郷土史コラム『戦前の竹町通りの右横書きと左横書きが混じった風景』

昭和14~15年頃の竹町通り入り口(電車通り側から撮影)の風景絵葉書(著者所収)
昭和14~15年頃の竹町通り入り口(電車通り側から撮影)の風景絵葉書(著者所収)

 

こんにちは。上の絵葉書は太平洋戦争が起きる少し前の、昭和14年~15年(1939年~1940年)頃の大分市竹町通りの写真です。5年余り後の昭和20年の大分空襲で、竹町通りはほぼ全焼してしまいますが、写真は当時電車通り(碩田橋通り)と呼ばれた、今の中央通り(トキハデパート前のスクランブル交差点がある大通り)の側から撮影されました。竹町通りアーケードの看板が「竹町通」と現在のような左横書き(左から右に向けて横に続けて書く)で書かれている一方、その上奥に「久長運武(※武運長久=ぶうんちょうきゅう、を右横書きで書いたもの)」と、右から左に向けて横に続けて書く、右横書きの書き方が入り混じった風景になっています。

 

私は以前は、現在のような左横書き(このホームページも左横書きですね)になったのは戦後以降と思っていましたが、戦前絵葉書を収集するうちに太平洋戦争が始まる少し前から、上の絵葉書のように現在の左横書きが少しずつ普及した風景写真があることに気づきました。それでも当時の新聞の見出しや正式な横断幕などは、日本古来の右横書きが主流でしたが、絵葉書の右側に写っている「日進堂文具店」のような左横書きの看板も街中で普及していたようです。

 

なぜ日本語の表記が右横書きから左横書きに変化したかというと、絵葉書の右下の説明文のように、日本語と英語を併記する際にお互いに反対になる(説明文で英語で「TAKEMACHI-STREET」で書いてある一方、右横書きで「所名分大」※大分名所、というように真逆の書き順になる)ことで見づらいからでしょう。戦前に英語を学んでいた学生も、英語の下に日本語訳を書くときには左横書きにして書いてたことを、大分高等商業学校に10年間勤務されていたホーンビー先生の事績を調べる中で当時の教科書の書き込みなどで確認しました。(ご興味のある方は『ホーンビー先生の大分高商での英語教育』ページをご参照ください。)

 

ところで世界の言語は、英語のような左横書きが多い反面、昔の日本語やアラビア語、ヘブライ語は右横書きだそうです。アラビア語は書道の文化もあるそうですが、さまざまな文化の類似や違いが興味深いですね!

 

                      (文:森本)