^) 

 

今回は臨床薬理(りんしょうやくり)学の話をしたいと思います。一般には耳慣れない言葉かもしれませんが、英国の医学教科書には『臨床薬理学講座または部門を持たなければ、完全な医学校とはみなされない(No medical school can be considered complete without a department or sub-department of Clinical Pharmacology(※1)』と記載されているほど重要な臨床医学の一分野と位置づけられています。残念ながら、日本では臨床薬理学講座や附属部門を備えている大学医学部は今でも2割程度しかありませんが、大分大学医学部は前身である旧大分医科大学の開学時から、国立大学で初となる臨床薬理学講座と臨床薬理センターが設置され、日本の臨床薬理学の中心的な役割を果たしています。
 
臨床薬理学は、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領の在職中の死を契機として高血圧が注目され、また死の病と言われていた結核などの感染症に有効な抗生物質の開発が大きく進んだ第2次世界大戦後から始まった新しい医学領域です。それまでの医薬品の多くは、麻酔した実験動物に静脈投与した時の成績を用いて、その結果から人に経口投与する※2)という、今から考えればかなり雑な方法で薬の使用法が決められていました。また日本ではあまり知られていませんが、あの野口英世も、ロックフェラー医学研究所時代に小児を含む数百名の一般患者に知らせないまま、開発中の梅毒診断薬を投与したことが米国で問題となった事件がありました※3)。
 
上記のような歴史を踏まえて、臨床薬理学は人の病気に対して真に有効な薬と合理的で安全な使用法を科学的に検討しながら、患者さんの人権を守るために倫理的に必要な手順を整備して、それらの経験知を日常診療で生かすための臨床医学として発展しました。
 
私は前任の大分大学医学部附属病院臨床薬理センターで、新薬の開発(人に初めて投与する第Ⅰ相試験から市販後臨床試験まで)や薬の再評価をはじめ、院内の薬物投与や相互作用などで苦慮している症例のコンサルテーションや治療を行っていました。現在の当院では『なんでも医』として、臨床薬理の知識と経験がとても役立つことを実感しています。例えば、患者さんが誤って一度に数回分の薬を飲んでしまったり、自分の薬ではなく家族の薬を飲んでしまった場合など、実際の医療現場ではさまざまなことが起こります。そのときにも、臨床薬理学の知識と経験があれば、問題となっている薬の臨床薬理プロフィール(血中薬物濃度の半減期や最高濃度到達時間、年齢や病態に応じた薬物動態データなど)を念頭に置きながら、臨床症状をもとに必要な検査を適宜行い、迅速に対応することができます。
 

※1)PN Bennet 「Clinical Pharmacology 11th edition」Churchill and LivingstoneElsevier 2012年  

※2)海老原昭夫「臨床薬理」日本内科学会雑誌 第91巻 第11号 2002年

※3)DJ Rothman 「Strangers At The Bedside: A History of How Law and Bioethics Transformed Medical Decision Making」Basic Books 1992年

                     

                           (文:森本)

 

2015年

3月

02日

なんでも医のつぶやき⑨ 「血圧の薬は一生飲み続けないといけないでしょうか?」

大分市にある吉野梅園の紅梅と白梅です。もう春ですね(^^)。

大分市にある吉野梅園の紅梅と白梅です。もう春ですね(^^)。

 

こんにちは!(^-^) 今回は外来で患者さんからよく聞かれる質問についてお話したいと思います。

 

健康診断などで高血圧を指摘されて、当院に来院された場合は血圧手帳をお渡して、家庭での血圧を測定してもらいながら食事療法(減塩。肥満の場合はカロリーコントロール)や運動療法などを行い、それでも血圧が高いようなら薬物治療をお薦めしています。このときよく聞かれるのが表題の質問ですが、血圧の程度や合併症にもよりますが、肥満や喫煙などの生活習慣が改善されると、薬の減量や中止ができることが少なくないことをお話します。降圧薬の中でも利尿薬は、気温が高く汗をかきやすい夏などには減量して調節することもあります。一般に、年を重ねて動脈硬化が進んだ場合の血圧は下がりにくいですが、一生という長い目で考えた場合には例えば80~100歳で体格がある程度小さくなり、薬が減量ないし不要になる場合があることも経験します。

 

上記のような説明をすると、薬物治療を行うことを前向きに考えて下さる方がほとんどなのですが、必ずしも薬を一生飲み続けなくてもよいことは一般にあまり知られていない印象を受けています。ある患者さんは、『薬はずっと飲み続けないといけません』と、別のところで言われたそうですが、それはおそらく患者さんの自己判断で中止してはいけない(高血圧薬の服用を止めると、リバウンド現象といって急に血圧が上がることがあるため)というのが主旨だと思われます。薬を止めるには、医師が経過を見ながら、少しずつ減量するのが通常です。

 

日本で評論文芸を確立した小林秀雄(1902-1983  湯布院を愛したことでも有名)は、『(医者は)僕のことを昔からよく知っている先生じゃないとダメです。』(タバコをやめた話~文学の雑感・新潮CD講演 小林秀雄第一巻)と語り、現在の医療で行われているかかりつけ医(ホームドクター)を推奨しましたが、日頃から患者さんを診ている医師だからこそ、長年の変化を把握して薬の調節を適切に行うことができると思います。

           

                        (文:森本)

 

 

2015年

2月

23日

大分タイムカメラ⑧戦前の大分市の彩色写真 

上から、大分市街近郊の田園から埋立前の春日浦方面を望む風景、高崎山を望む別府湾、大分港、旧大分銀行本店と別大電車が走っていた現在のトキハ前通り、上野丘の旧大分高等商業学校、旧大分県庁と府内城(戦災前)です。(著者所収)
上から、大分市街近郊の田園から埋立前の春日浦方面を望む風景、高崎山を望む別府湾、大分港、旧大分銀行本店と別大電車が走っていた現在のトキハ前通り、上野丘の旧大分高等商業学校、旧大分県庁と府内城(戦災前)です。(著者所収)

 

こんにちは!(^-^) 昔の白黒写真は年月が経過するとセピア色となり、時の流れを感じる風情がある一方、当時の色合いはどんな感じだったのだろうと想像を巡らせることも楽しいですね。

 

今回は『大分名勝』というカード写真集の一部をご紹介します。戦前の写真は白黒の写真が一般的でしたが、お土産用に着色した写真が大分でも売られていたようです。空襲で中心街がほぼ全焼する前の大分市街の遠景や、高崎山を望む別府湾と大分港、旧大分銀行前の市電が通る光景は、私たちの祖父母が実際に目にしたものであり、当時にタイムスリップしたような感覚になりますね。こうしてみると郷土や自然は、過去から現在、未来へと受け継がれる大切な贈り物であることを改めて感じます。

                          (文:森本)

 

2015年

2月

20日

なんでも医のつぶやき⑧ 『相棒』と医療者に必要な3つの条件

『相棒』に登場する通称ヒマカップ(Ⓒ愛龍社)です。コーヒーや紅茶が程よく入ります(^^)
『相棒』に登場する通称ヒマカップ(Ⓒ愛龍社)です。コーヒーや紅茶が程よく入ります(^^)

こんにちは!(^-^) 

 

当院の外来と病棟のフロアにはテレビが設置されていて、病室のそれぞれにはベッドごとに個人用のテレビが備え付けられています。大分も昼前や夕方には時代劇や推理ドラマの再放送があるのですが、患者さんの人気が高い番組は、時代劇では『暴れん坊将軍』、推理ドラマでは『相棒』だそうです。『相棒』は私も好きで見ていますが、平成12年(2000年)から放映されている長寿番組で、警視庁のキャリア官僚から特命係という閑職に就いた警部と若い相棒が、優れた観察力で難事件を解決するという筋書ですね。

 

ところで『相棒』の主人公たちは地域の医療者にとっても必要な条件を備えていると思います。①十分な観察力があること(ドラマでは「細かいことが気になってしまうのが僕の悪いクセ」と言う定番のセリフがあります)、②ある程度の時間的余裕があること(ドラマでは隣の課長から「ヒマか?」と言われるのが定番です)、③各専門家と良い関係と適度な距離を保つこと(ドラマでは鑑識官と信頼関係で結ばれ、捜査一課の刑事らと時折衝突しながらも最終的には彼らが手柄を立てるように計らいます)、の3点です。

 

上記の②については、どの病院や診療所も忙しいことには大差ありませんが、大学病院で勤務していた時には診療以外の業務も多く、研究や教育はもちろんですが、行政向けに行うプレゼンテーション資料作り(業界用語でポンチ絵といいます)にも忙しかった頃に比べると、診療に専念できることがうれしいです。どんなに優れた観察力があっても、常に時間に追われていれば患者さん一人ひとりに対して長期のフォローアップが難しくなります。別の話題ですが、ある製薬会社に依頼された講演を1年に50回以上も行い、年間1千万円以上の謝礼金を受け取った医師が10人以上いたとのニュースもありました(参考:読売新聞2014年11月3日)。これまでどんなに名医という評判を得ていても、患者さんのために十分な時間を確保できないなら、『ヤブ医者』になってしまう可能性が避けられないのではと思います。

 

ところで『相棒』の一番のフィクションは、警視庁一のキャリア警察官が『ヒマ』なことかもしれませんね。実際は知る由もないのですが(^^;)       

 

                          (文:森本)

 

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  • #1

    アミー(金曜日, 20 2月 2015 23:05)

    20日金曜日の夜間診療でお世話になりましたKでございます。
    HNはアミーですよろしくお願いいたします。
    記念病院のHPのこと診察室にて教えて頂きました・
    さっそくブログを読ませていただいていますが、まだ入り口をかじった程度でこれから時間を見つけて楽しませていただこうと思っています。
    これからも楽しいコメントをお届けくださいますように!
    楽しみにしています。

  • #2

    miekinen(土曜日, 21 2月 2015 07:14)

    アミーさま、

    貴重なコメントをありがとうございます。先日、大分に来られた日野原重明先生(103歳の現役医師)が、『大分はフェイスブックなどのインターネットをしている方が(他県と比べて)少ないそうですね。』と仰っていて、このホームページを見て下さる方も地元以外の方が多いという印象でしたので、とても嬉しいです(^^)。今後ともどうぞよろしくお願いします。o(_ _)o

 

2015年

2月

16日

なんでも医のつぶやき⑦ 『普通に生活することの偉大さ 』

当院前の道路の坂を上った三重中学付近からみた風景です。左の国旗がある建物が豊後大野警察署で、遠くに冠雪している久住山が見えます。
当院前の道路の坂を上った三重中学付近からみた風景です。左の国旗がある建物が豊後大野警察署で、遠くに冠雪している久住山が見えます。

 

 こんにちは!(^-^) 

 

人気番組『半沢直樹』で有名な俳優の堺雅人さん(お隣の宮崎県出身)は随筆家としても知られていて、高校時代の恩師(若山牧水研究者)との対談集『ぼく、牧水!~歌人に学ぶ「まろび」の美学~ 角川oneテーマ21新書 2010年』も興味深く読みました。別のインタビューですが、堺さんの『学生時代はとても生意気で、先生が授業で偉人のことを話しているときに、どうして先生たちは偉くないんだろうという思いにかられていました』という趣旨の発言を聞いて、私も小学校で同じような経験をしたことを思い出しました。

 

私の父の名前は偉人(すぐと)と言います。昔は小学校のクラスの名簿に両親の名前も書かれていたので、同級生から『卓哉のお父さんって、偉人じゃないのに偉人だよね(笑)』とからかわれたことがありました。正直、私もそう思っていたので(^^;)、あまり深く考えたことはなかったのですが、自分が社会人になってしばらくして、退職した父が勤めていた職場の元上司に呼ばれてお話する機会がありました。そのときに、『君のお父さんには事務の仕事を長年担当してもらったけれど、お金にもお酒にも女性などの交遊関係でも全く問題はなかった。これは私からの最大の賛辞です。』と言われて、息子として誇らしかったことを覚えています。あくまで想像ですが、もしかしたら祖父は『普通の生活ができる人こそ偉大である』という思いを込めて父の名前をつけたのかもしれません。。。

 

また、若い頃は目に見える業績に心を奪われがちですが、『してはいけないことをしない』ということも大切であり、大学などでも昇進を決める際に私生活や職場で問題がなかったかどうかについては、職階が上になるほど重要になってきます。そのことを学校で教えられる機会は案外ないようなので、私が指導医になってからは研修医に伝えるようにしていました。今も医学講義を担当している地元の専門学校などで話しています。ただ最近の10代~20代の学生は、親に反発ばかりしていた私たち40代(中学時は『積み木くずし世代』→社会人新卒時は『新人類世代』→現在では『半沢直樹世代』と言われているそうですが^^;)と違ってとても素直で、授業の最初に自己紹介してもらうとき、「尊敬する人は?」と聞くと、ちょっとはにかみながら『両親です』と答えてくれる人が少なくないことに新鮮な感銘を受けています。

 

私たちの世代ももっと頑張らないと、、、ですね!

 

                           (文:森本)

 

2015年

2月

09日

なんでも医のつぶやき⑥訪問診療とアルバム

戦前の大分県女子師範学校と大分第二高等女学校にあった奉安殿(左上)および大分第一高等女学校の運動会(右上)の絵葉書(著者所収)と、当院の診察室(下)です。ベッドサイドの超音波機器は往診でも使用します。
戦前の大分県女子師範学校と大分第二高等女学校にあった奉安殿(左上)および大分第一高等女学校の運動会(右上)の絵葉書(著者所収)と、当院の診察室(下)です。ベッドサイドの超音波機器は往診でも使用します。

 

こんにちは!(^-^) 

 

当院で水曜日と金曜日の午後は、通院が困難な患者さんに対して訪問診療を行っています。病院での外来診療や入院治療と違って、患者さんの生活空間に入ることで医療者にも多くの気づきがあり、様々なことを学べる機会です。これまでに勤務していた大学病院などでは不可能だった診療スタイルでもあります。

 

患者さんの容態が安定しているときには、私が回想法(認知症と地域支援の取り組みページ参照)を行っていることを知って、御家族が卒業アルバムを出して見せていただくことがあり、何冊か拝見するうちにあることに気が付きました。

 

昭和20年(1945年)以前の小学校卒業アルバムには「奉安殿(ほうあんでん)」という建物(または部屋)の写真が掲載されているのですが、昭和21年から後の卒業アルバムには掲載されていません。奉安殿とは天皇陛下の御写真と教育勅語などが納められた大切な空間であり、昭和20年(1945年)12月にGHQ(連合国最高司令部)の指令によって取り壊されるまで日本のすべての学校に備えられていたそうです。生まれ年でいうと、昭和15年度に生まれた高齢者から戦後の新制教育が行われているので、現在75歳より若い高齢者は奉安殿についてほとんどご存じないようです。歴史マニアの私も奉安殿について学校では習わず、訪問診療に行くようになって知ったので、75歳以上の方々に『昔の小学校に奉安殿がありましたか?』と伺うと、大抵は目を輝かせて『あったあった!!』と答えてくれることに新鮮な驚きがあります。側にいる患者さんの御家族は「???」という表情をされることが多いですが(^^;)。。。

 

上記のような話題を掲載した医学や認知症の教科書は私が知る限りありませんが、診療を行う上で長期記憶の確認に有用だと思います。また、上記の話題をきっかけに患者さんが心を打ち解けて話してくれることも少なくありません。皆様もご家庭で伺ってみてはいかがでしょう。

 

                       (文:森本)

 

2015年

2月

02日

大分のタイムカメラ⑦ 大分県の佐伯市は「さいき」か「さえき(サヘキ)」か?

写真上:戦前の佐伯市街の絵葉書の英文解説に『SAEKI』と書かれています。写真中:佐伯海軍航空隊の水上飛行機の尾翼に『サヘ(サヘキの略)』の文字が見えます。写真下:佐伯航空隊の零式水上偵察機11型モデル(©アシェットコレクションジャパン) 。いずれも著者所収。
写真上:戦前の佐伯市街の絵葉書の英文解説に『SAEKI』と書かれています。写真中:佐伯海軍航空隊の水上飛行機の尾翼に『サヘ(サヘキの略)』の文字が見えます。写真下:佐伯航空隊の零式水上偵察機11型モデル(©アシェットコレクションジャパン) 。いずれも著者所収。

 

 

 

 

こんにちは!(^-^) 

 

私は大分県出身ですが、恥ずかしながらつい最近まで佐伯市の地名の読み方は「さえき」と思っていました。今の正式な読み方は『さいき』で、当院のある三重町に程近い佐伯市から来る救急車にもSAIKI-CITY FIRE DEPARTMENT(佐伯市消防署)と書かれています。先日、佐伯方面から来院した消防車の英文ロゴを見て長年の勘違いに気がついた次第でした。恥ずかしい~(^^;)

 

ところで明治生まれだった祖父は臼杵に接する大分市の吉野出身で、警察官として県内各地で勤務していたのですが、「さえき」と発音していたと記憶しています。改めて戦前の絵葉書を見るとSAEKI という英語で綴られています(写真上)。また、戦前の佐伯の女島(めじま)にあった佐伯海軍航空隊の水上飛行機の尾翼にも所属基地の名称を意味する「サヘ(キ)」と書かれていました(写真中・下)。

 

大分県立図書館の郷土情報室に問い合わせたところ、佐伯市の地名は古代から中世に領主だった佐伯氏に由来するそうで、もともと「さえき(サヘキ)」と言われていたことは間違いないそうです。それがなぜ『さいき』という読み方に変わったかについては、先日当院に来院された佐伯市の観光ガイドさんから、「広島県佐伯(さえき)郡(※現在は広島市佐伯区)と区別するために変更されたのでしょう」と教えていただきました。大分でも古代から千年以上にわたって受け継がれてきた読み方を、他県と区別するために変更されるのは心外な気もしますが(^^;)、実に興味深いエピソードですね。佐伯の読み方の変更につきまして、詳しい経緯を御存じの方がおられたらぜひ教えてください。

 

                        (文:森本)

(補遺)2015年12月22日追記

佐伯の読み方については、『太宰管内志』豊後之部 海部郡編に、「佐伯は佐倍支と訓むべし」と書かれており、大分県立図書館の司書さんが調べてくれたように豊後では少なくとも奈良時代から「さえき」と読まれていたことは間違いないようです。ただ同じ本の中に、豊後州 撤一雞(サイキ)と16世紀の中国の史書に書かれていたことが紹介されています。戦前もかなりの割合で『さえき』と呼ばれていたことは間違いないようですが、大正5年(1916年)7月に佐伯町議会が表記を「さえき」から「さいき」に変更したと佐伯市史に記載されています。古来からの読み方である「さえき」から訛った「さいき」の読み方が佐伯町である程度増えたため、「さいき」を採用しようとする動きだったのでしょう。ただ「さいき」をローマ字読みにすると「SAIKI」となり英語がネイティブの外国人は「サイーキ」と読んでしまったりするので不都合も多いと思うのですが、大正5年の佐伯町議会から徐々にさえき→さいきの読み方へと一般にも浸透していき、今では一部の高齢者を除く若年~中高年世代は「さいき」が一般的な読み方となっています。

 

2015年

1月

29日

なんでも医のつぶやき⑤ 『なんでも医と専門医の連携その4~地域の病院とインターネットの発達』

 

こんにちは!(^-^) 

 

前回の話の続きです。

 

一方、地域の病院や診療所の場合には医師の数や設備は限られていますが、日常診療からターミナルケアまで、小説『赤ひげ診療譚』や漫画『JIN ー仁ー』などで一般の方々が想像されている医師や医療者のイメージに近い形で患者さんの生活に寄り添った医療を行うことができます。そして必要時にはいつでも専門医療機関に紹介するようにしています。豊後大野市内はもちろん、近郊の大分市や大学病院をはじめ、患者さんの御希望があれば以前勤務していた名古屋や千葉など都心の先端医療機関に紹介することもあります。実際に、それまで治療が難しいと考えられていた疾患が県外の医療機関を受診して奏功したこともあり、遠路で経済的負担などのデメリットがあるものの、患者さんの意思に応じて紹介して良かったと感じています。

 

ところで、二十年前に私が医師になった頃は、インターネットはそれほど普及しておらず、大学病院の大きなメリットは医学図書館で文献を検索できることでした。当時の大分医科大学(現 大分大学医学部)の図書館はいち早く24時間利用できる体制を整えていて、患者さんの疾患に関する文献を図書館で調べることが担当医の大きな業務でした。

 

現在はインターネットの発達により、医学論文や情報にどこからでも容易にアクセスでき、自分はPubmed(医学論文サイト)やUpToDate (米国の医師が利用している臨床医学のサイト)をよく使っています。このため医学情報を集めることは大学に勤務していた時に比べても不便を感じないほか、フェイスブックやスカイプ、ツイッターなどで国内外の識者とやり取りをしながら短時間に情報を集めることができます。特に専門医の間でも意見が分かれている領域や問題は、主治医として様々な見解を収集する必要があり、インターネットが役立っています。最近うれしかったのは、ツイッターで料理研究家の土井善晴さんからフォローされたことでした。私事ですが土井さんのレシピを日頃参考にしていますので(^^)。ただし、上記のソーシャルネットワークについては十分に気をつけるべきだと感じています。(次回に続きます)  

                          (文:森本)

 

2015年

1月

26日

予備自衛官補訓練(技能 衛生甲)を修了しました。

先週は、長崎県佐世保市の陸上自衛隊相浦(あいのうら)基地に行き、予備自衛官補の技能公募召集訓練に参加して無事に修了することができました。今後は当院で勤務しながら、震災などにおける招集に応じて予備自衛官(医官)として、医療活動をすることになります。

 

訓練は専門の医療・衛生に加えて、基本教練や天幕(テント)設営、射撃、体力テストなどもあり、40代の私にとっては少々ハードでした(^^;)。ただ4年前の東日本大震災を契機に、長年勤めていた大学を退職して地域医療と災害医療に携わりたいという進路変更がひとまず完了して安堵しています。特に衛生訓練は『なんでも医』の私にとって、大学や基幹病院でも学ぶことがほとんどない野外医学をはじめ災害医療の実際など、大変貴重なものばかりでした。基本教練は九州各県から集まった看護師、理学療法士、作業療法士、弁護士、通訳などの皆さんと一緒に訓練しましたが、さすがに皆コミュニケーション能力が高く、寝食を共にしながら楽しくも充実した訓練を終えることができました。長崎は研修医時代に国立長崎中央病院(現 国立長崎医療センター)で指導医から多くの薫陶を受けた想い出深い土地ですし、今回の佐世保は祖父が海軍時代に乗艦の母港として勤務していたと聞いていたので、感慨深い出張となりました。

 

優しく丁寧に指導された自衛隊の教官の方々をはじめ、参加を許可して頂いた島袋院長先生、留守中の業務を代わって頂いた先生方や病院のスタッフに心から御礼申し上げます。ありがとうございました。 

 

                     (文:森本)

 

2015年

1月

19日

なんでも医のつぶやき④ 『なんでも医と専門医の連携その3~大きな病院の特徴~』

前任の大分大学医学部から見た虹の風景です(^^)
前任の大分大学医学部から見た虹の風景です(^^)

こんにちは!(^-^) 

 

前回の話の続きです。

 

ところで、医大や県病などの大きな総合病院に行く際には、患者さんのホームドクターからの紹介状があった方がスムーズな治療につながります。規模が大きな総合病院は多くの専門医がいて、いろんな検査・治療機器があるという良い特徴があるのですが、医師の転勤が頻繁にあったり、日常診療のほかに研究や教育も大切な業務であるために医師にとっては時間的な余裕がなく、一人ひとりの患者さんに長期的で継続的に寄り添った医療(たとえば初診から終末期医療まで)が難しい点があります。たくさんの専門医がいる環境は医師自身の勉強のためにも恵まれている反面、専門外の医療に関わることはほとんどありません。それらが欠点でもあり、たくさんの症状をもった患者さんが各科を『漂流』してしまうことがあります。

 

上記の問題を解決するために『総合診療科』を持つ総合病院も増えてきましたが、市や県単位の広い医療圏で患者さんに対応していることや、そこでも研究や教育など多岐にわたる業務と並行して診療を行わなければならないことから、どうしても時間的な制限が生じてしまいます。このため、できればホームドクターからの紹介状を持参して、これまでの病気や治療の経過が整理された状態で受診されることが望まれます。

 

ところで余談ですが、イギリスの救急外来は長時間待たされることで有名であり、待ち時間を4時間以内に短縮することを大きな目標にしています。(参考サイト:英国BBCニュース2015年1月6日)。世界のほとんどの国は日本と違って皆保険制度ではなく、自由診療やプライベート保険以外の病院へのアクセスが限られるなどの違いがありますが、医療を過度に集中するとイギリスのような状況も生まれるのでしょう。新聞やテレビで日本の医療はいつも批判の対象ですが、海外で日本の医療は素晴らしいと現地の日本人からよく聞きます。私も米国での2年間の生活で歯科を含めた日本の医療の有難さが身に染みました。(以下、次号に続きます)。 

                        

                         (文:森本)

 

 

 

2015年

1月

15日

なんでも医のつぶやき③ 『なんでも医と専門医の連携その2~後医は名医~』

こんにちは!(^-^) 前回の話の続きです。みなさんは『後医(こうい)は名医』という言葉をご存知でしょうか?これは私が長崎での研修医時代に指導医から教えられた言葉です。その意味は、「患者さんを後から診る医者は、最初に診た医者よりもそれまでの経過がわかっているので、あたかも名医のように正しい診断ができる」というもので、このため「患者さんを後から診る医者は、前に診た医者を安易に批判するべきではない」というように指導されました。

 

患者さんの立場からすると、近くの病院や医院(クリニック)でよくわからなかった病気が大きな病院を受診して判明したなどの経緯から、「やっぱり医大病院や県立病院などの病院が良い!」とお感じになるのはわかります。私もこれまでに基幹病院での研修医や医学生向けの講義で「これまで診断困難だった症例が当院の診断で判明した」というような事例紹介をよく行っていました。『後医は名医』という観点からは当然の転帰なのですが、今から考えると少し思い上がっていたかもしれないと反省しています。

 

昨春から三重町の地域医療に従事するようになって、大きな総合病院や専門病院を受診しても症状が改善しなかったり、診断がつかないといった患者さんから相談を受けることも増えました。これは上記の小→大病院とは逆の流れであり、それまでに受診した専門医の間で診断が異なって苦慮することもありますが、医学的に中立を保ちながら患者さんに寄り添ったホームドクターとして診療します。このときにも、『後医は名医』という言葉を思い出しながら、自戒しつつ、、。(以下、次回に続きます) 

 

                           (文:森本)   

 

(※)『なんでも医』という言葉は私の造語で、読者にわかりやすく伝えるために『何でも屋』という言葉をもじって作りました。このためグーグルやヤフーで検索をかけてもこのサイトしか出てきませんが(平成27年1月14日現在)、どうぞ御了承いただければ幸いです。 

 

2014年

12月

26日

大分のタイムカメラ⑥ 戦前の高崎山(城)の頂上から見た風景

高崎山の頂上から見た戦前の別府の風景(著者所収)
高崎山の頂上から見た戦前の別府の風景(著者所収)

こんにちは!(^-^) 今回は、戦前の高崎山の頂上から見た風景を紹介します。

 

地元の高齢者にお話を伺うと、戦前の高崎山は、現在のように山道から頂上までの樹木が密集していなかったことから、見晴らしが良いハイキングコースだったそうです。高さは東京スカイツリー(634m)とほぼ同じ628mです。

高崎山の中腹あたりから見た戦前の別府の風景(著者所収)
高崎山の中腹あたりから見た戦前の別府の風景(著者所収)

 

高崎山は古くは『四極山(しはつやま)』と呼ばれ、頂上からは別府湾や由布山、鶴見山など四方が見渡せたほか、豊後国府がある府内(現在の大分市)のどこからでも望める象徴的な山として知られていました。

 

中世には山城が築かれ、南北朝や戦国時代の合戦の舞台になっています。大友氏時代は巨大な要塞のような城であったことが近年の調査から判明しており、宣教師のフロイスが書いた『日本史』にもタカザキ(高崎)城として登場します。山頂には港や街道からの情報を伝えるための狼煙(のろし)台があり、府内の大友館や周辺との連絡にも使われていたようです。御紹介した戦前の高崎山からの風景を、四百年以上前に大友宗麟や黒田官兵衛が眺めていたと想像すると、歴史のロマンを感じます。

 

今年から環境省や大分市の森林セラピー事業の一環として、高崎山セラピー道路が整備されて、これまで樹木の群生で頂上からほとんど見えなかった別府湾が所々見られるようになりましたが、戦前の絵葉書のような絶景ではないようです。高崎山は、戦後に野猿の餌付けに成功して『おさるの山』として観光地化が進んだことや、国の自然動物公園であるためあまり木を切ることはできないそうですが、戦前のような眺望が可能になれば、大分を代表する観光名所としての評判がさらに高まると思います。。。

日出城天守台から、別府湾を挟んで望む高崎山(中央の小高い山)です。
日出城天守台から、別府湾を挟んで望む高崎山(中央の小高い山)です。

  

                            (文:森本)

 

コメント: 
  • #1

    赤星憲一(日曜日, 04 1月 2015 14:51)

    南北朝時代、北朝方の足利尊氏は、大野町の矢形神社に参拝し隅四方✖旗を翻し、志賀氏(抱き杏葉旗)、地元足立氏(㋥旗)などを見方にし豊後大野市朝地町鳥屋城で南朝方の攻撃を防いだ。高崎城では大友氏時が篭城していたが、南朝方は攻めきれず退却した。これを志賀氏房が久住まで追撃し北朝軍は勝利した。
     さて中学の時の英語の
    まうんと、たかさき、いず、ふぇいます、ふぉー、まんきいず。
    モンキーズとは
    http://youtu.be/f-fBgOla9VI

  • #2

    miekinen(日曜日, 04 1月 2015 15:30)

    赤星さま、コメントをありがとうございます。仰る通り、足利尊氏は一時は後醍醐天皇方に敗れて京都を追われて都落ちしながらも九州、特に豊後で勢力を盛り返し、その後の室町幕府開府のきっかけとなったことは歴史上大きなことだと思います。なぜか大分の中高生はあまり知らないのは残念ですが、きっと全国統一の教科書のことが中心の学習だからもしれません、、(^^;)。戸次(立花)道雪・宗茂親子を含めて、昔の大分の凄い歴史をもっと広めたいですね。(^^)/

2014年

12月

18日

なんでも医のつぶやき② 『なんでも医と専門医の連携 その1』

 

 

こんにちは!(^-^) 

 

今回はこのエッセイのタイトルである、『なんでも医』についてお話ししたいと思います。前回の①でお話ししましたように、私は昨春まで様々な専門医がいる大学病院や基幹病院に所属して、その中で医療や研究・教育をしておりました。現在は上記の左の図のように当院で、いわゆる『なんでも医』として医療全般に取り組んでいます。世間では「総合診療医」、「プライマリ・ケア医」、「家庭医」などと称されることもありますが、『なんでも医』という言葉の方が中身がよく伝わる印象です。なお、今はやりの(?)『総合〇〇専門医』というような名称は、患者さんにとっては狭義の専門医との混乱の元であり、私見ながらなんでも医は医師資格で十分と思います。ただ、地域のなんでも医にはそれなりの技能や診療スタイルが必要とされると感じます。(続く)

           

                           (文:森本)

 

2014年

12月

08日

なんでも医のつぶやき① 『歴史家ではなく医者です(^^;)。。。』

2013年(平成25年)3月に大分合同新聞から依頼されて書いた記事です。
2013年(平成25年)3月に大分合同新聞から依頼されて書いた記事です。

こんにちは!(^-^) このブログでは昔の大分の風景を紹介する「大分のタイムカメラ」を掲載していますが、本業である医療についてもエッセイを通じて話題提供をさせて頂きたいと思います。                 

 

この連載のきっかけは、先日、豊後大野市長さんに「地域を活性化する切り札は、豊後大野に生まれた戸次(立花)道雪と宗茂の生涯を大河ドラマにすることだと思います。」とお話した際に、『森本さんは歴史家と思ってました(笑)』と言われたことです(^^;)。そういえば大分合同新聞社に依頼されて道雪生誕500年の記事を寄稿したり、経済同友会の方々に歴史講演をしたことがありますが、ただの郷土史マニアですので歴史家と呼ばれるのは畏れ多いです。医療に関する話題も書くことで、このブログがみなさまの健康に少しでもお役に立てば幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。

早いもので、昨春から三重町のみえ記念病院に赴任して1年半が経過しました。私は大分市出身ですが、当初は『ユーロ(下腿内側を意味する豊肥方言)』などの言葉に驚きながらも、おかげさまで地域のみなさまとすぐに打ち解けることができ、真摯な病院スタッフと業務ができることを嬉しく思っています。大学教官時代は医学生や研修医、大学院生がほとんどいつも側にいて、それはそれでやりがいもあるのですが、患者さんやご家族をはじめ病院の各スタッフと接する機会が増えたことが何より嬉しいです。

 

私は大分医科大学を卒業して、救急医療を含めた研修を行い、画像診断と治療を行っていました。その後、現代医学の中心である薬物治療を本格的に学ぶために、臨床薬理学で医学博士を取得して日本や米国の病院で患者さんを診療しながら、薬のより効果的で副作用の少ない使用方法の開発にも従事していました。昨年は自衛隊予備自衛官補(医官)の選抜試験に合格して、「真の総合医療」と言われる災害医療を学んでいます。

 

長々と書いてしまいましたが、元々は医学生時代にターミナルケアに興味を持ち、在宅医療で有名な東京の先生の施設での研修で『まず医療の様々なことをしっかり経験して医学教科書を書けるくらいになってから、この分野に来ても遅くないよ』と助言を受けたことが始まりです。おかげで、体の画像診断から、心の領域や生活習慣病の薬物治療と医療コミュニケーションまで広く学ぶことができたことは現在の診療にとても役立っています。

 

※以下、次回の ②『なんでも医と専門医の連携』に続きます。

      

                              (文:森本)

 コメント:

  • #1

    みなみどうせつ(火曜日, 09 12月 2014 21:27)

    医師といえば、小さい頃、小6の時、4歳下の弟とOBSで見ていたドラマ。「リチャード・キンブル、職業医師。正しかるべき正義も、時としてめしいることがある。彼は見に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中列車事故に遭ってからくも脱走した。孤独と絶望の逃亡生活が始まる。髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求め、彼は逃げる。執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら現在を、今夜を、そして明日を生きるために…」        

     土曜日はいつもドキドキ。大人の雰囲気にひたる。(将来はかっこいい医者になろうと思った。好きな人も医者の娘だった。)
    自宅の裏の歯医者さんから勉強机を贈られた。表面が薄緑で豪華だった。思い切り楽しく勉強できたが、自分の体(頭)が弱いので医者は無理と思ったが、同じ型の机で勉強した歯医者さんの息子は3人とも医者になった。

  • #2

    miekinen(水曜日, 10 12月 2014 08:11)

    みなみどうせつ様、コメントをありがとうございます。米国のTV番組『逃亡者(The Fugitive) 』ですね。私はハリソン・フォード主演で1993年にリメイクされた映画を見ました。面白かったですね(^^)。


    自分は子供の頃にトム・クルーズ主演の映画『トップガン(Top gun)』を見て、パイロットになることが夢でした。高校生のときから近視になってその夢は諦めましたが、個人的にパイロットの方々とは不思議とご縁があり(本ブログ8月21日・22日をご参照ください)、彼らと会うときには同窓会で初恋の女性と再会するように背筋がピンと伸びる気がします。(^^;)

  • #3

    サトウ(月曜日, 15 12月 2014 13:26)

    「なんでも医」頼りになりますね。

    お医者さんでこんなに身近に感じられる方は初めてです(^-^)
    先日、日本語の講義を受講したところ、東北地方のオノマトペの話題が出ました。そこで思い出したのがこちらの医療方言集。
    随時更新されているのですね。
    万が一、大分で災害があった場合、全国のお医者様の頼りの綱になるかと思いますよ。

  • #4

    miekinen(月曜日, 15 12月 2014 18:23)

    サトウさま、コメントをありがとうございました。過分なお褒めの言葉を頂き、真にありがとうございます。私は昨春から赴任しましたが、当院は介護保険施行前から四半世紀に亘って、地域で医療・介護・生活支援を行い、現在では全国で行われている高齢者の無償送迎を先駆的に行ったパイオニアでもあります。(詳細は『ニコニコ生活村について』のページをご覧ください。)当時は大分県内はもちろん、NHKの全国放送の討論番組で取り上げられるほどの激しい議論があったそうです(^^;)。そのような歴史や伝統を大切にしながら、今後も医療に励みたいと思います。今後ともよろしくお願い申し上げます。o(_ _)o   

                        森本 拝

 

平成26年(2014年)12月1日(月曜日)

 

『大分のタイムカメラ⑤ 戦前の大分駅前』

 

戦前の大分駅の手彩色カラー写真。(著者所収)
戦前の大分駅の手彩色カラー写真。(著者所収)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは!(^-^) 今回は、戦前の大分駅前を紹介します。

 

大分駅は1912年(明治44年)に別府駅から続く豊州本線の終着駅として開業しました。その後は県全域に広がった鉄道の中で、大分県の中心駅として発展します。右の写真は戦前の大分駅で、駅舎の表玄関前に植えられた大きなクスノキが名物でした。クスノキは戦災も免れ、1964年(昭和39年)の伐採まで長く県民に親しまれていました。

大分駅から見た駅前広場。右端に吉島食料品店と、「桜ようかん」の看板が見える。(著者所収)
大分駅から見た駅前広場。右端に吉島食料品店と、「桜ようかん」の看板が見える。(著者所収)

右の絵葉書は、大分駅の表玄関(現在の府内中央口:北口)から見た戦前の駅前広場です。ここでは大きな行事をはじめ、出征や復員した兵士の送迎、戦地で亡くなった方々の多くの棺を迎えるなど、駅を訪れる人にとって大変思い出深い場所だったそうです。写真の右端に、吉島食料品店と桜ようかんの看板が見えます。吉島食料品店は駅前でお土産のお菓子などを販売しながら食堂も開いていたお店です。

 

下に吉島食料品店のメニューを紹介します。看板に書かれた桜ようかん(櫻羊羹)や、地元に由来する名前を冠したお土産の豊後梅(大分県花から)、春日の友(春日町や春日神社から)、白雉飴(はくちあめ:府内城の愛称の白雉城から)などが販売されていました。食堂部ではコーヒー5銭、ライスカレーや文化親子丼30銭などのメニューが記載されています。(※画面をクリックすると拡大します)

吉島食料品百貨店の広告。大分に由来する名前(豊後梅、春日、白雉)をつけたお土産や、コーヒーやライスカレー、文化親子丼などのメニュー。(著者所収)
吉島食料品百貨店の広告。大分に由来する名前(豊後梅、春日、白雉)をつけたお土産や、コーヒーやライスカレー、文化親子丼などのメニュー。(著者所収)

 

明治末の路面電車の大分駅停留所(著者所収)
明治末の路面電車の大分駅停留所(著者所収)

大分駅前は1900年(明治33年)に九州で初めて敷設された路面電車(豊州電気鉄道、後の大分交通別大線)の終点でもありました。右の写真のように、開業して数年間は(路面電車の)大分駅停留所は南新地(竹町通り前付近)にありましたが、12年後に鉄道の大分駅が開設してから、現在の大分駅前まで終点が延伸しました。電気は大野郡(今の豊後大野市)の沈堕の滝に開発された水力発電所から供給され、大分別府間を約50分で運行する、当時の最先端の交通機関でした。以来、戦後の自動車の交通渋滞を軽減する目的で1972年(昭和47年)に廃線となるまで、通勤や観光に大きな役割を果たしていました。

 

ところで、大分方言では今でも鉄道の列車を『汽車』と呼びます。例えば、「汽車で行くけん(共通語訳:JRで行くからね。)」というような表現です。このため「電車の間違いでしょ」と笑い話になることがありますが、大分では鉄道の車両(=汽車)と路面電車(=電車)を早くから区別して呼んでいた名残なのでは?と私見ながら思っています。

現在の大分駅は、かつて『駅裏』と呼ばれていた上野の森口(南口)の大規模な開発が進み、さらに従来から表玄関だった府内中央口(北口)の再開発によって、『JR大分シティ』という新しい駅ビルが平成27年(2015年)4月に完成予定です。大分駅百年の歴史を踏まえて、これからも発展が楽しみですね(^^)                                             

                          

                           (文:森本)

 

参考文献:

田尻弘之『大分交通別大線』 RM LIBRARY 85巻  ネコパブリッシング  2006年                                             

 

コメント: 2
  • #1

    赤星憲一(月曜日, 01 12月 2014 09:49)

    伊勢正三の「なごり雪」では汽車がメインでトレンドとなっている。大分県でも昔、汽車の通っていない地域の住民は特に憧れる。
    弟は、たった1駅の汽車通学をするため、地元の高校に行かず隣町の工業高校へ行った。当時、単車で朝地駅に行って、あとは汽車通だった。私は下宿だったので単車にも汽車にも乗れず悔しかった。

  • #2

    miekinen(月曜日, 01 12月 2014 12:42)

    赤星さま、貴重なお話をありがとうございました。伊勢正三さんの『なごり雪』の最初の1番目の歌詞は、『汽車を待つ君の横で 僕は時計を気にしてる~』であり、2番目の歌詞は『動き始めた汽車の窓に顔を付けて 君は何かを言おうとしている~』ですね!伊勢さんは津久見出身で、この歌も津久見駅をモチーフにしているとか。40代の自分にとっては、物ごころがついたときには別大電車も鉄道の汽車もなくなっていましたが、歌の風情は良く伝わります。ありがとうございました(^^)

平成26年(2014年)11月25日(月曜日)

 

『大分のタイムカメラ④ 戦前の竹町通り商店街』

明治末期の竹町通り商店街の絵葉書(著者所収)
明治末期の竹町通り商店街の絵葉書(著者所収)

こんにちは!(^-^)

 

今回は、大分市竹町通り商店街の明治時代と昭和初期の二つの絵葉書を紹介します。

 

右上の写真は明治末期の竹町の入口です。九州初の路面電車となった豊州電気鉄道(後の大分交通別大線。通称 別大電車)のレールが手前に見えます。路面電車が通っていた道路は、現在は大分駅からトキハデパート前のスクランブル交差点を通る大きな車道になっています。当時の竹町通り商店街は、眼鏡の看板が目印の矢野眼鏡店(右)と小手川商店(左)で始まり、ここから府内城下町の西の玄関である笠和口(現在の大分オアシスタワーホテル前の道路が外堀で、その出入口)まで続いていました。矢野眼鏡店は現在の『ヤノメガネ』で、今も竹町に本店があります。

昭和初期の竹町通り商店街の絵葉書(著者所収)
昭和初期の竹町通り商店街の絵葉書(著者所収)

右の写真は昭和初期の頃です。正面上に『竹町通』のアーチと、天幕のアーケードが部分的に作られています。自転車に乗った通行人の姿がありますが、アスファルトブロックで舗装が施されていました。1922年(大正11年)からは現在も開催されている竹町夜市が始まります

1935年(昭和10年)鈴蘭燈が灯る風景。左手遠方に4階建ての一丸デパートが見える(著者所収)
1935年(昭和10年)鈴蘭燈が灯る風景。左手遠方に4階建ての一丸デパートが見える(著者所収)

 

夜は「鈴蘭燈」と呼ばれた電燈が灯りました。1934年(昭和9年)に、竹町2丁目に大分県初の百貨店「一丸デパート」が開店してさらに賑やかになります。

 

1945年(昭和20年)7月17日の大分空襲で商店街は全焼しましたが、戦後復興して現在の姿となりました。ただしばらく廃墟だった時期があり、かつての賑わいを取り戻すまでに数年の歳月がかかったそうです。一丸デパートの建物は焼失後、再建されることはありませんでした。

 

大分県で初の百貨店として竹町2丁目に開店した一丸デパートの広告(著者所収)
大分県で初の百貨店として竹町2丁目に開店した一丸デパートの広告(著者所収)

現在の竹町通り商店街は『ガレリア竹町』と呼ばれ、戦後は竹町噴水広場、現在は日本ポルトガル交流450周年を記念して作られた帆船モニュメントが名物となっています(帆船は竹町広場の整備のため今年度内に撤去予定)。それにしても、戦前の賑わいに改めて驚かされる写真ですね。。。

 

                       (文:森本)

コメント: 2
  • #1

    赤星憲一(火曜日, 25 11月 2014 20:26)

    貴重な写真を拝見いたしました。
    さて、大分に府内城を再建することはどう思いますか。

  • #2

    miekinen(水曜日, 26 11月 2014 08:46)

    赤星さま、コメントをありがとうございました。大分の府内城については、『府内城を復元する会』http://www.funaijou.jp/ の方々が熱い思いで取り組んでおられますね。私も府内城マニアで、金池小学校時代の自由研究でペーパークラフトで竹中氏時代の再建天守(層塔型天守)を含めたモデルを作って賞をもらった思い出があります。府内城を再建が実現すれば私の当時の夢も叶います(^^)。

 

平成26年(2014年)11月7日(金曜日)

大分のタイムカメラ②戦前の府内城と旧大分県庁

府内城と県庁の戦前のカラー写真(著者所収)

こんにちは!(^-^)

 

今回は、1945年(昭和20年)の空襲で焼失する前の、大分府内城のカラー写真

を紹介します。戦前は白黒の写真が一般的でしたが、大分県でも写真を着色した絵葉書として、お土産として売られていたようです。戦前の絵葉書は旧漢字や、右→左に書かれていることが特徴です。

 

右上の写真は、府内城の二の丸(手前の西の丸と東の丸)を、現在の大分市役所の方向から見た風景です。戦後に櫓が復元された現在の風景とあまり変わらないと思われるかもしれませんが、城内に大きな松が何本もあることや、堀に蓮が植えられていたことが戦前の特徴です。さらに、手前の二重櫓(西南櫓)と宗門櫓の間の石垣にわずかな段差があることが現在との違いです。石垣の段差があるのは、江戸時代に修築か拡張工事をされた跡かもしれませんが、戦後の復元後は平坦になっています。写真に撮影された建物は、1945年(昭和20年)7月17日の大分空襲で、宗門櫓を残して焼失してしまいましたが、1965年(昭和40年)に復元されました。

 

右下の写真は、府内城内に1921年(大正10年)に新築された旧大分県庁(左)と大手門(右)です。この旧大分県庁の写真を見て、『懐かしい!』と仰る高齢者は多いです。旧大分県庁は空襲では北西部を損傷しただけだったので、1965年(昭和40年)まで使用され、その後は堀を隔てた大手町にある現在の庁舎に移転しました。旧県庁跡地に1966年(昭和41年)に建てられた大分文化会館も、半世紀が経過して老朽化のため、今年(2014年)7月に取り壊されました。。。

 

現在の府内城はかつての旧大分県庁も、大分文化会館も無くなって、城内は広々と(閑散と?)しています。最近では1996年(平成8年)に西の丸と山里丸を結ぶ廊下橋が復元されましたが、『大分のシンボルである府内城の天守の復元を!』という県民の声が大きくなっているようですね。(参考サイト:府内城を復元する会 http://www.funaijou.jp/ )

 

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  • #1 サトウ(月曜日, 10 11月 2014 13:25)
    貴重な絵葉書ですね。歴史を知ると親しみがわいてきますね。
  • #2 miekinen(月曜日, 10 11月 2014 18:14)
    サトウさま、ありがとうございます。別府の戦前の絵葉書は本やネットによく出ているのですが、それ以外の大分市などの絵葉書はあまり目にする機会がないので少しずつ集めて皆様にお楽しみいただければと思います。

 

平成26年(2014年)10月29日(水曜日)

『大分DMAT研修に参加しました』

 おはようございます。

 

10月19日(日)に、大分県立病院で開催されたDMAT研修に行ってまいりました。DMATとは、Disaster Medical Assistance Team (災害派遣医療チーム)のことで、豊後大野市のDMAT指定病院は豊後大野市民病院です。

 

みえ記念病院はDMAT指定病院でないため研修義務はありませんが、私は大学病院を退職してから陸上自衛隊の予備自補(医官)に選抜されて定期的に訓練を受けており、今回も災害医療の研修として参加させて頂きました。

 

研修は午前中に災害医療とトリアージに関する座学、午後にグループに分かれて、災害時の救急対応やトリアージを具体的な施設や場面を設定して、繰り返して行う実践的なものでした。大分は全国でもDMAT教育がさかんな地域であり、幹事である大分三愛メディカルセンターの玉井文洋先生、大分大学病院の石井圭亮先生、アルメイダ病院の稲垣伸洋先生をはじめ、DMAT指定病院の医療スタッフや消防署員の皆様にご指導を頂き、大変勉強になりました。心より御礼申し上げます。

 

豊後大野市は、大分県の中でも内陸にあって交通の要所であり、大分県央飛行場もあることから、南海トラフ地震などで佐伯市など海岸部が津波被害などを受けたときに救援や支援を行う基幹地域として想定されているそうです。くれぐれも大きな災害が起きないことを祈っていますが、『備えよ常に』の言葉を念頭に、災害時の医療技術の向上に努めたいと思います。

 

                       (文:森本)

平成26年(2014年)10月22日(水曜日)

『当ホームページが「しんくみ」に紹介されました』

こんにちは。

 

当院のホームページをご覧になった大分県信用組合の方が、全国信用組合中央協会の定期月刊誌『しんくみ』10月号の「ご当地紹介! おおいたんあげなこと、こげなこと」の中で『大分医療方言集』を取り上げていただきました。

ありがとうございます!!

 

また、大分県信用組合のブログ『Talking'Loud ! かぼすボックス』にも大分医療方言を紹介していただきました。

 

 

全国信用組合中央協会『しんくみ』2014年10月号(第61巻第10号)より。
『しんくみ』誌によると、大分県信用組合は、ちょうど先週のブログ『大分のタイムカメラ① 木造の舞鶴橋』で紹介しました、昭和28年の西日本大水害で大分県に多くの被害が出たことをきっかけに、窓口の広い庶民の側に立った金融機関を望む声の中から誕生したそうです。そのような歴史を知って、私は大分県信用組合のファンになりました(^^)。

 

担当の佐藤さまをはじめ、関係者の方々に厚く御礼申し上げます。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。o(_ _)o 

 

                            (文:森本)

コメント: 2

  • #1

    佐藤(木曜日, 23 10月 2014 09:06)

    ご紹介ありがとうございます。
    周りの方の反響でも、方言は親しみやすく読みやすいとの声がありました。実際にみえ記念病院様のHPを見た方もおり、「体を”カダラ”と言う人がいるねぇ!三重の方の出身なのかな?」などと声を頂きました。
    これからも地域に親しんで頂ける「けんしん」でありたいと思っております。

  • #2

    miekinen(金曜日, 24 10月 2014 23:46)

    佐藤さま、コメントをありがとうございます。大分市出身の私でも、自分にとって初めて聞く方言が今も時々にあり、ワクワクしながら患者さんやご家族の御話を伺っています。


    大分の医療方言集『カダラ』の表現図を見て、大分の有名コピーライターさんやタレントさんにも爆笑していただきました(^^)。

    「けんしん」さんの郷土色豊かなカレンダーを毎年楽しみにしています。今後ともどうぞよろしくお願いします。

平成26年(2014年)10月15日(水曜日)

『大分のタイムカメラ② 木造の舞鶴橋』

絵葉書下の説明文は、「舞鶴橋ヨリ大分川ヲ望ム」ですが、画面上に見える橋は舞鶴橋であることから、『舞鶴橋付近から大分川を見た風景』という意味のようです。(著者所収)
絵葉書下の説明文は、「舞鶴橋ヨリ大分川ヲ望ム」ですが、画面上に見える橋は舞鶴橋であることから、『舞鶴橋付近から大分川を見た風景』という意味のようです。(著者所収)

こんにちは!

 

現在の認知症ケアで、『回想法』といって、患者さんの青少年時代の写真や音楽を手がかりにして、患者さんの記憶や意欲を引き出すお手伝いをする方法があります。

 

医療者にとっても、自分が生まれる前の郷土を、ドラえもんのひみつ道具『タイムカメラ』のように知ることはとても貴重な体験となります。私は上記の経緯で、大分県の様々な古絵葉書で回想法の題材になりそうなものを収集していますが、そのうちの一枚を紹介します。

 

右上の写真は、戦前(大正~昭和初期)の大分川の舞鶴橋です。西南戦争が起こる前年の明治9年(1876年)に、大分町から大分川を渡って津留村に至る『愛媛街道』として、大分~佐賀関間道路の開通に伴って竣工しました。元々の橋の名前は、「津留橋」でしたが、長い木造の橋が大分の名所となる人気となり、通称で『舞鶴橋』と呼ばれたものが、現在の舞鶴町や大分舞鶴高校(ラグビー名門の進学校で、松任谷由美の名曲「ノーサイド」でも有名)の名前の語源になっています。

 

残念ながら、昭和28年(1953年)の西日本大水害でこの橋が流出してからは、当時日本で2番目の面積を誇るコンクリート製で作られた今の『舞鶴橋』となりました。それにしても昔の木造時代の舞鶴橋はとても優雅ですね。当時の大分名所の一つに数えられたことを実感できます。 

                      (文:森本)

平成26年(2014年)9月10日(水曜日)

 『三重町でのこども英語教室開講とイチロー選手』

米国在住中にシアトルマリナーズの試合を見に行ったときに撮影した写真です。日本の球場よりも選手が間近に感じられました(^^)
米国在住中にシアトルマリナーズの試合を見に行ったときに撮影した写真です。日本の球場よりも選手が間近に感じられました(^^)

こんにちは。

 

今年の夏から、地域の方々の要請を受けて三重町の小児に英語をボランティアで教えることになりました。

 

5歳以下の小さい子供も含まれており、アルファベットにはひらがなと漢字のように2つの読み方があることを教えることから始めています。『Aは”a”、Bは”b”、Cは”k”,,,』と元気よく復唱してくれて、幕末の英語塾のようですが、子供たちの吸収がすごく早く、θ ðなどの発音記号を次々に覚えていく様子を頼もしく思っています。

 

ただショックだったのは、『先生はシアトルでイチロー選手を応援していたよ!』と言っても、イチローを知らない子供がいたことです。大学教官時代に平成生まれの医学生と雑談したときに、「先生の学生時代のアイドルは誰でした?」と質問されて、『菊池桃子さん』と答えると、「?」という反応だった以来の衝撃でした(^^;)。  

                       (文:森本)

                     

平成26年(2014年)8月29日(金曜日)

 『方言はタイムカプセル②』

おはようございます!三重町は今日も涼しい朝を迎えています(^^)

 

今から30~40年ほど前の昭和50年代(1970年代)の大分の小学校では、『きれいな言葉を話しましょう』という標語が掲示されていました。きれいな言葉とは共通語であり、この標語には『(学級会などの公の場で)方言を話すことは控えましょう』という意味も含まれていました。沖縄県のある小学校では、方言を話すと罰を課せられた決まりがあったそうです。筆者が通っていた大分市の小学校も、授業や学級会では共通語なのですが、遊び時間や家に帰ると完全に方言になりました。ところが現在は、地域振興や観光で地方の特色が重視されるようになり、たとえば沖縄県の公務員採用試験で沖縄方言(ウチナーグチ)の問題が出題されるなどの新しい傾向が認められます。NHKの朝ドラマ『あまちゃん』で、主人公のアキちゃんが北三陸の方言や海女さんの技能を身につけて自信とアイデンティティーを確立したように、大分の若者も地元の文化や歴史からの経験知をたくさん吸収して、大きく羽ばたいてほしいと思います!

 

※本ブログは立ち上げから1か月間は試行的に森本が担当しましたが、来週からは事務方を中心とした病院職員各スタッフの分担執筆となります。今後とも、みえ記念病院のホームページやブログをどうぞ宜しくお願い申し上げます。o(_ _)o  

 

(写真は三重町の佩楯山から続く山の稜線に広がる『大分の夜明け』です。)

 

                        (文:森本)

 

平成26年(2014年)8月28日(木曜日)

 『方言はタイムカプセル①』

おはようございます。今朝の三重町は曇り空で外気温25度、湿度86%と涼しい天気です。御盆が過ぎて随分と過ごしやすくなりました!

 

このホームページの『大分医療方言集』で、三重町周辺(豊肥・県南)を中心とした医療に関連する大分方言を紹介しています。私は大分市と臼杵市の境にある吉野出身で、祖父母から『クァイ(快)トスル=気分が爽快になる』などの方言を聞いて育ちましたが、三重町で『ユーロ(下腿の後ろ側)』という言葉を患者さんから聞いて驚きました。昭和11年(1936年)生まれの父も知らなかったことや、ユーロという言葉を使う患者さんの地域分布から、おそらく竹田周辺の豊肥地区を中心とした方言と思います。また、『アバケタ=化膿している病変が開いた』という方言については、1603年に九州在住のポルトガル宣教師が出版した『日葡辞書』に"Abaqeta"と掲載されています。大友宗麟や黒田官兵衛の時代の言葉が現在でも方言として残っていることはとても興味深いと思います。昨年のNHKの朝の連続ドラマ『あまちゃん』で、「じぇじぇじぇ!」という東北の方言が流行しましたが、方言はその地方の大切な宝物であり、タイムカプセルでもあるのですね。今日も良い一日を(^^)/ 

                     (文:森本)

 

※参考文献:土井忠生ら編 『邦訳 日葡辞書』岩波書店 1980年 

 

平成26年(2014年)8月27日(水曜日)

 『郷土の宝物 ②旧 大野高校にある白蓮の歌碑

おはようございます。今日も三重町は少し曇り空ですが静かな朝を迎えています。昨日ご紹介した、柳原白蓮が豊後大野市大野町の大野高校に贈った歌につきまして、現在廃校になっている大野高校の玄関に右のような歌碑が残っています。平成元年に創立六十周年を記念して建てられたと書かれていますが、『地はひろし~』の歌の本文は楷書で書かれています。郷土史家の芦刈政治先生(元 三重中学校長)によれば、この歌は当時大分県教育委員会の大野地方教育課長であり、後に大野高校の校長を務められた深田光先生(詩吟で有名な淡窓伝光霊流の開祖)からの要請もあって、白蓮が大野高校のために作った歌だそうです(下記註参照)。大野高校にはこの歌碑のほかに、かつて『日本一の庭園』と評価された、万葉集にちなんだ木や花を植えていた庭園もあり、文化に優れた高校だったそうです。現在は惜しくも廃校となってしまいましたが、豊後大野市の貴重な郷土の宝物として後世に伝えていきたいと思います。(※なお、現時点(2014年8月27日)では、大野高校のために書かれた白蓮の歌幅も歌碑もgoogleやyahooなどの検索ではヒットしません。僭越ながらこのブログ記事で再び世に広まるきっかけになればと願います。)

                    (文:森本)

 

(註)この記事を掲載した後、東京都の石川淳様より、柳原白蓮を大野高校にお呼びしたのは和田チヱさんである旨のご指摘(下記コメント♯5)を頂きました。和田チヱさんのことが書かれた記事が大分合同新聞(2014年9月23日)にも掲載されておりますので、併せて追記いたします。石川様に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。なお、白蓮が大野高校のために書いた歌幅は、上記の大分合同新聞の記事にもあるように、現在は豊後大野市役所のロビーに飾られています。とても嬉しいです!

                   (2015年3月2日 森本追記)

コメント: 6

  • #1

    みなみどうせつ(木曜日, 25 12月 2014 22:46)

    白蓮さんの弟子が元大野町町会議員の和田ちえさんです。
    その頃の写真と歌が市役所ロビーに現在、展示してあります。
    和田ちえさんの家は自分の家の二階から小川を隔てて眺められた。
    そこに賢い犬がいて新聞記事になった。(今和田葬祭に名を残す)
    さて、大野高校は大分大学とも関係がある。教育学部の前身、青年師範学校が大野高校にあった。30年前、仕事で国東の小学校に行ったら、数名の先生が戦時中、大野町に来ていたと言って懐かしがっていた。また、食品化学科があり、今でも残していたら廃校にならなかったかもしれない。隣の家の黒野先輩はプリマハムに就職した。調理師養成科などを新設し、食品科学と同時に募集すれば、大野高校の存続は可能だった。または私立の航空高校として転用すればよかったと後悔している。

  • #2

    miekinen(金曜日, 26 12月 2014 00:14)

    みなみどうせつ様、貴重なコメントをありがとうございました。

    私は、郷土史家の芦刈政治先生(元 三重中学校長先生)に白蓮の歌碑があると伺って、昨年の夏に初めて大野高校を訪ねて上記の写真を撮影しました。大野高校(跡)は『日本一の庭園』の面影もなく、随分寂しかった印象でした。みなみさんが仰るような、活性化に向けた政策が行われることを期待しています。

  • #3

    赤星憲一(火曜日, 30 12月 2014 07:01)

    大野高校を再び教育のスペースに最大限活用する。
    一般社団法人(略称)ぼくとねっとは、昨日会議を開いた。
     豊後大野市の活性化対策、中国から若者を呼び寄せ、日本語と英語、理数科、医学、科学を教育し、優秀な人材を輩出する私塾を拓く。豊後大野市が中国人の心の故郷となり定住者も期待できる。
     その場を過教育の風土溢れる旧大野高校校舎の全てを利用する。
    留学生宿舎は、男子が旧南部小学校、女子が旧西部小学校とする。
    これを実現できるかは受け入れる情熱や、ワクワク感のみです。

  • #4

    miekinen(日曜日, 04 1月 2015 13:06)

    赤星憲一さま、

    コメントをありがとうございました。スケールの大きな構想ですね!
    ただ移民の受け入れ策については、米国留学時代に米国や隣国のカナダで、それまで比較的寛容と言われていたカナダのバンクーバーでさえ、アジア系移民と現地の住民との軋轢が問題になっていたことを目の当たりにしたこともあり、私の中ではとても難しい課題という印象です。そのとき、米国人やカナダ人は『日本人は歓迎するんだけどね、、、』と口を揃えて言ってくれましたが、いろんな意味がその言葉には含まれていると感じます。

    貴重なご意見をありがとうございましたo(_ _)o

  • #5

    石川 淳(東京都足立区千住宮元町在住)(土曜日, 31 1月 2015 09:43)

    「白蓮が深田光先生の要請で歌を作った」と書いてありますが、全くの誤りです。その頃、深田先生と大野高校は何の関係もありませんでした。当時の大野高校の校長は稲葉荒太郎先生でしたが、この人が要請したわけでもありません。連れてきたのは当時大野町の町会議員をなさっていた和田ちえさんだそうです。私の母(石川巴=当時の教員、後どんぐり幼稚園(三重町)園長、故人)がそう話していたのを微かに覚えています。私の姉(当時の在校生)はもっと克明に覚えていました。当時私は小学校4年生でした。芦刈政治先生は朝地町の大恩寺中学で私が2年生の時の担任でした。芦刈先生も母をご存じの筈です。願わくはよろしくお伝えください。ついでに深田先生は私が高3の年に大野高校の校長になって来られました。また國學院大學の大先輩でもあります。

  • #6

    miekinen(月曜日, 02 3月 2015 05:36)

    石川 淳 様、

    貴重なご指摘をありがとうございました。さらに、御返事が遅れてしまい、大変失礼いたしました。本ブログは百記事までしか表示されないため、過去記事はバックナンバーのページに随時移しているのですが、その作業中に頂いたコメントに先ほど気がつきました。重ねてお詫び申し上げます。

    石川様の仰る通り、白蓮を大野高校にお招きした方は和田チヱさんであることは、2014年9月23日の大分合同新聞の記事『柳原白蓮直筆の掛け軸展示』(参考サイト:47ニュース http://www.47news.jp/localnews/odekake/2014/09/post-20140923091803.html)にも記載されていますね。私が2014年8月27日にブログ記事を書いた当時は、(実は今もそうなのですが)聞き手の自分としては深田先生の関与が全くなかったと判断できないため、『~からの要請「も」あって』という形にして含みをもたせたつもりでした。本記事には註を付ける形で、石川様のコメントを読んでいただくように追記したいと思います。

    芦刈先生は、現在もとてもお元気で、郷土史研究の活動をされております。貴重なご指摘をありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。石川様のことも近日中に先生にお話しいたします。よろしければ大分に来られた時などにぜひお会いできればと思います。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
                          森本卓哉 拝

 

平成26年(2014年)8月26日(火曜日)

 『郷土の宝物①白蓮が大野高校に書いた歌

おはようございます。今朝は室外気温27度、湿度74%で、晴れですが今日も蒸し暑くなりそうですね。昨年、みえ記念病院に掲示されている柳原白蓮の色紙や短冊を芦刈政治先生(郷土史家・元 三重中学校長)に読んでいただいた際に、先生から『白蓮が(豊後大野市の)大野高校のために書いた歌の掛け軸が残っているよ。』と教えられて驚きました。白蓮は別府に別荘(赤銅御殿)があり、そこで有名な駆け落ちの相手となった東大生の宮崎龍介と知り合った話や、別府市に白蓮の歌碑もあることから大分とは大変縁の深い方ということは知っていたのですが、豊後大野市に白蓮の歌があるとは初耳でした。豊後大野市や公民館に問い合わせたところ、収蔵されていた右記の掛け軸を教えてくださいました。

 

『地はひろし 海おほいなり この子らが はたとせ(二十年)後に のぞみをかけな  白蓮    爲 大野高等学校 昭和29年 初秋』と書かれています。(※白蓮の歌は、芦刈先生に読んで頂きました。右の写真は豊後大野市中央公民館のご厚意により掲載しています。)

 

現代語訳すると、『地が広く、海が大きな(大分の)この子たちの20年後に望みをかけたい』という意味になります。実際には豊後大野市には海がないのですが、大分県や日本などもっと大きなイメージで作詞されたと思われます。白蓮は戦争で息子を失いますが、戦後新しく育っている大分の子供たちの未来に希望を託したのでしょう。それにしても、なぜ『はたとせ(二十年)』という数字なのかに興味を持ちました。あくまで推測ですが、この歌が書かれた昭和29年の前年(昭和28年)に伊勢神宮の式年遷宮が行われています。二十年というのは成人の年でもありますが、式年遷宮の間隔である一世代を意味する数字かもしれないと思っています。なお、残念ながら大野高校は平成14年(2002年)に廃校になっていますが、跡地の玄関前にこの白蓮の歌を楷書体で刻んだ歌碑が残されています。  (文:森本)

 

平成26年(2014年)8月25日(月曜日)

 『アメリカでびっくりしたこと③

おはようございます。8月の最後の週が始まりました。先週の話の続きです。写真は飛行機からシアトル市街を撮影したものですが、シンボルのスペースニードル(白い塔で、エレベータを昇ると回転式のレストランがあります)が見えます。シアトルは北海道よりも緯度が高いですが、海流のおかげで湿度が低く温暖な気候です。夏は日本のように蝉が鳴かないため、私は生まれて初めて『静かな夏』を経験しました。

                        (文:森本)

 

コメント: 2

  • Margie I know what you mean about a "quiet summer" - the first time I ever visited Japan many years ago was in July-August, and I had my first experience with the constant background "music" provided by the cicadas. Now, whenever I hear cicadas I immediately feel "Japan"!

(月曜日, 25 8月 2014 06:55)

 

  • miekinen Margie, Thank you very much for your comment. I was very surprised by "Quiet summer" in Seattle and deeply interested in your impression in Japan vice versa! Takuya  

    Margieさん、コメントをありがとうございました。日本で生活しているMargieさんがセミのいない静かな夏から日本の騒々しい夏にびっくりした体験は私と全く逆でとても興味深いですね(^^)/ (月曜日, 25 8月 2014 20:01)

 

平成26年(2014年)8月22日(金曜日)

 『アメリカでびっくりしたこと②』

おはようございます。今朝は今にも振り出しそうな雨模様で、病院の室外は気温25度、湿度HI(90%)以上です。

 

(昨日の話の続きです)米国でレストア(修復)されているとはいえ70年も前の戦闘機に乗るかどうかかなり迷いました。しかし、20年前に研修医だった時期の担当患者さんが零戦の優秀な元パイロットで、航空母艦への着艦の仕方などをベッドサイドで教えてもらったことを思い出し、当時の飛行機に乗ってみたいという気持ちに抗しきれなくなりました^^;。いかにも飛行機野郎というような闊達な若いパイロットにパラシュートを付けられて後部座席に乗せてもらったのが右の写真です。眼下にシアトルの湖が広がっています。(続く)

                              (文:森本)

コメント: 2

  • サトウ 戦闘機に乗れたとは羨ましい体験ですね。すがすがしい気分になれたのではないでしょうか?(^-^)私事ですが、子供の頃の戦車の試乗体験(たしか、霞ヶ浦駐屯地だと思います)が楽しかった事を覚えています。

(金曜日, 22 8月 2014 12:20)

 

  • miekinen サトウさま、コメントを頂きありがとうございます。はい、機内は少し狭くて圧迫感がありましたが、それに勝る雄大な景色の眺めでした。

(金曜日, 22 8月 2014 22:36)

 

平成26年(2014年)8月21日(木曜日)

 『アメリカでびっくりしたこと①』

おはようございます。みえ記念病院ホームページを今月からリニューアルして、このブログも当初は森本が書いておりますが、来月9月からは病院若手スタッフを中心とした分担執筆となります。それまで埋め草原稿を書いております。もう少しおつきあいください。(^^;)本日は、私が米国に住んでいた時のびっくりした話をしたいと思います。2011年から米国のワシントン大学医学部附属病院に研究員兼医師として勤務しておりました。シアトルは日系人が多く、当時はイチロー選手がシアトルマリナーズのスター選手として活躍していたこともあり、病院スタッフをはじめ現地の方々には大変良くしていただきました。大家さんがボーイング社に勤めていた関係で、1942年に作られたという米国の戦闘機にも乗せていただいたことがあります。この機体は太平洋戦争中、零戦とも戦ったそうですが(^^;)、(続く)

                      (文:森本)

 

平成26年(2014年)8月20日(水曜日)

 『芦刈先生との歴史談義 ~おおども宗麟~』

三重町にお住まいの芦刈政治先生は元三重中学校の校長先生であり、郷土史家としても有名な方で、最近では大分県先哲叢書『大友宗麟~戦国乱世の英傑』大分県教育委員会刊 の著者でもあります。先日、芦刈先生に『先生、宗麟の時代の宣教師の文書(耶蘇会士日本通信)に、『ODOMO』と書かれているのは、当時「大友」は「おおとも」ではなく、「おおども」と発音されていたのではないでしょうか?』と質問したところ、『ふむ。。大友家三代当主の頼泰が元寇の役で撤退をした際に、「大友は 子供うち連れ 落ち行きて 方々にこそ よりやすみけれ」と落首で批判されたのだけれど、その読みは子供(こども)に対応するなら(おおども)だよね。』と教えてくださいました。現在は「おおとも」と一般に発音されていますが、大友宗麟も、浅井長政(あざいながまさ)のように、「おおどもそうりん」と呼ばれていたのかもしれないですね!芦刈先生との歴史談義はとても貴重で、私にとっては至福の時間です。(^^)   (文:森本)

 

平成26年(2014年)8月19日(火曜日)

 『大分の新名産 甘太くん』

私たちの三重町は、大分県農林水産研究指導センターの本部が置かれている、農業拠点でもあります。三重町を中心とした豊後大野市(旧 大野郡)は、明治時代から養蚕業がさかんで、『認知症と地域支援の取り組み』のページで紹介した古い絵葉書のように大分県の中心的な地域でした。養蚕業が衰退してからはタバコ作りがさかんになりましたが、それも近年の規制で衰退してからは豊後産の椎茸をはじめ、最近では大麦若葉、糖度が高い甘太くん(品種名 紅はるか)が名産になっています。甘太くんはローソンでも売られているほか、糖度が40を超える甘太くんを使用したお酒やお菓子も売られています。美味しいですよ(^^)

                    (文:森本)

 

 

平成26年(2014年)8月18日(月曜日)

 『甲子園のお土産を頂きました』

みなさん、こんにちは。本日は当院の阿南事務長さんから甲子園のお土産を頂きました。高校生の息子さんの野球部が大分大会で優勝して甲子園に出場することとなり、先日の試合には惜しくも敗れたのですが応援に行ってとても良かったそうです。今も白熱した試合が続いていますが、しらしんけん(大分弁で「真剣に」という意味です)、全力でプレーをする姿はいつも感動しますね。 (文:森本)

 

 

 

 

 

平成26年(2014年)8月15日(金曜日)