東大史料編纂所の本郷教授に「大友の読み方はオオドモでは?」について伺ってみました。

こんにちは。5月21日(日)に大分市コンパルホールで、大分県立埋蔵文化センター開館記念講演会のシンポジウム『大分市と戦国時代』が開催され、テレビで御馴染みの東京大学資料編纂所教授の本郷和人先生や奈良大学教授の千田嘉博先生がそれぞれ、『大友氏の実像をさぐる』、『大友氏と城館』について特別講演を行っていたので聞いてきました。本郷先生はなぜ源頼朝が豊後大友氏初代の能直を重用したのかについて、系図や当時の地理的な環境を具体的に講義されていたことが非常に面白かったです。また、大分県立大分西高校三年の2人の女子高生が『中世大友氏に関する覚書』について学んだことを研究発表して、本郷先生と千田先生から絶賛されていたことも素晴らしかったです。

 

シンポジウムの最後で少し時間が余ったとのことで、司会者の方から「フロアの方から質問はありませんか?」と呼びかけがあったので、本郷先生にぜひ聞いてみたかった以下の質問をしてみました。

 

森本:『大友氏の読み方として、ふだんは「おおとも」と呼ばれているけれど、宣教師が書いた文書にはローマ字でtではなくdが用いられていて、『オオドモ』と読めます。郷土史家の芦刈先生から伺った話ですが、元寇の役の際に一時撤退した大友頼泰を揶揄した落首として『大友は 子供うち連れ 落ち行きて 方々にこそ よりやすみけれ(「寄り休み」は「頼泰」の掛詞)』があり、子供(コドモ)の対比語として「オオドモ」と読めるのではないでしょうか?』

 

これに対して、本郷先生は『すみませんが良く知りません。ただ一般論として恰好をつけて間違うよりも無難に読む方がいいかなあと私は思います(笑)。戦国大名の浅井氏も昔のテレビ番組では「あさい」と呼ばれながら、最近の大河ドラマで「アザイ」と呼ばれるようになりましたが、これは小和田哲男先生のこだわりというか、地元の人の読み方を尊重したもので明確な証拠はありません。宣教師やローマ字で書かれた文書も、伊達政宗はIDATEと書かれたり、黒田官兵衛をカンノヒョウエと読ませたりしているので、すべてを正確な発音で記載していたかどうかは不明です。いずれにしても非常に鋭い卓見だと思います。』と、大変明快に答えて頂きました。

 

大友氏の読み方は「オオドモ」だったのでは?という疑問は、2014年8月20日のブログ『芦刈先生との歴史談義① おおども宗麟』で郷土史家の芦刈政治先生とのお話でも紹介した話題ですが、昨年芦刈先生がお亡くなりになってからそのままになっていた宿題でもあり、ずっと気になっていました。

 

一説によると、関東では大友(オオドモ)と呼ばれていて、鎌倉時代の豊後下向の際におおともに替わったとする説を唱えている歴史家もおられると、会場の方から教えて頂きました。私の興味は大友宗麟の戦国時代にも「オオドモ」と呼ばれていて、宣教師がと割と正確に書き記したのではないかということです。

 

これから時間を見つけてポルトガル語を勉強してみようかな、と思った有意義な会でした。御答えを頂いた本郷教授に心から御礼申し上げます。

 

                    (文 森本)

 

(※筆者付記)

ポルトガル人の宣教師・通訳ロドリゲス・ジョアンが書いた「日本語小文典」には「Vôdomodono(大友殿)」と書かれています。Vôはオオと読み、その次に t ではなくdと記されて「オオドモ」と読める点について、例えば伊東氏に関して「Itôdono(伊東殿)」と書いていることから、当時の宣教師は「と(to)」と「ど(do)」を聞き分け、区別して記録していたのでは、と私は考えています。