大正時代に活躍した辛島 篤(あつし)女史の生涯について、平成10年(1998)に大分合同新聞文化センターの清原芳治さんがお書きになった『女医 辛島 篤-医学を志した初の大分県女性ー』が出版されました。このたび、著者の清原芳治氏の御厚意により、当ホームページに御本を掲載させていただくことになりましたので以下にご紹介します。関係各位に心より御礼申し上げます。

 

※追記 

なお『女医 辛島 篤』の本の中で、辛島 篤女史が大分県女性で初めて医師になったと受け取られる主旨の記載がありますが、大分県出身および在住を含めて、誰が初の女医だったかどうかについては異なる見解があり、このホームページをご覧になった読者からのご指摘も頂きました。このため、当ホームページでは『大分県女性医師の先駆者』という表題に改めて、清原氏の著書の後半の章で紹介されている大分県女性医師の黎明期の女性医師らと共に辛島女史も先駆者の一人であったという表現を行いました。ご教示を頂きました方々に心から御礼申し上げます。) 

(ページ作成履歴)

平成27年(2015年)5月25日 初版完成。

平成28年(2017年)1月 2日    表題文について追記。

『女医 辛島 篤』の表紙カバー
『女医 辛島 篤』の表紙カバー

 

 

『女医 辛島篤 医学を志した初の大分県女性』

 

平成10年(1998)2月25日発行 

 

著者   清原 芳治 発行者 辛島 和夫

発行所 辛島胃腸科外科病院

〒870 大分市賀来1261番地 

☎ 097-549-3333

印刷 大分プリント社

〒870 大分市新川町2-5-4

☎ 097-532-3717

 

©1997 by yoshiharu.kiyohara

 

 

年 譜

系 図

はじめに

            辛島 和夫 先生
    辛島 和夫 先生

 

 私の祖母 辛島 篤(からしま あつし)は大分県内の草分けと聞かされていましたが、大分県の医療史や女性史にほとんど登場することなく、忘れられた存在になっていました。それは実際に女医として活躍した期間がわずか数年間と短かったことや、直系の子供達が大分県外に出たため医院を継承しなかったことなどいろんな理由が考えられます。私自身、祖母の生涯については詳しいことを聞く機会はほとんどありませんでした。しかし、時代に先駆けて女医の道を切り開い祖母の存在は、私達子孫の誇りであり、その短い生涯を何らかの形で記録に留めたい、と以前から考えながらいたずらに日時を重ねてきました。その間、祖母 篤の人柄や性格を知る伯母たちが相次いで他界し、いよいよ記録に残す必要性を痛感しました。

 

 幸い、このたび大分合同新聞文化センター編集委員 清原芳治 氏の綿密な取材と調査で、祖母 篤の足跡を掘り起こすことができました。改めて明治から大正時代にかけて、女性としての新しい生き方を追い求めた祖母 篤の実像を知ることができ、感慨深いものがあります。

 

 祖母 篤は16歳で結婚し、出産と育児の中で女医の道を目指しました。その道程は現在では想像できないほど苦難に満ちたものであったことでしょう。21世紀まで残すところ数年となり、女性の社会進出はめざましく、医学教育の分野でも3分の1が女性と聞いています。そうした女性の地位向上や男女平等に祖母 篤の生き方がいささかなりとも貢献しているのではないか、と思うしだいです。これまで歴史に埋没していた祖母篤の生涯をこのような形で後世に伝えることができ、神に感謝します。

   1997年12月   

 

     医療法人信愛会 辛島胃腸科外科医院 院長 辛島 和夫

 

著者あとがき

  清原 芳治 氏の近影
  清原 芳治 氏の近影

大分県の女医の先駆けに辛島 篤という女性がいたことはほとんど知られていない。40歳の若さでこの世を去ったことと、実際に開業して医師として活躍した期間がわずか6年と短かったため、歴史に埋没してしまったものと思われる。しかし、たとえ活躍した期間が短かったとしても、大分県人の女性として初めて医師開業試験に合格し、実際に医療活動に従事していたことは、大分県の女性史、あるいは医療史を語るときに忘れてはならない事実である。

 

 現代では医学生の約3分の1が女性だと言われるが、明治末から大正初めのころ、女性が医師になることは想像以上に困難な事であった。医学知識を学ぶこともさることながら、男尊女卑の社会的風潮の中で、偏見と闘いながら学ばねばならなかったわけで、むしろその方面での苦難の方が大きかったのではないか。辛島篤の場合、周囲に医師や歯科医師などが多かったことなど恵まれた環境にあった。とはいえ、既に結婚して子供をもうけた後での医師への挑戦であり、よほど強い意志と明晰な頭脳がなければ医術開業試験に合格することは難しかったと思われる。

 

 辛島 篤が医師を志した背景にはキリスト教との出会いが大きかったように思える。残念ながら、そのあたりについては十分な資料がなく、本人の内面を知る手掛かりが見つからないので今となっては推測する以外にない。

 

 本書をまとめるにあたって、辛島 篤の孫にあたる辛島 和夫、泉 御夫妻に一方ならぬご協力をいただいた。また、日本医史学会会員で東京・世田谷で開業しておられる医学博士 唐沢 信安氏に貴重なアドバイスとご教示をいただいた。合わせて御礼を申し上げます。また、後記の資料を参考にさせて頂いたことを付記します。

 

                    清原 芳治

(著者略歴)

1948年(昭和23)、大分県東国東郡安岐町生まれ。大阪外国語大学外国語学部卒業。1970年(昭和45)大分合同新聞社入社。別府支社、本社編集局報道部などの記者を経て、東京支社編集部長。現在(1998年当時)、大分合同新聞文化センター出版編集委員。主な著者は次の通り。「大分への視角」「永田町の大分群像」「はるかなるモンゴル」(全国図書館協議会推薦図書)「めぐる年かおる花」「菜園記ー七瀬川のほとりでー」「大分県歴史人物事典」(共著)「おおいた戦後50年」(共著)

 

(※参考文献は、本ページの最下段に掲示しています。ご参照下さい。)

 

  本文目次

 

1.   生い立ち 

2.   学者と医師の血筋を受け継ぐ

3.   母方の祖父は中津藩の漢学者 白石照山

4.   五人姉妹の三番目

5.   16歳で歯科医 辛島汎(ひろし)と結婚

6.   めばえ始めた女医への憧れ

7.   夫とともにキリスト教の洗礼を受ける

8.   漢方医が多かった明治30年代

9.   苦難に満ちた女医への道

10.東京医学校に入学

11.杵築出身の石川清忠を頼る?

12.修行年限4年、前期と後期に分かれる

13.東京医学校と日本医学校が合併

14.大分にもあった県立医学校

15.医術開業前期試験に合格

16.高度な知識を要する後期試験

17.念願の後期試験に合格

18.福岡医科大学(現 九州大学医学部)で研修

19.大分市塗師町で医院を開業

20.おおぜいの患者が詰めかける

21.不衛生だった大分の町

22.長男、二男ともに医師の道を歩む

23.夫 汎、県歯科医師会の会長になる

24.別府市に分院を開く

25.進歩的女性たちと交流する

26.病に倒れる

27.早すぎた死

28.医師になった二人の息子

29.それぞれの道を歩んだ娘たち

30.妹たちの人生

31.受け継がれる医師の資質

 

付・辛島篤と同時代の女医群像 ~大分県における女医の先駆けたち~

 

財前 イト   ・・・埼玉県に生まれ、夫の郷里 豊後高田市で開業

渡辺 優    ・・・県立病院産婦人科に勤務、後に大分市で開業

日野 俊子   ・・・101歳の長寿を全うする

佐藤 イクヨ・・・九州大学最初の女性医学博士

その他の女医たち

 

参考文献

 

本ページ作成に関する補遺

1.生い立ち

篤が生まれた安心院町佐田地区
篤が生まれた安心院町佐田地区


 辛島 篤(からしま あつし)が生まれた大分県宇佐郡安心院町は静かな盆地の町である。太古、この地は豊かな水を湛えた盆地であったと言われ、今もロマンに満ちた伝説に彩られている。作家の松本清張氏はその作品『陸行水行』の中で、邪馬台国があったところだ、との説を提唱しており、一柱謄宮(あしひとつあがりのみや)は卑弥呼(ひみこ)の墓ではないか、と推定している。また、古代文化を花開かせた宇佐神宮と深い関係のある土地でもあり、かつて湖底であったと思われる盆地を取り巻くように、周囲の台地には数多くの古代遺跡や史跡が点在している。

 

 辛島(旧姓 高木)篤が生まれたのは、この安心院町の佐田地区である。佐田地区は、昭和29年に合併して安心院町に編入されるまでは独立した村であった。その佐田村は江戸時代、14の小さな村に分かれていた。明治22年の町村制施行時に一つにまとまったのである。もちろん、それまでも佐田村という古い地名はあったのだが、それは佐田川と山蔵川が合流するあたりの小さな集落のみを指していた。つまり中心部にあった旧来の佐田村が他の13村を吸収したのである。この佐田村など4村が合併してできたのが今日の安心院町である。

 

 旧来から佐田村の中心部であった地区には、今も十数軒の民家が立ち並び、小さいながらも歴史の重みを感じさせる町並みを形作っている。その一角にはこの小さな集落に似つかわしくない、りっぱな寺が立っている。篤の生家 高木家の菩提寺、円照寺である。もともとこの地は豊前と豊後の境界で、戦国時代から両勢力がぶつかる正面に当たり、しばしば戦乱に巻き込まれた。この地が江戸時代の享保年間から島原藩の飛び地として歴史を刻み続けてきたことも、こうした地理的環境と無関係でない。そして、幕末から明治期にかけて、医者であると同時にわが国三大本草家の一人賀来飛霞(かく ひか)や幕末に島原藩の命で大砲を鋳造した賀来惟熊(かく これたけ)を初め多くの人材を輩出したことを見逃すことはできない。なぜなら、そうした歴史風土が大分県の女性として初めて医師を志した篤の人格形成に深く関わっていると思えるからだ。

 

 篤は明治17年(1884)11月12日、この佐田村の高木家に生まれた。生家がどのあたりにあったのか、今となっては定かではないが、佐田地区の郷土史家 大隈米陽氏の記憶では、円照寺の山門を出て左手に行った町並みの一角だという。今はすっかり様子を買えてしまったが、大隈氏の話では、生家はその後、人手に渡り、豆腐などを小店になっていたと言うことだった。

 

 高木家の墓地は町並みを見下ろす高台にあり、数年前、高速道路建設のため近くに移転されたが、今も地元の人によって管理されている。現在、佐田地区には高木姓を名乗る家は一軒もない。もともと高木家はこの佐田には少なく、篤の生まれた高木家も娘ばかり5人がみんな他家に嫁いでしまったからだ。

 

 『安心院町誌』によると、大正時代に佐田出身で京都で活躍した高木菊洲と言う人物が紹介されている。俳句の宗匠で、かなり名を成した人物のようだ。だが、果たしてこの人物が篤の生まれた高木家と何らかの関係があったのか不明である。

 

2.学者と医師の血筋を受け継ぐ

篤の祖父 高木惟仲が学んだ帆足万里(大分県日出町の日出城内の銅像)
篤の祖父 高木惟仲が学んだ帆足万里(大分県日出町の日出城内の銅像)

 篤の生まれた高木家は代々佐田村の庄屋の家柄で、祖父、父とも漢学者であり、医師でもあった。祖父以前のことは不明であるが、おそらく代々医術を以て生業としていたであろうと思われる。篤は女ばかりの五人姉妹の三番目に生まれた。上から長女 澄(すみ)、次女 文(ふみ)、そして三女 篤(あつし)、四女 壽(ひさし)、五女 嶺(たかね)である。但し、篤の戸籍上の名前はトクであり、次女の文も戸籍上はカタカナのフミである。ともに漢字を音読みしたのであろうか。しかし、このトクもフミと言う名前も実際には一度も使われた形跡はなく、篤あるいは文を使っている。こうした娘たちの名前の付け方からも漢学者の家柄が感じられる。

 

 篤本人に触れる前に、まず高木家について記述しておく必要がある。だが、高木家の歴史を物語る資料があるわけではない。わずかに代々庄屋だったと言う程度である。盛胤の父、つまり篤にとって祖父にあたる高木惟(夷)仲は、故あって同村の佐藤藤九郎の養子になり、17歳の時、義母知恵の姉婿矢野周山に経書を学んだ。さらに中津に出て中津藩文学山川東林の門に入り、3年間医学を学んだと伝えられる。さらに京師に学び、吉益東洞翁について古医法を身につけ、3年後帰郷して藤九郎と智恵の娘 磯を妻にし、佐田村の隣の木裳(きのむ)村(現 安心院町)で開業した。その傍ら、子弟の教育にもあたった。その後、佐田村の同族 佐田要右衛門の求めで佐田村に帰り開業したという。詩文集、医按書などの著作があったと言われるが、今は不明である。晩年、高木姓に服した。安政己未年(1855年)12月11日、48歳で死去した。

 

 また、『帆足万里先生門下小伝』(大塚富吉 著、日出町教育委員会刊)や『豊後の国 佐田郷土史』(大隈米陽 著)という本の中にも高木惟仲の名前が見える。後に詳しく述べるが、帆足万里は日出藩の家老を務めた人物で、儒学者であると同時に蘭学者であり、医者でもあった。藩内外の多くの人材を育てるとともに、自ら『窮理通(きゅうりつう)』や『東潜夫論』など多くの著作を著し、幕末期の国家の在り方に警鐘を鳴らした。

 

 篤の祖父 高木惟仲は幼いころ、この帆足万里に学んだ。そして、後に医を生業としたことがわかっている。字を覆道といい、米神山人と号したことが伝えられている。この米神山とは佐田地区の背後にそびえる標高475メートルの山である。ある時、惟仲を訪ねる人があってたまたま談笑し、傷寒論つまり漢方の金科玉条とされる伝染性および単純性熱病の治療法について議論すると、相手を説破、論駁し、辟易せしめたという。このため相手が怒って門前に汚物を投げて逃げたというエピソードがある。こんなことがたびたびで、夫人のヒサ(村の最初の店舗中津屋主人佐田泰重の姉。中津屋は以前郵便局がたっていたところにあり、現在は個人の宅地になっている)は、「少しばかり手加減しないと私まで迷惑します」とこぼしたと言う。性格的にかなり激しかったようだ。半面、ある晩忍び込んだ泥棒を捕らえて一時間ばかり論語の章句を引き合いに出してじゅんじゅんと諭し、握り飯を与えて放免したという逸話も伝わっている。生没年は不詳である。万里が惟仲に宛てた書簡十数通があるとされるが、『帆足万里書簡集』には取り上げられておらず、別府の佐田医院およびこの本の著者大塚氏自身が保管していることが記述されている。この佐田医院とは篤の次姉 文、長姉 澄の嫁ぎ先の佐田歯科医院のことだろう。

 

 一方、篤の父 盛胤については、安心院町教育委員長をしたこともある佐田地区の郷土史家 大隈米陽氏がまとめた『宇佐山郷先達伝』や『安心院町誌』に若干紹介されている。盛胤は嘉永2年(1849)7月17日に生まれたことになっている。実は父 惟仲には他に三男二女があったが、幼い時に相次いで死亡し、わずかに盛胤と双子の弟 衛の二人だけが残った。弟の衛は杵築の元田家に入った。盛胤は幼くして日出藩の大儒 米良東嶠(帆足万里の弟子で、帆門十哲の一人)の門に学び、塾頭にもなっている。これをみると相当優秀だったのだろう。その博識ぶりは郷党に匹敵する者少なし、と言われ、胆略があり、奇行逸聞が多かったとも伝えている。また、生来、富貴に屈しなかった、とその人となりを称えてもいる。

 

 盛胤は日出藩から帰郷後、父惟仲の後を継いで医者になったが、明治8年(1875)第8大区第2小区の戸長に就任している。この戸長とは明治期の過渡的な行政制度の一つで、今日で言えば市町村長である。

 

 明治5年(1872)、明治政府は中央集権化の国政事務を担当する地方行政単位として大小区制を設けた。これに基づき大分県内は8大区160小区に分けられた。当時、佐田など宇佐郡以北は小倉県に属していた。同じころ、小倉県は大区を設けず、県内を103の小区に分けた。だが、その翌年大区制を採用し、9大区に分けた。この内、宇佐郡は駅館川を境にして西側を第8大区、東側を第9大区とした。この内、第8大区は11小区からなっていた。盛胤は辛島祥平が大区長を務める第8大区の中の第2小区の戸長になったのである。第2小区とは横山組の17村である。17村といっても、当時の村は現在の大字程度であった。

 

 その後、明治9年(1874)に小倉県のうち宇佐郡と下毛郡(第6、7大区)が一時福岡県に編入された後に大分県に編入され、下毛郡が第9大区、宇佐郡が第16大区となった。この年、篤の父 盛胤は県民会の議員になっている。県民会とは県会つまり現在の県議会の前身で、その設置は小倉県時代の豊前地方における自由民権運動と深い関わりがある。 下毛、宇佐両郡は小倉県時代に「戸長民選制」と「戸長会議」を設けていた。そして、明治8年(1873)に宇佐郡の第8大区に民会が誕生したのである。この郡民会に戸長の盛胤も議員として名を連ねた。そして、明治9年に大分県に編入されるのだが、大分県はその直後にこの「戸長民選制」を改め、「戸長官選制」を指示してくる。これに反発した住民は反対闘争を展開。結果的に闘争は成功し、民選制は維持される。そして、県民会が発足し盛胤も名を連ねることになるのである。そして、県民会が発足し盛胤も名を連ねることになるのである。 

篤の母親 キク
篤の母親 キク

  高木盛胤についてはこんなエピソードが伝わっている。明治10年ころ、西南戦争のあおりで豊前一帯で農民一揆が起き、佐田村でも暴徒が商家や庄屋などを焼き討ちにして暴れまわった。この時、佐田一番の豪商と言われた山路屋も襲撃された。暴徒の首領3、4人が山路屋で一息入れるところを見かけた高木盛胤は、鉄砲を持ち出してこれを打ち殺そうとした。しかし、後難を恐れた山路屋の党首賀来氏がこれを引き止めたと言う。しかし、賀来氏は高木盛胤の太っ腹に慨嘆し、以後、一目置くようになったそうである。

 

 高木盛胤はこの騒動のあった明治10年(1877)に、中津の漢学者 白石照山の三女キクを娶っている。

 

3.母方の祖父は中津藩の漢学者 白石照山

母方の祖父 白石照山
母方の祖父 白石照山

 篤の母方の祖父に当たる白石照山は中津藩の儒者で、福沢諭吉をも教えた学者である。その人となりや学者としての業績については多くの資料が残されており、福沢旧邸前には門人らによって建てられた記念碑が今もある。白石照山は文化12年(1815)中津藩士久保田武右衛門の長男に生まれ、後に白石団右衛門の養子となって白石家を継いだ。幼名を牧太郎と言った。天保9年(1838)江戸に出て幕府儒官の古賀侗庵に従い、後に昌平黌(後の東京大学)に学び、頭角を現した。後に帰藩したが、安政元年(1854)中津藩で上士と下士の対立が表面化し、臼杵藩に去り約10年間を過ごす。その後、四日市の郷校に勤めた。照山と言う号はこの郷校のある寺山と言う地名に因んでつけたものである。明治3年(1870)藩の命で中津に戻り、儒官教授方となった。明治新政府によって新学制が施行されて後は、私塾晩香堂(ばんかどう)を開いた。幼いころこの白石照山に学んだことのある福沢諭吉は、有名な『福翁自伝』の中で照山に数年間、詩経や書経など漢学を学んだことや、照山が頼山陽や広瀬淡窓を軽蔑していたこと、筑前の亀井南冥を尊敬していたことなどを紹介している。諭吉がある時、「先生、少しは西洋の学問を研究されては・・・」と白石照山に言ったところ、照山は、「不投時好非違也、欲免終身葡萄行」と答えて応じなかったと言う話も伝わっている。中津でも有名な国学者であった白石照山の徳を慕って、多くの門人が教えを請いに訪れた。


 白石照山は門下生宮本兵衛門の妹を娶り、二男二女を設けた。すなわち長男 貞吉、二男 吉人、長女 ヤス、二女 シゲ、三女 キクである。このうち三女のキクが篤の母であり、二女シゲが、後に篤が結婚する辛島 汎(ひろし)の母親である。つまり、篤と汎は母親同士が姉妹の従兄弟結婚であった。ちなみに照山の他の子供たちの動向を記すと、まず、長男の貞吉は一時家塾を継いだが、大阪や東京に客遊し、長崎の対馬中学校の教師もしたことがあるという。二男 吉人は同じ中津藩の藩士岩井氏を継ぎ、後に北海道に渡ったが晩年は東京に住んだ。長女 ヤスは中山靖一郎と結婚した。

 高木家と白石家の結び付きはどこからできたのだろうか。白石照山は文久3年(1863)ごろ、四日市の郷校で教えていたことがあることは既に書いたが、一方の高木盛胤も四日市で、絹織物辛島織りの創始者で明治10年(1877)ころ第8大区区長だった辛島祥平の秘書係をしたり、第2小区の戸長をしていた。こうしたことから、両家の縁ができたことが推測できる。

4.五人姉妹の三番目

篤の生家があった安心院町佐田の町並み
篤の生家があった安心院町佐田の町並み

 

 高木盛胤の元に嫁いだキクは、明治11年(1878)6月24日に長女の澄を、次いで同14年(1881)9月7日に二女 文を生んだ。そして、白石照山が死亡した翌年の明治17年(1884)11月12日に三女の篤が生まれる。この後、明治22年(1889)2月13日に四女 壽を、そして同25年(1892)5月17日に五女 嶺を生むのである。

 

 この頃、一家は佐田村に住んでいた。五人の娘たちは父からの医師の血を、母から学者の血を受け継ぎ、天分豊かに恵まれた環境の中で育ったに違いない。おそらく、家庭でのしつけは厳格を極めたことだろう。反面、父の盛胤が自由民権運動の一翼を担ったことから推察すると進歩的な雰囲気もあったのかも知れない。

 

 高木家の五姉妹が生まれ育った明治10年代から20年代にかけて、大分県や佐田村はどのような社会状況にあったのだろうか。まず、関心が持たれるのは、後年、医学の道に進んだ篤がどのような教育を受けたかということである。

 

 近代教育の出発点である「学制」は明治5年(1872)に発布され、大分県内でも同7,8年ごろから小学校の整備が始まった。だが、当時は民家や社寺を利用したもので、独立の校舎を持つ学校は少なかった。就学率も低く、特に女子は低かった。学費が高かったことや既に子供も一人前の労働力と見られていたこと、教育に対する認識が低かったことなどが原因であった。

 

 こうした状況から抜け出して近代教育の基本が確立するのは、篤が生まれて2年後の明治19年(1886)に公布された「学校令」に基づいている。小学校を尋常小学校4年と高等小学校4年に分け、尋常小学校を義務化した。県内では連合村単位に小学校を1、2校ずつ建設することを決め、2年後には162校の尋常小学校を整備した。篤が小学校に通っていたと思われる明治20年代中ごろの県下の就学率は50%そこそこで、女子はそれよりはるかに低かった。教育熱心だったと思われる高木家の娘たちは、明治16年(1883)に初めて創設された佐田尋常小学校(教員室1、教室3)で学んだに違いない。同小学校は最初、民家の草葺きの土蔵を借りて発足し、後に佐田神社の境内に建てられた。篤が通っていたのはこのころである。独立の校舎ができたのは明治37年(1904)のことである。さらに、高等科ができるのは明治40年(1907年)である。ただし、家塾や郷校のようなものもあり、篤たちは尋常小学校を卒業したあとはそこで学んだと思われる。そうでなければ、後年、医学専門学校に進むだけの基礎学力を身につけることは困難だからだ。


 篤が順当に小学校に進んだとすれば、明治24年に入学し、同28年に尋常科を卒業したはずだ。明治20年代から30年代にかけて、山深い佐田村にも文明開化の波が押し寄せていた。

豊後三賢と称えられた帆足万里の墓。学力向上を祈って墓碑を削り取る者が後を絶たなかったという。(大分県日出町松屋寺境内先)
豊後三賢と称えられた帆足万里の墓。学力向上を祈って墓碑を削り取る者が後を絶たなかったという。(大分県日出町松屋寺境内先)

 ここで、前にも書いた帆足万里と佐田村の関係について書いておこう。帆足万里は日出藩の家老であると同時に学者であり、多くの人材を育てた教育者でもあった。篤の祖父 惟仲もその門人の一人であったことは、前に書いたが、実は同じ佐田村の賀来飛霞(かく ひか 本名 三郎)やその兄で島原藩の藩医になった賀来佐之(すけゆき 本名 佐一郎)、湯布院生まれの日野鼎斎(ひの ていさい)ら優秀な医師がこの帆足万里の門から多く輩出しているのだ。そしてこれらの人物と篤の父 盛胤とが交流があったことが十分推測できる。

 

 帆足万里はもともと儒家であったが、蘭学にも精通していた。親しかった佐田村の賀来太庵(たいあん、有軒)に長男の佐之(佐一郎)を医者に育てるように頼まれたのがきっかけで、蘭方(西洋医学)の勉強を始めたと言われる。やがて有軒は死亡するが、帆足万里は約束通りに遺児 佐之に医学を教授。後に幼い弟の飛霞(三郎)も帆足万里の門に学ぶことになった。やがて佐之は杵築で、次いで郷里の佐田で医家を開くが、その盛名が島原の藩主にまで届き、藩医として召し抱えられる。そして長崎でシーボルトに西洋医学を学ぶのだが、間もなく島原で客死する。佐田で留守を預かっていた飛霞も島原藩から呼び出される。飛霞はこれを断りきれずにいったんは島原に行くが、わずかな期間で辞して帰郷し、家業の傍ら以前から興味を持っていた本草学の研究に打ち込んだ。県内だけに止まらず、宮崎県延岡や京都、大阪など全国各地で珍しい植物や鉱物、動物などの採取に取り組んだのだ。現代で言う生物学や博物学である。

 

 明治9年、賀来飛霞は小倉第8大区(現在の宇佐市)の医務取締となったが、同11年、兄  佐之の知人 佐藤圭助の求めで東京に出て東京大学小石川植物園の植物取調掛になった。『植物雑記』『小石川植物園雑記私稿』などを発表するなど、東京で約10年間にわたって大きな業績を上げた賀来飛霞は、70歳になった明治21年(1888)郷里の佐田に帰る。そして悠悠自適の生活を送った後、同28年に死んだ。隠宅は円照寺のすぐ隣で、高木家とは筋向いであった。今は駐車場になっている。世代的には篤の父 盛胤より年上だが、家が近いし、仕事も同じ医者となれば行き来がないと考える方がおかしい。まだ幼い少女時代の篤も、おそらく自適の隠居生活を楽しむ年老いた賀来飛霞の姿を朝に夕に見かけたはずである。

 

5.16歳で歯科医 辛島 汎(ひろし)と結婚

      若き日の辛島 汎
      若き日の辛島 汎

  高木篤は明治33年(1900)、16歳で辛島 汎(ひろし)と結婚し、辛島姓となった。辛島汎は前にも書いたように、篤の伯母シゲの二男である。つまり、二人は従兄弟同士であった。辛島家は宇佐神宮の神官の一族で、宇佐郡辛島村(現 宇佐市)に代々居住していた。宇佐神宮創建以来の古い血筋を保ち続け、名族と言われていた辛島一党である。古来、幾多の優秀な人物を輩出しており、明治の初め宇佐郡の第八大区区長や県会議員、県農会初代会長などを務めた辛島祥平もこの辛島一族で代々辛島村の庄屋の家である。辛島汎の父 元秀は弘化3年(1848)に福岡県上毛郡挟間村の楠原無為庵の二男に生まれ、元治元年(1864)辛島元貞とヤヱの養子になった。おそらく元貞も、さらにそれ以前から代々医者の家柄であったろうと推測できる。

 

 元秀は篤の伯母である白石照山の二女シゲとの間に男3人女4人計7人の子供を設けた。男4人の内3人までが医者となり、残り1人も九州帝国大学(現 九州大学)で応用化学を学んで技術者になっている。

 

 まず、一番上が長女のヤスで明治4年(1871)12月4日に生まれている。後に永松元治に嫁いだ。次いで長男の格が明治8年(1875)12月11日に生まれた。この格は第五高等学校長崎医学部(現在の長崎大学医学部)に進み、卒業後は医師として大阪の回生病院に勤務し小児科を担当していた。そして、明治32年(1899)つまり汎と篤が結婚する前の年に郷里に戻り、生家の家業を継いだ。このころはまだ父の元秀は健在で、親子で医業を営んだ。だが、明治43年(1910)に元秀が65歳で没すると、その翌年、ドイツに留学した。おそらく、大阪の大病院に勤務したことのある格としては、このまま田舎の一開業医で終わりたくなかったのであろう。ドイツで医学博士の学位を取得した格は、大正二年(1913)に帰国し、かつて過ごしたことのある大阪の堂島北町18番地で、さらにその後、豊中市で小児科専門病院を開業する。最新の医学知識を身に着けた格の評判は市内一円に広がり、大いに盛業を続けたという。

 

 格の次が明治11年(1878)5月7日生まれの二男の汎である。そして、二女クワが生まれている。クワは後に築上郡挾間町の医師 田島学而に嫁いだ。明治16年6月16日生まれの弟 夙事(しゅくじ)は宇佐中学校から熊本高等工業学校機械工学科を出て、三菱の経営する筑前鯰田炭鉱の技師となったが、後に九州帝国大学応用化学科に進み技術者になって三菱化成黒崎工場に勤めた。このあと、明治19年8月6日に三女 勝子、同24年7月15日に四男 憲治が生まれている。憲治は宇佐中学校(現 宇佐高校)から熊本医学専門学校(現 熊本大学医学部)に進んで大正5年に卒業して医師になり、後に姉クワの嫁ぎ先である田島学而の養子になった。

 

 篤の夫になる汎は尋常高等小学校を卒業してから京都に行き、堀内歯科医院に住み込みながら歯科医の見習いをし、開業試験めざして勉強した。この堀内歯科医院と言うのは、明治の初めにアメリカの大学で歯科大学を学んで来た堀内徹と言う人物が帰国して後継者を育てるために開業した歯科医院で、全国から歯科医の見習いたちが集まってきていた。その数は常に数十人はいたという。まだ十代の汎もその中に交じって、雑用などをしながら、歯科医めざして研さんを積んだのだった。汎の同窓の歯科医は全国で活躍したようだ。

 

 明治31年(1898)12月、汎は念願の内務省実施の歯科医術開業試験に合格する。免許状には次のように書かれている。

 

  歯科医術開業免状   

  大分県平民 辛島 汎 

  京都府下京都において試験を完了す。

  因って明治16年第35号布告医師免許規則によりこの免状を授与す。 

  明治31年12月26日 内務大臣 従二位功二級侯爵 西郷従道

 

 汎の歯科医籍登録番号は451番であった。ちなみに我が国の歯科医の第1号は中津出身で福沢諭吉の弟子の小幡英之助である。汎は大分市では初めての歯科医であったが、すでに県内の中津市や杵築市には歯科医がいた。それは明治42年(1909)に大分県歯科医師会ができた時の名簿からわかる。歯科医籍登録番号が2ケタや百番台の人が数人いるからだ。やはり、小幡英之助の関係で中津からは多くの歯科医が出ている。

 

 歯科医術開業試験に合格した汎はその翌年、つまり、篤と結婚する前年の同32年(1899)に大分町(現 大分市)で開業した。大分町では最初の歯科医で、同35年(1902)に小野亀太郎(歯科医籍登録番号603号)という人物が開業するまではただ一人の歯科医であった。開業日時ははっきりしないが、同年2月25日に中津郡役所で開かれた九州歯科医師会に出席しているところをみると、おそらく1月か2月であろう。当時、九州全体で百人くらい、大分県には7、8人の歯科医がいた。

 

夫の汎が経営する辛島歯科医院(大分市室町=現 若草公園付近)
夫の汎が経営する辛島歯科医院(大分市室町=現 若草公園付近)

 汎が歯科医院を開いた場所は室町という所で、現在の若草公園の西側付近である。木造三階建ての大きな家を買い取り、一階を住居にし、二階を待ち合い室にしていた。診察室は三階にあった。玄関を出ると、すぐに階段があって、患者はこの階段を使って二階に上がっていた。一階には十部屋前後の部屋があって家族が住んだが、後には歯科医の見習いや住み込みのお手伝いさんたちの部屋もあった。汎と篤はこの大きな家で新婚生活を始めた。

 

 篤と辛島汎の結婚は親同士が決めたものであったと思われる。当時はそれが普通であり、現在のような本人同士の恋愛で結婚するということはほとんどなかった。だが、それにしても大分町で初めての歯科医に16歳の娘が嫁ぐというのは不釣り合いな感じがしないでもない。篤の二人の姉のうち、次姉の文は同じ佐田村の絶家 佐田家を再興するため、佐田家の養女となり、後に歯科医の長崎出身で汎と同じ堀内歯科医院で学んだ清三郎と嫁いでいるが、長姉の澄はまだ嫁いでいない。澄は明治41年に文が死んだ後、佐田家に後妻として入るのである。もともと、高木家と辛島家は結婚させることは少しもおかしくなかったし、どこでも一般的に行われていたのだ。16歳という年齢も現在の感覚からすれば若いが、当時としてはそれほど極端に早いというものではなかったのかもしれない。

 

 それはともかくとして篤は辛島汎と結婚した。その時期は戸籍の上では明治33年1900)7月9日である。汎23歳、篤16歳であった。辛島歯科医院はよくはやったようだ。なにしろ、大分市でただ一軒しかなかったのだ。3年後に小野という人が歯科医院を開業するが、それでもわずか2軒である。毎日、患者が押しかけるようにやって来たという。汎は毎日大忙しであった。住み込みのお手伝いさんを雇い入れていた。また、歯科医志望の若者たちが県下各地から見習いのため住み込んでいた。

大正7年の大分市街図。府内城下町の南西部に、竹町通りに交差する『室町』の地名が見える。後に、篤が開業した医院(小児科・産婦人科)は『塗師町』(城下町の北西部)にあった。右上の写真は明治40年頃、現在の大分駅前の場所にあった大分地方裁判所の屋根の上から撮影した大分町の風景。右遠方に府内城の西南隅櫓が見える。大分市街新地図および大分縣寫眞帖(所収)より。(クリックすると拡大します)
大正7年の大分市街図。府内城下町の南西部に、竹町通りに交差する『室町』の地名が見える。後に、篤が開業した医院(小児科・産婦人科)は『塗師町』(城下町の北西部)にあった。右上の写真は明治40年頃、現在の大分駅前の場所にあった大分地方裁判所の屋根の上から撮影した大分町の風景。右遠方に府内城の西南隅櫓が見える。大分市街新地図および大分縣寫眞帖(所収)より。(クリックすると拡大します)

6.めばえ始めた女医への憧れ

 篤は結婚の翌年、つまり明治34年(1901)6月13日、長男の鶴(こうかく)を生んだ。そして同36年3月20日に二男 醒備(せいび)を生む。この後も大正9年(1920)まで、1年か2年おきに子供を生み続ける。だが、二番目の醒備の後に三番目の緑が生まれるまで6年間のブランクがある。醒備を生んだのちにある決心をし、4年後22歳になったころ具体的な行動を起こした思われるのだ。それは、夫や夫の兄弟、そして自分の父たちがそうであったように、自分も医師になることであった。当時はまだ大分市内には医師が20人前後しかいないころである。ましてや女性の医者は大分県内を見渡しても皆無であった。そんな時代に篤はなぜ医者を志そうとしたのだろうか。すでに結婚して幼い2人の子供の子育てに追われる生活を送っていたはずなのに、である。

 

 篤が辛島汎と結婚した明治30年代、大分市や大分県はどんな状況にあったのだろうか。篤が結婚を機会に佐田村から大分市に移り住んだことは、おそらく篤の精神面にさまざまな強烈なインパクトを与えたものと思われる。それはカルチャーショックと言えるものであったかも知れない。そしてなによりも新進気鋭の歯科医である夫 汎からさまざまな形で影響を受けたに違いない。生まれつき利発で頭のいい篤はこうした周囲の環境の変化を新しい発見と新鮮な驚きをもって受け止め、そしてそれまで知らなかった未知の世界を積極的な知識欲で切り開いていったことだろう。

明治33年に開通した九州初の路面電車(絵葉書所収)。当時は竹町通り入口に大分駅終点があった。鉄道の大分駅は明治44年に完成。
明治33年に開通した九州初の路面電車(絵葉書所収)。当時は竹町通り入口に大分駅終点があった。鉄道の大分駅は明治44年に完成。


 明治30年代の大分市は県都としての機能が急ピッチで整備され、大きく発展しつつある時期であった。例えば、まだ、このころ鉄道は長洲(現在の柳ヶ浦)までしか来ていなかったが、県を挙げて大分まで敷設運動を進めていたし、2人が結婚した33年には大分市と別府市の間に全国で6番目の電車が開通している。人口も増え続け、民家が周辺部にも広がり西大分町や豊府村、荏隈村などとの合併話も起こりつつあった(40年に合併が実現)。また、この年には県下で初めて竹田町(現 竹田市)で、次いで37年に別府市で電灯が灯るなど近代化の波が押し寄せてもいた。

明治33年に開学した県立大分高等女学校。府内城の堀を挟んだ南側に作られた。(絵葉書所収)
明治33年に開学した県立大分高等女学校。府内城の堀を挟んだ南側に作られた。(絵葉書所収)

 

 一方、小学校令が改正され、初等教育の充実が図られていた時期で、小学校の就学率の向上が著しかった。また、明治33年には県内初の県立大分高等女学校が現在の県庁のある場所に開設されたし、私立の大分裁縫伝習所が発足、1年後には大分裁縫学校に名前を変えた。後の岩田女学校である。

 

 こうした女子を対象にした教育機関の出現は、結婚したとは言えまだ16歳そこそこの篤を強く刺激したに違いない。

 

 だが、当然の事ながら何よりも強い感化を受けたのは、一番身近な存在である夫の汎であったと思われる。汎が京都の堀内歯科医院で学んだ最維の歯科医術は、篤を驚かせるに十分であったはずだ。篤の父 盛胤も祖父 惟仲も医師ではあったが、それは漢方を中心としたものだったからだ。それに比べて、汎が学び、実際に治療を施している西洋の歯科医術は科学的であり、治療効果も目を見張るものがあった。言ってみれば夫の汎によって知らず知らずのうちに西洋医学への目を開かされたのである。

 

 また、汎の兄つまり義兄の格からも影響を受けたことだろう。前にも書いたように、格は第五高等学校長崎医学部つまり現在の長崎大学医学部を卒業して大阪の病院に勤務していたが、篤が汎と結婚した前年に宇佐の辛島村の生家に帰り医業を継いだ人物である。言って見れば、汎以上に高度な近代医学を身につけた人物である。しかも、後にドイツに留学して医学博士の学位を取得して帰国したほどだ。こうした人物が身内にいたことで、篤はしだいに医学への情熱を高め、自ら医師の道を目指すことになったと思われる。

 

 篤がいつごろ明確に医師を目指す決意を固めたのか、はっきりしない。明治40年(1907)に東京医学校に入学しているところを見ると、その1、2年前とみられることは前にも書いた。このころ、篤はすでに二児の母であったが、そうした時期にあえて医師の道を目指す決意を固めたことは実に驚きである。と同時に、それを認めた夫の汎の姿勢も立派だと言わねばならない。それどころか、篤の抜群の記憶力と何にでも関心を示す好奇心の強さ、当時の女性には珍しい自立心の強さに感心した汎は、篤をこのまま家庭に閉じ込めておくことに疑問を感じ、医師になることを勧めたフシもある。当時、女性が医師になることは極めて容易でない時代だが、頭のよい篤にはできないことではないと汎は考えたのではないか。篤自身にもそうした困難に立ち向かって自らの夢を実現しようとする生き方に新しい女性像を見いだしたのかもしれない。

 

7.夫とともにキリスト教の洗礼を受ける

8.漢方医が多かった明治30年代

明治30年代末~40年頃の府内城。着到櫓に気象を観測する大分測候所が設けられていた。大分縣写真帖 (所収)より。
明治30年代末~40年頃の府内城。着到櫓に気象を観測する大分測候所が設けられていた。大分縣写真帖 (所収)より。

 

 明治32年調査によると、この当時、全国には約4万人の医師がいた。だが、そのうち、従来からの漢方医学出身者が約2万3200人を占めていた。明治政府は、懸命に西洋医の養成に力を入れていたが、明治後半のこの時代になっても、庶民の健康をあずかる医師の主流は、数から言えばまだ江戸時代と同じレベルであった。また、内務省医術開業試験合格者が約9千200人おり、このほかでは東京帝国大学医学部出身者や高等学校医学部出身者、府県立医学校出身者、元医学校教諭などが、それぞれ2千人前後ずついた。因みに明治32年の私立熊本大学医学校卒業生は10人、34年が30人だった。

 

 これらの医師はほとんど全員が男性であった。文明開化の風潮の中で、欧米の列強に追いつこうと急速に近代化が進められたとはいえ、女性の社会進出は遅れており、地位も低かった。明治34年(1901)、つまり篤が結婚した翌年の時点までは全国でわずかに59人の女医が誕生したに過ぎなかった。もちろん、大分県内には皆無であった。女性にとって医師への門は固く閉ざされていたと言っても過言では無かった。そうした状況下で、偏見や女性蔑視など幾多の困難に立ち向かいながら、懸命に医師への道を切り開いた女性がいた。篤の女医への道をたどる前に、まず、そうした先駆的な女性の幾人かを見ておこう。

 

9.苦難に満ちた女医への道

 わが国で最初に西洋医学を身につけた女医は埼玉県出身の荻野吟子(おぎの ぎんこ)である。荻野は夫から性病をうつされた上に離縁され、男の医師に体を診察されるのが嫌いなあまり、自ら医師になって同じような境遇にある女性を救おうと決意する。師範学校を卒業したあと、私立の医学校に進む。そこで男子生徒の嫌がらせと軽蔑にさらされるが、耐え忍び、血の滲むような苦労の末、明治17年(1884)つまり篤が生まれた年に政府の医術開業試験に合格し、わが国第一号の女医となるのである。吟子の苦難は学力の上でのことというよりも、「女性は家庭にいるもの」「女性は子供を産むだけの存在」という旧態依然とした古い社会通念、道徳倫理観の打破にあった。だいいち、この時代に帝国大学や高等学校に女性が入学することは最初から想定されていなかったし、医術開業試験を女性が受験することは社会通念の枠外であった。だから「男子に限る」とか「女性の受験は認めない」という規定すらも不要だったのだ。このため、荻野吟子は医術開業試験を受験させてもらうこと自体に大きなエネルギーを割かなければならなかった。その苦難の歩みは渡辺淳一著「花埋み」(新潮社)に詳しい。このころ、全国の医師の数は約四万880人で、そのうち、開業医術試験を受けて合格した者は3千300人に過ぎず、従来からの漢方医が3万5300人を占めていた。


 荻野吟子に続いて明治19年(1886)に女医になったのが生沢くのである。次いで高橋瑞子が明治20年(1887)に第3番目の女医になった。高橋は明治17年(1884)12月に三日三晩頑張って、ようやく私立の医師養成学校済生舎に入学を認めてもらい、3年後に合格したと言う。当時、官立の帝国大学や高等学校は女性の入学を認めていなかったからだ。明治20年(1887)以降は、こうした苦労をしなくても女性も私立の医師養成学校に入学できるようになったが、それでも毎年一人か二人の女医しか誕生しなかった。そして、せっかく民間の医学校に入学しても、男性による嫌がらせなどに耐えきれずに退学していくケースが多かった。


吉岡弥生 大正14年東京女子医学専門学校卒業記念寫眞帖(所収)より
吉岡弥生 大正14年東京女子医学専門学校卒業記念寫眞帖(所収)より

 日本の女医を語る時に忘れてはならないのは東京女学校を設立した吉岡弥生の存在である。吉岡(旧姓 鷲山)弥生は明治4年(1871)静岡県下に生まれた。明治22年(1889)、19歳の時に上京して済生学舎に入学。同25年、医術開業試験に合格した。我が国で27番目の女医である。東京女医学校を創設する経緯は後述することにする。


 以上のように、明治10年代から20年代にかけて女性が医師になることは並み大抵のことではなかった。辛島篤が医師を目指す30年代から40年代にかけては、人々の意識や女性を受け入れる社会の仕組みは多少なりとも改善されてきたとは言え、本質的にはほとんど変わっていなかった。ましてや、辛島篤の場合、既に結婚していて幼い子供の母であり、大分という東京から遠く離れた後進の地に身を置いているという不利な境遇にあった。わずかに、夫の汎が歯科医であり、篤が医師を目指すことに理解を示し協力してくれることと、共にクリスチャンとして信仰に生きることへの共通理解があった。それは、篤にとって何よりも心強い味方であり、なくてはならない存在であった。


10.東京医学校に入学

 明治40年(1907)、篤は上京して東京医学校に入学する。家に6歳の長男 皋鶴(こうかく)と4歳の醒備の幼い子供を残しての旅立ちであった。明治40年といえば、まだ、鉄道は大分まで伸びてきていなかった。10年前に長洲駅(現在の柳ヶ浦駅)まで開通した日豊線の延長工事は、日露戦争の影響で遅れに遅れ、42年(1909)の暮れになってようやく宇佐駅まで開通。大分まで開通するのはさらに2年後の明治44年(1911)であった。この年、ようやく大分町に市制が敷かれ大分市が誕生した。


 おそらく、辛島篤は長洲駅まで馬車で行き、そこから汽車を乗り継いで東京に向かったことだろう。当時、大分から東京まで二昼夜を要する長い旅程であった。現在のように飛行機でわずか1時間半の気楽な旅ではなかった。


 家族を残して上京した篤は、東京本郷の千駄木町にある東京医学校に入学する。根津神社に近い閑静な場所にある同医学校は、2千200坪の敷地に木造2階建て(約350坪)の校舎が立っていた。4年前に東京女学校の校舎として新築された建物だが、事情があって開講に至らず、東京医学校が借り受けたのだった。正面の玄関を入ると左側に外来診療棟があり、そのほか、前期と後期の各教室、事務室、階段上になった解剖室などがあって、時折、死体解剖などが行われ、女生徒も解剖の指導を受けた。当時はこのあたりは中心部から離れた、交通の不便なところで、通学に時間がかかることから敬遠される傾向にあった。


 明治40年当時、女性の入学を認めていた医学校は篤の入った東京医学校のほか、日本医学校、東京女医学校の3校しかなかった。帝国大学や高等学校の医学部など官公立の医師養成機関は女性の入学を認めていなかった。東京医学校、日本医学校、東京女医学校の3校とも、明治8年に長谷川泰という人物が創立した済生学舎の流れを汲む学校である。東京医学校、日本医学校とも済生学舎が廃校になった後に、同校の教授陣が在校生救済のために設立したもので、後に合併して日本医学専門学校となる。そして、東京医学専門学校が分離したのち、昭和の初め日本医科大学になるのである。一方、東京女医学校は済生学舎を卒業した吉岡弥生が夫の吉岡荒太と女医養成を目的に、明治33年に設立したもので、今日の東京女子医科大学の前身である。

明治44年に東京女医学校から改称した東京女子医学専門学校での臨床実習風景。黒板には、Morbus Addion(アジソン病:原発性副腎皮質機能低下症)と書かれている。 大正14年東京女子医学専門学校卒業記念寫眞帖(所収)より
明治44年に東京女医学校から改称した東京女子医学専門学校での臨床実習風景。黒板には、Morbus Addion(アジソン病:原発性副腎皮質機能低下症)と書かれている。 大正14年東京女子医学専門学校卒業記念寫眞帖(所収)より

 

11.杵築出身の石川清忠を頼る?

12.修業年限4年、前期と後期に分かれる

明治44年に東京女医学校から改称した東京女子専門医学校の組織実習風景(大正14年度卒業記念写真集 所収)
明治44年に東京女医学校から改称した東京女子専門医学校の組織実習風景(大正14年度卒業記念写真集 所収)

13.東京医学校と日本医学校が合併

現在の大分県歯科医師会館にある、日本の歯科医第1号 小幡英之助の像
現在の大分県歯科医師会館にある、日本の歯科医第1号 小幡英之助の像

14.大分にもあった県立医学校

明治13年から8年間、大分県立医学校を併設していた大分県立病院。財政難により明治22年に廃院になるが、明治32年に再発足する。写真は明治44年に竣工した病院本館。現在の大分市高砂町OASISひろば21の位置にあった。戦前絵葉書(所収)より。
明治13年から8年間、大分県立医学校を併設していた大分県立病院。財政難により明治22年に廃院になるが、明治32年に再発足する。写真は明治44年に竣工した病院本館。現在の大分市高砂町OASISひろば21の位置にあった。戦前絵葉書(所収)より。

 

 明治政府は明治7年に医制を発布した時に、西洋医の不足を解消するため、全国の府県に医学校を設置するよう促した。これを受けて大分県も県立病院医学校の開設準備に取り掛かった。だが、ちょうどそのころ西南の役が起きて県庁はその対応に追われ、実際に開設されたのは明治13年のことであった。この県立病院医学校の初代院長は秋田出身の鳥潟恒吉であった。鳥潟氏は大分県の近代医療を語る時には忘れることのできない人物である。

 

 篤の関連で興味深いのは、明治7年(1874)ごろ宇佐の四日市に公立の病院が開設され、医学校も併設されていたということである。『大分の医療史』によると、この公立病院は町村で作った組合で設立され、篤と同じ佐田村出身の医師で本草家でもある賀来飛霞が院長に選ばれている。東京の小石川植物園に行く前のことである。その後、この病院は篤の夫 汎の郷里辛島村に移設され、同13年ごろまで続いたようだが、詳しいことはわかっていない。当時はまだ父親の元秀が健在なころで、地元の医師としてなんらかの形でこの公立病院に関与していたことも考えられる。もっとも、このころの公立病院と言っても、お寺の本堂を利用したりしたものであった。明治13年に県からこの病院に補助金が出された記録があるのだが、どの程度の規模だったのか、いつごろから廃止されたのか、など詳しいことはわかっていない。

 

 その後、明治17年施行の医師免許規則で、それまで府県ごとにばらばらだった医師免許を内務省が一元的に管理することになった。医師レベルの均一化と中央集権体制の確立のためだった。さらに、政府は財政難などを理由に明治20年、勅令で府県立医学校の費用は地方税で賄ってはならないようにした。このため、大分県を初め福岡、長崎、広島、石川など全国15の県立医学校が21年から廃止のやむなくに至り、財政に恵まれた京都、大阪、愛知の3県のみが存続することになった。大分県立病院医学校はわずか8年間続いただけで、巣立った医師も75人に過ぎない。明治政府はこの時に全国の高等学校に医学部を設けた。後に辛島篤の義兄 辛島格が通った第五高等学校長崎医学部はこの時に設けられたものだ。

 

 こうして地方における医師養成の道は帝国大学や高等学校に付設された医学部と私立医学校以外は閉ざされてしまった。大分県には高等学校医学部も私立の医学校もないため、県外に出て勉強する以外なくなったのだ。私立熊本医学校(後の公立熊本医学専門学校)や第五高等学校長崎医学部、さらには高等学校から帝国大学医学部に進む人が多かった。しかし、それは男性に限った話で、女性はこれらの学校に入学が認められていないため、篤のように東京の私立医学校で学ぶ以外に道はなかった。明治から大正にかけて医師になった女性はみんな私立の医学校で学んだ人たちばかりであった。一般に国立大学の医学部などに女性が進出するようになるのは、戦後もしばらくたった昭和30年代後半である。


15.医術開業前期試験に合格

『大分縣人名辞書』(大正6年刊)の辛島篤の紹介記事(写真は夫 汎)
『大分縣人名辞書』(大正6年刊)の辛島篤の紹介記事(写真は夫 汎)

 篤が医術開業前期試験に合格した正確な年月がいつなのか、残念ながらわかっていない。大正6年に発行された『大分県人名辞書』に、「21歳、決然志を立てて東京医学校に入り、蛍雪5年前期を通過し、、、」とあるところを見ると、明治44年か大正元年ごろだろうと思われる。そこで、そのころの官報を繰ってみたが、前期試験の合格者名簿の中に篤の名前は見出せなかった。なにしろ資料が古いし、官報の量が膨大なので、正直に言って見落とした可能性も否定できない。だが、辛島篤はその後、間違いなく医術開業後期試験に合格して医者になっているのだから、時期は別にして前期試験にも合格していることは間違いないのだ。

 

 一方、東京医学校と合併した日本医学校を果たして卒業したかどうかも確認できなかった。日本医学校はその後、財団法人日本医学専門学校に昇格して存続し、東京医学専門学校が別れた後、昭和の初め日本医科大学になった。そこで、日本医科大学と同大学同窓会事務局に調査を依頼したが、卒業生名簿の中に篤の名前は見付からないという答えだった。ただし、古い時代のことでもあり、合併や分離など幾多の変遷を経ていることもあって、名簿が完全に揃っているとは限らないという事情もあるようだ。結局のところ、卒業したかどうかは資料で確認できなかった。

 

 おそらく明治44年か大正元年ごろに医術開業試験前期試験に合格したと思われる。そして篤は、難関の後期試験に向けて走り始めたのだろう。といっても、明治44年の露子に続いて、翌大正元年にも三女 三代子を生んでいるところ見ると、勉強一筋とはいかなかったようだ。もともと頭のいい篤のことであり、短期間に集中して勉強することでかなりのレベルの知識を吸収できていたようだ。そうは言っても、難関の医術開業試験のこと、そう簡単に合格するというわけにはいかなかった。医師を志して既に5年。前期試験を通った以上、どんなことをしても後期試験に通って一人前の医師にならなければ、という思いがあったに違いない。

 

 篤にとって幸いだったのは、明治39年5月に医師法で決めた「8年後に医術開業試験を廃止する」という方針が、2年間延長されたことだった。当初の予定だと大正3年に医術開業試験が廃止されるはずだったが、この延長措置で同5年まで存続することになったのだ。そして、それまでに前期試験に合格している者は大正5年(1916)まで後期試験を受験できる特別措置が講じられたのである。この特別措置は篤にとってはありがたいものとなった。実際、篤は大正5年に後期試験に合格するのである。

 

 篤が医師になろうと最後の受験勉強をしていたころ、すでに28歳になっていた。当時の女性としては、何かを始めるには決して若い年齢ではなかった。しかも10歳を頭に6人もの子供の母親になっていたのである。しかし、篤はそんな世間的な常識に捕らわれる女性ではなかったようだ。おそらく自分の願望を実現するのに年齢は関係ないと思っていただろうし、新しい女性の生き方にひかれていたものと思われる。家族の犠牲になるとか、こどものためにしたいことを我慢するというタイプの女性ではなく、自分の生き方を通すタイプの女性だったようだ。それは生まれつきの性格とともに、クリスチャンである夫の当時としては開けた考え方や、常日ごろからアメリカ人宣教師夫妻と深い付き合いをし、西洋の近代的な思想、特に女性の自立や個人の確立などの考え方が身についたということもあるかもしれない。


16.高度な知識を要する後期試験

大正6,7年ごろの篤
大正6,7年ごろの篤

  篤は前期試験合格をバネにして、後期試験めざして前にもまして勉強に打ち込んだ。だが、さすがに後期試験の内容は専門的な知識を要する高度な内容だった。

 

 篤が東京で勉強を続けたのか、大分に帰っていたのかはっきりしたことは分からないが、後期試験には臨床試験があったので、東京で臨床実験(HP編集註:研修)をしたことは間違いないと思える。当時、日本医学校の生徒の多くは講師の縁故を頼って大学病院や三井慈善病院、山龍堂病院、順天堂病院、楽山堂病院などに内科や外科の患者を見せてもらいに行っており、おそらく篤もこれらの病院で臨床実験をおこなったものと考えてもよいのではないか。また医術開業試験に衛生細菌学が加わっていたので、他の学生仲間とともに神田小川町の顕微鏡院の講習を聴講したものと思われる。

 

 そんな勉強一筋の生活の中でも、おそらくクリスチャンとしての信仰は失わなかったものと見られる。日曜日には同じ宗派の教会に神賛美の礼拝に出かけ、聖日礼拝を守り、心の平安を得たのではないか。だが、残念なことに、篤が東京でどんな生活を送ったのかを知る手がかりは見つからない。

 

 こうして医術開業試験の後期試験の受験勉強のさ中でも、篤は子供を生みつづけている。大正3年5月15日に四女 朝子を、翌4年8月31日に五女 忠子を生んでいるのだ。これで子供は全部で8人になった。

 

 しかし、忠子が生まれて10日ほどたった9月9日、三女 三代子が急死した。家の中庭にあった池に落ちておぼれた、と言われる。家には大勢の大人がいたらしいが、おそらくちょっと目をはなしたすきに池に落ち込んだのだろう。まったく思いがけない不幸な出来事だった。まだ、3歳のかわいい盛りであった。幼いわが子を失った篤の悲しみは大きかったに違いない。

 

17.念願の後期試験に合格

大正6、7年ごろの家族写真(前列右より、辛島篤、姪の聖子、姉の澄、長女の緑、母 キク、妹の嶺?、後列右より、姪の皐月、夫の汎、佐田清三郎)
大正6、7年ごろの家族写真(前列右より、辛島篤、姪の聖子、姉の澄、長女の緑、母 キク、妹の嶺?、後列右より、姪の皐月、夫の汎、佐田清三郎)

 

 

 篤が医術開業後期試験に合格したのは、その翌年つまり大正5年の春のことであった。医術開業試験が廃止される直前に念願の合格を果たしたのであった。篤はこの年の5月9、10の2日間行われた後期試験に合格したのだった。受験したのは大阪会場だった。ドイツに留学して博士号を取得して帰国した夫の兄の格が、大阪で小児科を開業していたことから、何度も立ち寄らせてもらい、格からいろいろ教えてもらったりして都合がよかったのだろう。後年、篤の二男 醒備もこの格との手紙のやり取りをし、就職の際にも世話になったと言われる。

 

 試験会場は北区常安町の府立大阪医科大学であった。この大阪の試験場ではこの時、89人が30人ずつ3班に分かれて2日間ずつ受験している。辛島篤の受験番号は一番最後であった。また、大分県から他に木村繁男と安部益人という2人の人物が受験している。

 

 試験の結果は6月13日付けの第1159号の官報に発表された。合格者は60人であった。大分県の合格者は篤と木村繁男の2人であった。

 

 実は篤がいつごろ医術開業試験に合格したのか、最初は不明であった。というのは合格証書やその他の書類が戦災かなにかで焼失してしまって見つからないからだ。唯一の手がかりは大正6年に出版された「大分県人名辞書」の記載であった。同署には「昨春、優等をもって開業試験に及第す」と記載されている。そこで、これが事実であれば、大蔵省が発行している官報に合格者名簿が掲載されているはずだと考え、大分県立図書館で大正元年から6年までの膨大な量の官報を繰ったのである。

 

 その結果、大正5年6月13日付けの官報に合格者名簿を見つけたのである。辛島篤の名前は一番最後に「大分県平民 辛島篤」とまるで男の名前のように出ていた。また、辛島篤の医籍登録番号が39979号である、とわかったのは、日本医史学会会員で東京の世田谷で開業している唐沢信康氏からお送りいただいた大正14年(1925)発行の日本医籍録(医事時論社刊)に掲載されていたからである。唐沢氏は明治時代の医師養成制度、特に私立医学校済生学舎の研究に詳しく、多くの研究著書がある。また、杵築出身で同校の講師をつとめた石川清忠の経歴も調べておられた。明治から大正にかけての医師養成制度の変遷について貴重なご教示をいただいた。

 

 また、唐沢氏からお送りいただいた昭和18年8月14日発行の『医事公論』1616号に、多川澄という人が書いた「日本女医五十年史」という連載記事の中に東京医学校に籍を置いた女医の名前を34人列記しており、この中の最後から2番目に篤の名前が書かれている。篤の名前は確実に資料の中にあったのである。

大正9年頃の大分中学(現在の大分上野丘高校)。大分縣寫眞帖大正9年 所収
大正9年頃の大分中学(現在の大分上野丘高校)。大分縣寫眞帖大正9年 所収

 篤が医者になろうと志してから、試験に合格するまでちょうど10年の歳月が過ぎ去っていた。その間、8人の子供を生み、1人を失っていた。一番上の鶴(こうかく)は既に15歳になり、大分中学(現 大分上野丘高校)に通っていた。成績がよく、親の後をついで将来は医者になると言い出したところであった。篤本人も既に33歳になっていた。

 辛島篤の医師開業試験合格にだれよりも喜んだのは夫の汎であったろう。汎は大分市の歯科医師会長を務めるなど社会的にもその存在が知られ、知名士に数えられていた。自分の妻が女としては大分で初めて医師になったことが自慢でなにかにつけて誇らしげに語り、話題にしたことは十分考えられる。辛島篤の医術開業試験合格は事実、それだけの価値があり、人々の話題になった。

 

 念願の医術開業試験に合格して医師になった篤は、いつでも開業にできるようになった。自宅の一角を医院にして夫の汎の歯科医院と一緒に開業してもよかったのである。そうすれば、費用も少なくて済むし、子供たちの養育も見ることができる。場所も町の中心部で繁華街竹町に近く、便利がよかった。まだ大分市内には女性の医師は一人もおらず、篤が開業すれば、女性の患者がおおぜい詰めかけてくることは十分期待できた。

 

18.福岡医科大学(現 九大医学部)での研修

辛島篤が研修に通っていた福岡医科大学(後の九州大学医学部)附属病院(戦前絵葉書所収)
辛島篤が研修に通っていた福岡医科大学(後の九州大学医学部)附属病院(戦前絵葉書所収)

 

 だが、篤はその道を選ばなかった。篤が実際に大分市に医院を開業したのは、医術開業試験に合格してから3年後の大正8年のことである。大正6年に出版された『大分県人名辞書』にも医術開業試験に合格した、とは書いてあるが、開業している、とは書いていない。住所も夫の汎の歯科医院のある自宅になっている。

 

 あれほどまでに医者になろうと寝食を忘れ、愛する家族と離れてひたすら勉学に励んできたのに、なぜ、3年間も開業しなかったのか。普通考えられることは、幼い子供たちとの生活を重視して家庭で母親役に専念していたか、病気かなにかの事情で開業したくともできなかったか、である。だが、いろいろ調べてみたり、いろんな人に聞いてみたが、なにしろ大正時代の初めのことであり、篤を直接知る人もほとんどいなくいなっているため、はっきりした理由はわからなかった。

 

 ところが、前出の医史研究家 唐沢信安氏からお送りいただいた大正14年発行の日本医籍録(医事時論社発行)に次のような記載があるのを見つけた。つまり、別府市の項に「辛島飴子」という女医が紹介されているのだが、生年月日は大分市の項に出ている辛島篤とまったく同じ明治17年11月12日なのだ。そして梅園町に開業していることになっている。以下「試験及第後福岡医科大学小児科教室及ビ産婦人科二3カ年研究 大正9年大分市二開業後11年現地移転 趣味音楽宗教」とある。

 

 当時、別府に辛島姓の女医が他にいたという記録はないし、誕生日がまったく同じ女医がいたことも考えられない。しかも、篤が最初に大分市内に開業して後に別府に移転したことはこの資料を見る前からわかっていたことである。つまり、この「辛島飴子」というのは篤のことと思って間違いない。大分市の項に出てくる篤は医籍登録番号を書いているが、こちらの方は何も書いていない。ではなぜ、篤のことが大分市と別府市の2ヵ所に出て来たのだろうか。この医籍録をよく見ると、記載内容を詳しく書いている人物もあれば、ほんの少ししか書いていない人物もある。はなはだしい人物は名前だけの場合もある。つまり記載項目が一致せず、わかった範囲で書いている、という感じなのである。また、地名なども明らかに違っているところも目につく。かなり、間違いがあるのである。おそらく医師会あたりの資料や本人からの届け出を元にまとめたものだろうが、大正8、9年当時の資料を元に追加したり削除した時に二重になったのではなかろうか。これはあくまで推測である。

 

 ただ、篤が福岡医科大学に行ったという話はそれまでだれからも聞いていなかった。だが、ここにあるように、医術開業試験に通ってからさらに3年間、福岡医科大学で学んだことが事実であれば、大正8年まで開業しなかった理由がはっきりして、つじつまが合うのである。日本医籍録も記録間違いや記載不足はあったとしても、まったくでたらめの個人情報を掲載したとは思えない。篤が福岡医科大学に通ったことは事実と捕えていいのではないか。

 

福岡医科大学附属病院の産室(明治44年 福岡医科大学第四回卒業記念帖 所収)
福岡医科大学附属病院の産室(明治44年 福岡医科大学第四回卒業記念帖 所収)

 

  ではなぜ篤は福岡医科大学に通うことになったのか。福岡医科大学は福岡にあった。福岡といえば大分の隣県である。夫の弟 夙事(しゅくじ)が住んでいてなにかと便利がよかったのではないか。東京と大分を行き来していた篤にとってはなんということない近さである。夙事(しゅくじ)は熊本高等工業学校機械工学科を卒業して光美技の経営する鯰田炭坑の技師をしており、家は福岡市内にあった。こうしたことから、福岡医科大学には抵抗感はなかったに違いない。専門とする小児科と産婦人科について高度な医学知識を学ぼうと考えたのではないか。これらもあくまで推測である。 福岡医科大学は現在の九州大学の前身である。簡単に歴史を紹介すると、もともとこの福岡医科大学は県立福岡病院を母体として明治36年(1903)年に発足し、明治43年(1911)つまり篤が医術開業前期試験の勉強に励んでいたころ、京都帝国大学福岡医科大学になった。そして大正8年(1921)、九州帝国大学の発足とともにその医学部になったのである。篤が通ったころはまだ京都帝国大学に所属していたころで、おそらく、正規の学生としてでなく、助手や研修生のような形で産科と小児科の研修をしたのではないか。そして、九州帝国大学発足を機会にやめて大分に帰り、開業したと推測できる。


 篤が福岡医科大学に通っていたと思われる大正5年から8年の間に、五女 忠子が死んでいる。忠子は篤が医術開業後期試験の最後の追い込みをしていたころの大正4年8月に生まれた子供である。まだ、数えの3歳になったばかりの7年2月23日に死亡した。篤にとっては大正4年9月に三女 三代子を失ったのに続いて2人の子供を先立たせてしまったことになる。

福岡医科大学附属病院における産婦人科手術(明治44年 福岡医科大学第四回卒業記念帖 所収)
福岡医科大学附属病院における産婦人科手術(明治44年 福岡医科大学第四回卒業記念帖 所収)


19.大分市塗師町で医院を開業

大正14年発行の日本医籍録に辛島 篤の名前が見られる
大正14年発行の日本医籍録に辛島 篤の名前が見られる

 

 大正8年(1919)に福岡医科大学での研修を終えて大分に帰った篤は、大分市内の塗師(ぬし)町で小児科と産婦人科の専門医院を開業している。もちろん、その開業資金は夫の汎が全額負担したのだろう。夫の汎の歯科医院は開業以来流行っており、経済的にはゆとりがあった。塗師町というのは、現在の都町の一角で、現在の中央通りから三筋入った通りである。このあたりは江戸時代からほぼ碁盤目状に町が区切られていて、中央通りつまり昔の電車通りから一筋目が魚町と細工町、二筋目が茶屋町と白銀町、西小路町、そして三筋目が田町、塗師町、下柳町である。今はこのあたりすべてが都町と言われており、ネオンきらめく飲み屋街になってしまっているが、当時は落ち着いた商店や民家の立ち並ぶ街であった。


 この塗師町は室町の自宅兼歯科医院から歩いても5、6分しかかからず、篤は毎日、自宅から歩いて通った。


 大分市の発の女医が出現したことはすぐに評判になったと思われる。もともと、夫の汎は大分市の歯科医第一号であり、名士の一人に数えられる存在になっていたはずだ。その妻である篤が女医になるために勉強していることも知られているが、三年前に試験に合格したときは大評判になっていたはずだ。その篤がついに開業したわけで、話題にならないはずはない。同じ女医でも明治20年前後に開業した荻野吟子ら先覚者の場合は、世間の偏見やべっ視と戦いながらの医療活動だったが、篤の時代になると、そのような風潮はなくなり、むしろ物珍しさをもって迎えられるようなところがあった。


 辛島篤が開業した大正8年はちょうど医師法の一部改正が行われ、法廷医師会の設立が義務づけられた年で、医師会全員が加入しなければならなくなった。大分県は翌9年に医師会を設立、辛島篤も当然この新発足の大分県医師会に加入したのものと思われる。辛島篤の加入は話題をもって迎えられたことだろう。また、大分に初めての女医が誕生したことで、人々に時代の移り変わりを印象づけた面もあったことだろう。


 大分県医師会の初代会長は県立病院の2代目院長をした中山政男氏であった。中山氏は山口県出身で東京帝国大学卒業後、県立病院の副院長、院長をした人物である。この当時は別府で開業しており、任意設立の医会から法定設立の医師会に切り替わる際に設立委員長を務め、設立後はそのまま初代会長に選ばれたのだった。中山氏の下に帆足恒雄、佐藤官吉 両副会長がおり、さらに3人の常務理事を配していた。開院は680人で、1人当たり3円の年会費をとっていた。中山氏は大正15年までに7年間会長を務め、犬塚俊之氏にバトンタッチした。因みに中山氏は声楽家で日本学士院会員の中山悌一氏の父君である。


 辛島小児科産婦人科医院の詳しいようすはわかっていない。広告などから産室や病室を備えており、入院できるようになっていたようだ。もちろん、篤は求めに応じて往診に回った。当時はまだ産婆と呼んでいた助産婦の手を借りて出産する人が多く、篤のような専門医学を学んだ医師の管理下に出産することは珍しかった。だいいち、当時は医者と言えば男であり、男の医者に出産を診てもらうことに抵抗感があった。かと言って、女医に診てもらおうにも、辛島篤が開業するまで大分市には女医はいなかった。


20.おおぜいの患者が詰めかける

辛島小児科産婦人科医院の広告(大正8年10月5日付け大分新聞)
辛島小児科産婦人科医院の広告(大正8年10月5日付け大分新聞)

  大分で初めての女医ということで、辛島篤の医院は多くの患者が来るようになった。何よりも、同じ女性に診察してもらえるということで、妊婦にとっては安心感と気安さがあった。単なる出産だけなら、当時の言い方で言う産婆で済むが、専門的な治療や婦人病となると手に負えなくなる。こうした産婆からの紹介で治療に訪れる女性も多かった。また、それまで治療してもらいたくても、男性の医者に治療されることにしゅう恥心を感じ、我慢して症状を悪化させてしまった女性も気兼ねなく受診に訪れた。


 辛島篤はこのような女性のために、できるだけ自分の存在を知ってもらうように心掛けたのだろう。そのために、たびたび新聞に公告を載せたものと思える。そして、わざわざ『院主 女医辛島篤子』と自分が女であることがわかるように書き込んだ。当時、本来のカタカナの2字の名前の下に子をつけることはよくあったことだが、篤の場合は単に流行とかかっこうがいいかということよりも、女であることを知ってもらう必要に迫られたのではないかと思われる。というのは「篤」一字だけでは男と間違えられかねなかったからである。事実、新聞の広告で女医であることを知って、診察に訪れる女性も多かったに違いない。

 

 当時は難産で母親が死亡したり、産後の肥立ちが思わしくない女性が多かった。また、衛生状態や栄養状態が悪かったり、健康に対する意識が低かったことなどから、乳幼児の死亡率が高かった。そのことが我が国の平均寿命を大きく縮める結果を招いていた。平均寿命が大きく伸びて世界一の長寿国になったのは戦後も50年以降のことで、乳幼児の死亡が著しく減少したことが大きなプラス要因であった。

 

 戦前はまた、梅毒や淋病などのいわゆる花柳病がはやっていた時代である。新聞を見るとこの種の病院の広告が実に多い。一つには売春が公に認められ、遊郭などがはやっていたことが挙げられる。篤の医院はこの種の病気の治療を専門にしたわけではないが、女医ということでこの種の病気にかかった女性が数多く訪れた。

 

 当時はまだ現在のように保険制度が確立しておらず、診察代もその場ですぐに払うということはほとんどなく、盆暮れにまとめて払うという習慣だった。それでも医院の経営はどうにかこうにかしながら続けていくことができた。診察代が払えない人は米屋や野菜、炭などを持って来たりした。現在では考えられないのんびりした時代であった。

 

21.不衛生だった大分の町

大正2年に竣工した国立二十三銀行の建物(現在の大分銀行)と電車通りの彩色絵葉書(所収)
大正2年に竣工した国立二十三銀行の建物(現在の大分銀行)と電車通りの彩色絵葉書(所収)

 

大正9年ごろの大分市の中心街(電車通り)
大正9年ごろの大分市の中心街(電車通り)

 

篤が産婦人科と小児科の専門医院を開業した大正8、9年ごろの大分市の様子はどのようなものだったのか。昭和46年に発行された『大分県医師会史』に元県医師会長の加用信憲氏(故人)が大正6年に東京から県立病院内科部長に赴任して来た時の印象を、医師の立場から次のように書き記している。

 

 「あの時分の大分は実に辺境の未開地だった。水道もないし、ガスもないし電灯も暗く、誇るに足る唯一のものは大分ー別府間の電車だった。(中略)日常生活でなによりも困ったのは飲用水だった。戸々に井戸はあったがどれもこれも泥水で、四斗樽にシュロの毛や木炭や砂利を重ねてこしても黄褐色で澄みきらず、飲むどころか洗面にも入浴にも不快この上なかった。あのころ大分熱という地方病があったが、筆者は培養によりパラチフスだと知った。数年後に上水道が設けられてからすぐに消失したことから、飲用水によるものだったことがわかった」

 

 都会に暮し慣れた加用氏にとって、大分が後進地域に映ったのは無理がなかった。上下水道をはじめあらゆる生活設備が大きく遅れていたし、人々の衛生や健康についての知識や認識も低かった。加用氏の話に出てくる上水道の敷設は大正14年(1925)5月から始まり、昭和2年(1927)7月まで完成を待たなければならなかった。これは、大分市は水はけが悪くてじめじめした所が多く、伝染病が発生しやすいため、下水道の方を先に敷設したことなどで遅れたのである。

昭和初期に大分市に設置された上水道濾過池(昭和8年度大分市勢要覧 所収)
昭和初期に大分市に設置された上水道濾過池(昭和8年度大分市勢要覧 所収)

 

 加用氏が薄暗いと感じた電灯は明治42年(1909)に竹田、日田、別府に次いで4番目にともったのだが、都会に比べて暗かったのだろうか。ガスはないわけではなく、明治44年(1909)に別府で供給が始まったのだが、ごく限られた地域のみに、それも電灯の補助的な役割程度だった。

 

 一方、電話は電灯と同じく明治42年に開通したが、さほど増えず、大正9年(1920)7月現在、当時の大分市の加入台数は444台であることが『大分県案内』に出ている。ちなみに辛島篤の小児科産婦人科医院の電話番号は254番であることが新聞広告からわかる。

 

 加用氏が「誇るに足る唯一のもの」とした別府ー大分間の電車は、明治33年に開通した。この時は大分の堀川から別府の浜脇までの10.6キロだったが、その後、大分川は南新地、外堀、大分駅まで、別府側は桟橋、境川、亀川新川、亀川駅前までと順次延長された。堀川とは現在、第一勧業銀行(HP編集註:現在 みずほ銀行)大分支店のある付近で、当時、塗師町と呼ばれていた町内にあった辛島篤の医院から近かった。電車軌道はその南側から西に向かって伸び、現在のソフトパーク北側を通って勢家から春日の方に走っていた。その後、大正10年に九州沖縄八県連合共進会が新川海岸で開かれるのを機会に、それまでの堀川通から新川回りに軌道を変更したのだった。

 

 大分市内にまだ自動車は多くなく、人力車や乗合馬車、荷馬車、自転車などが幅をきかせていた。県下で最初に自動車に乗ったのは、馬上金山(山香町)の開発で巨富を築いた成清博愛氏で大正4年のことだとされている。それから5年後の大正9年には43台、同10年には95台、11年には96台という記録がある。どちらにしても、自動車はまだ庶民の足になるまでには至っていなかった。

 

 篤が大分市で小児科と産婦人科の専門医院を開業したのと前後して、長男の鶴(こうかく)は九州帝国大学医学部に入学して、親と同じ医師の道を歩み始めた。鶴は大分中学から松山高校を経て、九州帝国大学に進んだのだった。鶴は自分が医師になることをどのように考えていたのだろうか。両親だけでなく、祖父や親せきの多くが医師になっていたので、医師という職業に抵抗はなかったと思われる。幼いころから自分の道は医師以外にない、と自然に考えるようになっていたのではないか。鶴は母親である篤が医術開業試験めざして、一生懸命に勉強している姿を見て育ったはずである。そんな母親の生き方をどう思ったのか興味があるところだ。医師の道、しかも母親の篤が研究生として通った九州帝国大学医学部を選んだところを見ると、おそらく肯定的に受け止め、母親の勧めもあって同じ道を歩む決心をしたと考える方が妥当だろう。

 

22.長男、二男ともに医師の道を歩む

篤の母親のキク
篤の母親のキク

 次男の醒備は、西南学院高校を経て日本医科大学に進むことになる。日本医科大学は篤が学んだ東京医学校と合併した日本医学校が財団法人日本医学専門学校を経てできた大学である。この日本医科大学を選んだのはやはり篤の影響があったのだろうか。

 

 醒備の下には幼くして死亡した三女 三代子と五女 忠子以外に長女 緑、三男 秀胤、次女 露子、四女 朝子がいるが、いずれもまだ小学生か学齢期以前の幼い子供たちばかりである。母親として、また、医師として多忙な日々が続いていた。そんな中、大正9年5月15日、母親のキクが死亡した。64歳であった。前にも書いたようにキクは中津の儒学者 白石照山の三女に生まれ、高木盛胤に嫁いできたのだった。女ばかり5人の子供を生んだが、既に二女 文と四女 壽に先立たれていた。晩年は次女 文の後に後妻に入った長女 澄のいる別府の佐田家に身を寄せていた。澄の夫 清三郎は、現在、流川通りに面したマンション「センチュリー日名子」の裏側あたりで歯科医院を開業していた。文が生んだ皐月と聖子の2人の孫がおり、娘や孫に囲まれて平安な日々を送っていた。容体が悪くなってからは、篤が大分の家に引き取って看病していたのだが、もはやどうにもならなかった。息を引き取ったキクは、夜、清三郎が荷車で別府の家に連れて帰り、キリスト教による葬儀が営まれた。キクは篤や文ら娘たちの後に洗礼を受けてメソジスト派のキリスト教徒になっていたのだ。澄が登美子を生むのはキクが亡くなった翌年の大正10年3月30日の事である。

 

 キクが亡くなった時、篤は9人目の子供を身ごもっていた。そして、この年の11月4日、男の子を産んだ。敬治と名付けられたこの男の子は、不幸なことに手足に少しばかり麻痺があった。小児麻痺だったのである。当時はよく効く薬や効果的な治療法もなければ、機能訓練も行われておらず、なす術がなかった。篤は37歳になっていたが、手足の不自由な子がいとおしくてならなかったに違いない。また、それだけに行く末が気がかりだったことだろう。

 

23.夫 汎(ひろし)、県歯科医師会長になる

  一方、夫の汎は大正10年(1911)11月、新たに設立された法律に基づく大分県歯科医師会の初代会長に選ばれた。汎はすでに大分市の歯科医師会長をも務めていた。汎は開業以来、自分の歯科医院におおぜいの若い歯科医師の見習いを住み込ませて修業させ、さらに自分が学んだ京都の堀内歯科医院に紹介して開業試験を受けさせるなど、後進の育成に力を入れていた。こうして育った若い歯科医師たちが県下各地で活躍するようになっていた。こうした業界の発展に尽くした汎の業績と、敬けんなクリスチャンという誠実な生き方から人望が認められ、県歯科医師会の設立と同時に会長に選ばれたのだろう。

 

 県歯科医師会長としての汎は会員の親ぼくと共通の課題解決に向けて取り組んだという。任期は大正13年4月までだったが、その後、大正15年4月から昭和2年3月までの間も会長に選ばれている。


 大正11年12月16日、小児麻痺だった敬治がわずか3歳の幼い命を閉じた。篤はよくこの敬治の面倒をみていたようで、時には背中に背負って診察に当たっていたという。不幸なわが子に母親として可能な限りの愛情を注いだのだろうか。


24.別府市に分院を開く

大正7年の別府市街図(所収)。地図中央下の波止場に通じる流川通りから一筋北(右)の不老泉通りにある「梅園温泉」の付近が梅園町で、ここに別府の辛島小児科産婦人科医院があった。(クリックすると拡大します)
大正7年の別府市街図(所収)。地図中央下の波止場に通じる流川通りから一筋北(右)の不老泉通りにある「梅園温泉」の付近が梅園町で、ここに別府の辛島小児科産婦人科医院があった。(クリックすると拡大します)
別府市梅園町に開業した辛島小児科産婦人科医院と篤
別府市梅園町に開業した辛島小児科産婦人科医院と篤

 

 篤は大正11年、小児科産婦人科医院の分院を別府に開いた。一説には医院を別府に移したという話も伝わっている。どちらにしても別府市に医院を開いたことは間違いない。場所は梅園町である。梅園町というのは流川通りから一筋駅前通り側に入った付近で、弥生銀天街から西側一帯である。現在も梅園温泉という共同温泉がある。かつて別府のメインストリートであった流川通りから近く、商店街や住宅街のあったところである。辛島小児科産婦人科医院がどのあたりにあったのかは、今となってははっきりしない。


 ここで疑問に感じるのは、なぜ別府に医院を開くことになったのか、ということである。大分の塗師町に開業してまだ3年しかたっていないのに、なぜ、わざわざ別府に医院を開業したのだろうか。なんらの根拠がないままにあれこれ推測してみることにする。


 まず、大分の医院だけでは物足らず、さらに別府にも分院を設けて手広くやろうとしたことが考えられる。また、大分の医院がなんらかの事情、例えば土地や建物の所有者からの返却要請などで、立ち退かざるを得なくなり思い切って別府に移ったことや、別府には小児科産婦人科の医者が少なく、女医の篤が開業することで多くの女性を助けることができると判断した、メソジスト派キリスト教会関係者ら周囲からの働きかけ、などなど。事実、メソジスト派キリスト教会の別府講義所が明治45年6に不老町にできており、篤の姉が2人も嫁いだ佐田清三郎がその管理者になっている。もしかしたら、佐田自らこの講義所を設けたのかもわからない。いずれも根拠があるわけでなく、勝手な推測であることを断っておかねばならない。


 別府の辛島小児科産婦人科医院の建物を写した貴重な写真が見つかった。それぞれドイツ人と結婚している長男 鶴(こうかく)の娘 美奈登さんと茜さんがわざわざドイツから送って来たものである。それを見ると、平屋のなかなかシャレた建物で、さほど大きくない。関係者の話では大きな旅館を借りて医院にしたということだが、立て替えたのかもわからない。篤はこの小児科産婦人科医院に毎日、大分の自宅から一等車の汽車で通ってきては診察に当たっていたようだ。それは佐田歯科医院に嫁いでいた姉 文の次女 聖子が、大分高等女学校に毎朝通う時に、いつも別府駅ですれ違っていたことからもわかる。まだ、ほとんどの女性が和服を着ていた中で、篤はいつも洋装のしゃれた服装をしていて、いやでも目立つモダンな女性であった。おかげで聖子は友達からよく冷やかされた思い出があるそうだ。


 別府の辛島小児科産婦人科医院は大分の時以上に流行ったという。毎日、患者がおおぜい詰めかけ、待ち合い室に入りきれない患者が玄関先に列を作ったと伝えられている。詰めかける患者の診察に追われて、しばしば大分の自宅に帰る暇が取れなかったり、休日なしで診察に当たらなければならないこともあったようだ。また、往診にもよく出掛けた。さいわい、別府は市街地に狭く、住宅が固まっていたので、そう遠くまで出かけることはなかった。この当時、自動車がかなり走り回るようになっていたが、まだまだ、往診は人力車で行くことが多かった。


 辛島小児科産婦人科医院が流行ったのは、市街地の中心部にあったという地の利もあったのかもしれない。だが、それ以上に言えることは、別府は女性が多い町である、ということもあった。現在でも別府市は男性より女性の方が多いが、これは観光都市の性格から女性の働く職場が多く、またそれを必要としたからである。住民登録していない、いわゆる幽霊人口を考慮に入れるとこの傾向はさらに強まる。そうした女性の多くが同じ女性の医師という気安さから、篤のもとに診察に訪れたものと思われる。

大正14、5年ごろの別府市
大正14、5年ごろの別府市

  また、別府には大分市のように大きな病院が少なかったことも、辛島小児科産婦人科医院が流行った理由の一つに挙げられる。県庁所在地の大分市には県立病院や日赤病院などがあっただけでなく、これらの病院に勤務していた医師たちが独立して開業していたりして、医院の数も多かった。しかし、別府は明治末からの積極的な観光宣伝で観光客が増加し続け、それに伴って旅館や飲食業で生計を立てる人が増えているのもかかわらず、医療関係の方が遅れていた。わずかに、駅裏の田の湯に陸軍病院があった程度で、現在の国立別府病院(HP編集註:国立病院機構別府医療センター)は大正14年、九州大学生体防御医学研究所は昭和6年に温泉治療学研究所として開設されたものである。つまり、大正時代の別府は公的医療施設の整備が遅れていたのである。私立では県立病院の初代院長である鳥潟恒雄(とりがた つねお)が開いた鳥潟病院や2代院長の中山政男が開設した中山内科病院、バセドウ病の治療で知られる野口病院などがあったが、これらはいずれも内科など一般的な病院か特定疾患を対象としており、篤が専門とした小児科産婦人科は有していない。女性の多い町にも関わらず、小児科や産婦人科を専門とする医院が少なかったのだ。

別府のメインストリートだった流川通り。辛島小児科産婦人科医院(別府分院)は、この通りの一筋北の梅園町にあった。(戦前絵葉書所収)
別府のメインストリートだった流川通り。辛島小児科産婦人科医院(別府分院)は、この通りの一筋北の梅園町にあった。(戦前絵葉書所収)

 

 大正10年前後は、別府といっても現在の別府市中心部と浜脇地区を合わせた狭い範囲で、それ以外の石垣や鉄輪、亀川、堀田などの地区はまだ別々の町や村であった。別府自体も大正13年に市政を敷くまでは別府町であった。

 

 その別府は大正時代に大きく発展を続け、隣の大分市とは違った特色を持つ都市に成長しつつあった。それは観光に生きる町にとって宿命ともいえる遊興と退廃の雰囲気である。同時に開放的、文化的、都会的、進歩的な雰囲気をも漂わせる町であった。大阪との間に定期航路が開設され、関西の文化やファッションが直接別府に入ってるようになったことや、東の熱海と並ぶ有名な温泉都市としての知名度が全国に広まり、多くの文人墨客が訪れるようになったこと、朝鮮や中国など大陸で成功した一旗組が別府に別荘を持つようになったこと、さらには外交の豪華客船がたびたび入港し欧米の観光客が訪れるようになった、などによるものであった。また、当時の「大正ロマン」という時代背景も無視するわけにはいかない。

 

 別府を舞台をした大正ロマンを代表するできごとと言えば、「白蓮事件」が起きている。おそらく篤も胸をときめかせて、この新聞紙上を騒がせたできごとを見つめたであろうと思われる。

25.進歩的女性たちと交流する

洋装の辛島 篤
洋装の辛島 篤

  このころの篤は、進歩的とも言える女性たちと生き来していたようだ。その舞台となったのが、別府駅のすぐ裏にあった紅葉館という旅館であった。この紅葉館は大分市の堀川にあった古い料亭を移転したもので、当時、日名子旅館、米屋旅館とならぶ別府を代表する高級旅館だった。この紅葉館の経営者は篤の夫 汎と同じ宇佐郡辛島村出身の辛島虎次郎であった。

 

 この紅葉館の辛島家にキミという娘がいた。辛島キミは東京大学第一印度哲学科を卒業した進歩的な女性で、友人で後に作家となる野溝七生子らと女性の新しい生き方や、家と女性の関係などについて論議し合ったり、時事問題について意見を交わしていたと言われる。『別府今昔』(昭和38年、大分合同新聞社刊)には、この辛島キミが虚無僧姿で尺八を吹きながら町を流して歩いていたことを紹介している。さらに「紅葉館のキミと友人の野溝ナオという2人の女性は別府における新しい女性運動に大きな役割を残した」と書き残している。また、野溝七生子は同志社大学栄養専門部予科を卒業した後、この辛島キミに触発されて東洋大学専門学部文化学科(西洋哲学)に進んだことが『野溝七生子作品集』の年譜欄に出ている。

 

 このほか、豊竹露梢や渡辺露紅という名前の芸能人やジャーナリストらも加わった。この進歩的女性グループに篤も加わっていたらしい。2人とはだいぶ年が離れていたが、医者という新しい職業についている篤の生き方は若い2人と共鳴するところがあったかもしれない。また、クリスチャンとしての欧米人に近い考え方が、篤自身はまったく意識しなかったが、周囲には進歩的と映ったようだ。この女性グループは定期的に集まっては、新しい時代の女性の生き方や家庭と女性の役割、政治などについて論議し、意見を交換し合ったという。こうした新しい女の生き方を模索する女性たちが、有名な「白蓮事件」に無関心であったわけがなかった。おそらく、白蓮が取った行動をめぐってさまざまな意見を交わしたに違いない。大阪朝日新聞はこれについてアンケート調査をするなど、いかにも大正ロマン華やかな時期にふさわしい話題としてセンセーショナルに報道している。参考までに、女性の反応は必ずしも白蓮に好意的ではなかったようだ。

 

 このほか、大正12年6月には作家有島武郎が婦人公論の女性記者波多野秋子と心中した事件も人々の話題をさらい、進歩的女性たちの議論の対象となった。

 

 大正13年4月1日、別府町は市制を施行し、県下で2番目の市になった。別府駅前通りに大きな祝賀アーチが作られ、市民は新しい門出を祝った。毎日、大分から汽車で通っていた篤もこの祝賀アーチをくぐったことだろう。大分市とは一味違った、自由で都会的な雰囲気をかもしだしている別府市は、全国からおおぜいの人々が訪れるようになっており、知名度は大分市を上回っていたといっても言い過ぎではない。そんな別府市が新しい出発をすることになった。今後、ますます人口が増える。とくに女性の人口が増える。地元の人口だけでなく、よそから訪れる人達の健康も大事になってくる。篤はおそらく自分の小児科産婦人科医院をさらに大きくしたいと考えたことだろう。

 

26.病に倒れる

 だが、この年の秋ごろから篤は持病の胃潰瘍が悪化し、診察にも出られない状態になった。症状はよくなったり、悪くなったりで、知人の紹介で県立病院を初め各地の病院で診察してもらい、適切な治療を受けたのだが、胃の重苦しい痛さが募って一向に完治しなかった。それどころか、ますます食欲がなくなり、体力が衰えるのが目に見えてわかるほどだった。最初、自宅で静かに寝て過ごしていたのだが、入院した方がいいと言われ、病院に入院した。これを知ったおおぜいの人が篤の元に見舞いに訪れ、1日も早い回復を願う言葉を述べて帰っていったが、病状は相変わらずであった。


 病床に身を横たえた篤の脳裏にさまざまな思いが去来したに違いない。佐田村で過ごした幼いころのできごとや、懐かしい父や母の思い出、若くして死んだ文と壽の姉妹のこと、などなど。その一方で、医師になろうと東京に出てひたすら勉強に打ち込んだ日々。今になってみると、なぜ自分は医師になろうなどと考えたのだろうか、と不思議になることもあったことだろう。自分が医師になろうとしたために、子供たちに母親として十分尽くしてやれなかったことを悔んだかもしれない。とりわけ、2人の子供を幼いうちに死なせてしまい、手足が不自由だった小児麻痺の子供も3歳で死んでしまった。先に逝った子供たちのあどけない顔が脳裏に焼き付いて、片時として離れることはなかったのではないだろうか。


 すでに九州帝国大学在学中の長男 鶴(こうかく)は折を見ては見舞いに戻って来た。次男の醒備も日本医科大学に在学中だったが、時折、帰っては篤の前に姿を見せた。長女の緑や次女の露子、四女の朝子ら女の子たちは、朝に夕に母親の病室を見舞っては、学校の様子や友達のことなどを話した。三男の秀胤はまだ15歳であった。まだ、みんな、多感な年ごろで、母親の愛情が大切な時であった。


 年を越して大正14年になっても篤の病状はよくなる気配を見せなかった。篤がこんな様子だっただめ、辛島家の正月はなんとなく沈んでいたことだろう。夫の汎は県の歯科医師会長の任期が切れたとはいえ、知名士として付き合いが広く、おおぜいの年始客があったらしいが、気が重たかったことだろう。


 篤の症状は寒さが厳しさを増すに連れて悪化していった。時折、小康を得ることもあったが、もはや容易ならざる状態にあることが医師から夫の汎に告げられていた。春までもつかどうか、とまで言われ、汎は声も出なかったらしい。まさかそれほどに悪化しているとは。暗たんとした気分に包まれた。だが、幼い子供たちに知らせるわけにはいかなかった。長男の鶴(こうかく)と次男の醒備だけには手紙で知らせておいたそうだ。


27.早すぎた死

 篤が息を引き取ったのは、梅雨入りを間近に控えた5月30日のことであった。野山の緑が日毎に濃さを増し、さわやかな初夏の風が吹き抜ける季節であった。まだ満40歳であった。今より平均寿命の短い時代であったが、それにしても早すぎる死であった。

 

 篤はクリスチャンであったため、教会で葬儀が行われた。参列者の中にはキリスト教の葬儀にもかかわらず、仏教のやり方で合掌する人も多かったという。今、篤の墓は大分市の上野墓地公園内にあるキリスト教共同墓地に母のキクや姉妹、そして子供たちの墓と並んで立っている。

 

 思いもしなかった妻 篤の死に夫の汎は呆然となったことだろう。汎は篤が明治33年に嫁いできた時のことを思い出したに違いない。まだ、自分は22歳、篤も16歳の若さであった。大分でただ一人の歯科医としてやる気満々であった。篤も若く、ういういしかった。そして、共に暮らした25年間のできごとが次々に思い出されてならなかったはずだ。

 

 だが、汎は篤の思い出にいつまでもひたってはいられない状況にあった。まだ、小さい子供がいたからである。すでに長男の鶴(こうかく)は大学医学部に在学中で、次男の醒備も同じように医者への道を歩もうとしているので、この2人はもう母親を必要としなくなっていたが、まだ、その下には4人の子供がいた。長女 緑17歳、三男 秀胤16歳、次女 露子15歳、四女 朝子11歳と、まだ、母親の必要な年齢である。汎自身もまだ47歳。社会的に多忙であり、このまま独り身を通すというわけには行かなかった。

 

 汎のもとに再婚を勧める話がいくつか持ち込まれたようだ。汎の気持ちを動かしたのは、所属するメソジスト派キリスト教会の牧師が持ってきてくれた話だった。相手は広島の造り酒屋の娘で、ミッション系のランバス女学院神学部を出たチエという女性だった。汎とチエは教会関係者の祝福を受けて、神の御前で誓いあった。明治23年生まれのチエは、汎と結婚した時、35歳であった。

 

 チエは結婚した翌15年10月15日、男の子を生んだ。宣美である。そして、昭和4年次男 範生を生んだ。チエは夫の汎が昭和32年5月23日に亡くなった後も長寿を保ち、平成2年に百歳で亡くなった。

 

28.医師になった二人の息子

 篤が死んだ後、子供たちはそれぞれの道を歩み続けた。九州帝国大学医学部を卒業した長男の鶴(こうかく)は朝鮮に渡り、蔚山(ウルサン)で開業していたが、戦後、引き揚げて帰ってきてからは、小倉(現 北九州市)の白銀町で開業し、その隣で昭和10年に結婚した妻の晴子が薬局を開業した。なかなか豪放らい落な性格で信望が厚かったという。昭和34年4月16日に60歳で死亡した。鶴には美奈登、茜、大和、直視の4人の子供がいたが、このうち、大和は昭和14年にわずか3ヵ月で死亡した。直視は40数歳まで存命であったが、肝臓癌で亡くなった。このため、現在は美奈登と茜の2人の娘が健在である。美奈登は薬剤師、茜はハンブルグ大学日本人学校の事務長としてドイツで活躍している。

 

 日本医科大学を卒業して医者になった次男の醒備は篤が死んだ2年後、西国東郡香々地町の松原弥吉の養女マツヨの婿養子となり、松原姓になったが、離婚して辛島姓に戻り、昭和5年に臼杵の新名ヨシコと再婚した。体が少し弱いこともあって自分で開業することをせず、山口県柳井市の回生病院や岩国市柱島の山口県立柱島診療所、福島県浪江町の大井病院などの勤務医をし、戦後、大分に帰って国立大分病院の外科医長を務めた。昭和32年4月28日、54歳で大分市で亡くなった。9人の子供に恵まれ、幼くして死んだ三男 憲治と四女 珠子を除いて、それぞれ活躍している。昭和5年生まれの長男 敏郎はダイキンに勤務しインドネシアのジャカルタに出張し、退職した今も現地で暮らしている。次男 和夫は昭和7年8月26日に生まれた。父親の勤務の関係で山口県の岩国中学を卒業した後、戦後、大分第一高校(現 大分上野丘高校)に入学し、熊本大学医学部に進んだ。卒業してからは熊本大学第二外科入局の後、熊本中央病院や国立菊池病院などに勤務。その後、父醒備の勤めた国立大分病院の外科医長などをし、昭和51年に現在地の大分市賀来に辛島胃腸外科病院を開院した。

 

 また、四男 篤吉(昭和20年8月16日生まれ)は大分舞鶴高校から熊本大学医学部に進み、福岡県の大手町病院や大分健生病院に勤務した後、現在、三重町で三重診療所(HP編集註:現在のみえ記念病院)やニコニコ診療所、老人保健施設銘水苑などを設立して、高齢者や生活弱者のため、ニコニコ生活村構想の実現に精力的に取り組んでいる。

 

 そのほか、醒備の長女 高子、次女 栄子(薬剤師)、三女 輝子、五女 鶴子が健在で、それぞれ他家に嫁いだり、自活の道を歩んでいる。末娘の鶴子はアメリカ人と結婚してハワイで暮らしている。

 

29.それぞれの道を歩んだ娘たち

大分県立大分高等女学校の運動会(水神の演技)の風景(戦前絵葉書所収)
大分県立大分高等女学校の運動会(水神の演技)の風景(戦前絵葉書所収)

 

 汎と篤の長女の緑は、大分高等女学校から津田塾大学英文科に進んだ。生涯結婚せず、英文学の研究家として生き、英和辞典の編集などを手がけた。晩年は大分市に帰り、特別老人ホームで療養し、平成4年5月14日に和夫の医院で気を引き取った。

 

 三男の秀胤は母 篤が死亡したときはまだ15歳だった。このため、長兄の鶴(こうかく)を頼って朝鮮に渡り、病院の手伝いなどをしていたが、後に大阪で暮らすようになった。長崎県出身の金沢チヨと結婚し、四男四女に恵まれた。秀胤の長男 篤美は大阪外国語大学を卒業後、東京に出て国立劇場に勤務。新国立劇場の開設にも深く関わり、運営にもタッチしている。そのほか、美奈子、美昭、裕子、篤紀、百合子、紀美子の兄弟もそれぞれの分野で活躍している。秀胤は昭和47年11月、家族の見守る中、国立大分病院で召天した。

 

 次女 露子は横浜のフェリス女学院に進み、教会付属の幼稚園の先生になった。40歳を過ぎてから水知忠清と結婚した。晩年、郷里の大分に帰り、姉の緑より1年早く、平成3年2月17日に同じく和夫の病院で息を引き取った。

 

 四女 朝子は昭和9年6月、父  辛島汎の弟 夙事(しゅくじ)に子供がなかったため、養女に迎えられた。そして、大阪大学医学部の外科学教授 陣内伝之助の兄である陣内孝を婿養子にもらい家を継いだ。二男二女があり、長男 徳彦は東京大学工学部を出て民間会社に勤務していたが、急死した。次男 毅彦は幼くして死亡。和子、弘子、孝子、晴子の4人の女の子は音楽の才能に恵まれ、そろって桐朋音楽大学を卒業し、それぞれ他家に嫁いだ。

 

 以上が篤の子供たちと孫たちの動静である。一方、篤の死後に汎の妻になったチエが生んだ宣美は大分中学(現 大分上野丘高校)から福岡県立歯科医学専門学校(現 九州歯科大学)に進み、卒業後は大分市内で父親が創業した辛島歯科を継承している。光一、栄二、美紀、礼子の4人の子供があり、長男 光一は大分市明野でやはり歯科医院を、次男 栄二も大阪大学歯学部を卒業後、東京都内で歯科医として活躍している。美紀は自宅で暮らしており、礼子は内科医である。宣美の弟の範生は大分銀行に勤務していたがすでに退職している。範生には長男の宏と医者に嫁いでいる長女の由紀の2人の子供がいる。


30.妹たちの人生

 辛島篤の姉妹とその子供たちについても記録しておこう。次姉 文の亡き後、佐田清三郎の後妻になった長姉 澄は文が生んだ皐月と聖子を育て、大正10年3月30日、登美子を生んだ。既に皐月と聖子は12、3歳にもなっていて、登美子との年の開きは大きかった。澄は登美子が13歳の時真だ。皐月はやがて伯父にあたる辛島 汎の元で歯科医になる修業をしたことのある香々地町の松成満実に嫁ぎ、豊(とよ)、実子、たえ、よし子、満男、幸子の6人の子供を生んだ。現在、満男が香々地町で歯科医院を継いでいる。聖子は大正13年、東京に出て伯母つまり篤の末の妹 嶺の嫁ぎ先 百渓家に身を寄せた。そして嶺の夫 百渓禄郎太の世話で中津出身の山口康子郎と結婚した。山口康子郎は早稲田大学商学部を出て、ドイツの総合商社シーメンス日本代理店に勤務していた。2人の間には瑠理、稔秋、冬美、夏郎、恵美、大和の6人の子供がいる。聖子は長崎県佐世保市の稔秋の元に身を寄せて晩年を送っている。

 

 澄の実子 登美子は別府高等女学校(現 鶴見丘高校)から日本女子歯科医学専門学校に進み、卒業後は父親の清三郎が経営する別府の佐田歯科医院を手伝った。その後、香々地町の西馬五雄と結婚。一緒に父親の佐田歯科医院を手伝っていたが、昭和30年に清三郎が死亡して5年後に東京に移り住んだ。二三夫とけい子の2人の子供がおり、二三夫は都内練馬区で歯科医院を経営、けい子はお茶の水女子大学を出て、女子高校の教師になっている。

 

 篤の末の妹 嶺は杵築出身の百渓禄郎太と結婚した。百渓はシーメンス社日本代理店を創設した人物と言われる。龍太、ゆり、まり、三郎、英、恵美子の6人の子供を設けた。

 

31.受け継がれる医師の資質

 以上が篤の姉妹や子供、孫たちの消息である。これをみてもわかるように、子供や孫の多くがやはり医師や歯科医、学者になっている。高木惟仲や白石照山から受け継いだ学者や医師の資質は、篤を経て、それぞれの子供たちや孫に脈々と伝わっているのである。ここでは省略したが、ひ孫の中にもやはり医師になっている者が多い。


 もう一つ言えることは、篤の夫 汎が若き歯科医学徒の時に京都で出会ったキリスト教は篤やその兄弟の心をも捕らえ、子供や孫の多くがクリスチャンになっていることだ。篤にとってキリスト教との出会いが、医師になる決心をするに至る大きな部分であろうことを思う時、明治から大正という近代化の流れの中で新しい生き方を貫こうとした一人の女の気丈夫さを感じる。



付・辛島 篤と同時代の女医群像 

    -大分県における女医の先駆けたちー


 辛島篤は大分県の女性としては最初の医師であったが、大正期には幾人かの大分県出身の女性が医師になっている。明治末から大正にかけては、まだ、男尊女卑の風潮が色濃く残り、女性の社会的地位は低く抑えられ、社会進出も遅れていた。そうした中で、高度な専門知識を要する医師になることは並大抵のことではなかった。彼女たちがひたすら医師になるべく傾けた情熱は、本人たちが意識していたかどうかは別にして、必然的に女性運動の一面を持っていた。明治末から大正にかけて医師になった幾人かの女性たちを、辛島篤と関連させながら紹介しよう。


1)財前 イト 

ー埼玉県で生まれ、夫の郷里豊後高田市で開業ー

 財前イトは明治17年7月、つまり辛島篤と同じ年に埼玉県荒川村(現 秩父市)の三上家に生まれた。同じ埼玉県からはわが国の女医第1号である荻野吟子が出ており、ちょうど二人が生まれた明治17年は、荻野がそれまで固く閉ざされていた女性の医術開業試験受験という扉をこじ開けて、初めて医師になった年である。


 三上家は代々医家で、兄が後を継いでいたが病弱なため、その手助けをしようと自ら医師になることを志した。地元の高等女学校をでた三上イトは、やがて東京の日本医学校に入学した。本文でも述べたが、この当時は官立の高等学校や帝国大学はまだ女性に門戸を開いていなかったので、医師になろうと思えばこうした私立の医学校に行くしかなかったのだ。


 日本医学校は辛島篤が通った東京医学校と同じように済生学舎の流れを汲む医学校である。三上イトが何年にこの日本医学校に入学したか定かでないが、卒業したのは明治44年か45年と思われる。というのは明治45年4月26日に行われた医術開業後期試験に合格している(医籍登録番号30139号)からである。ただ、東京医学校と日本医学校は明治42年に合併して日本医学校に一本化されたので、仮に日本医学校が出身校名ということであれば、三上イトが入学したのは東京医学校ということもありうる。いずれにしても二人は明治42年以降は同じ日本医学校に通っていたわけだから知り合い同士だったことは十分考えられる。


 三上イトは在学中に知り合った田染村(現 豊後高田市)出身の財前克己と結婚し、財前姓になる。そして大正3年、夫の郷里で医院を開業する。二人は後に東、西都甲村に分院を設けて地域医療に大きく貢献するが、やがて夫の克己は政治の方に進出し、県会議員や西国東郡会議員、県医師会理事、田染村長などを務めたため、医療活動はイトが中心になって行うようになった。


 財前イトは村人たちによく溶け込み、遠くまで往診に出かけたり、深夜でも厭わず診察を受け付けたりして医師としての信頼と尊敬を集めた。3人の娘のうち長女の規矩子と二女の文女は東京女子医学専門学校に進んで医師になった。規矩子は医師の夫と結婚して現在佐賀県下で病院を開業。文女はイトと一緒に財前医院を継いだが、後に佐賀県に移り住んだ。三女 勅子は高校の教師になり、別府市内に在住。


 財前イトは80歳を越すまで医師として元気に活躍し、昭和57年8月20日、98歳の天寿を全うした。長年の地域医療への貢献が認められ、勲五等宝冠章が贈られた。かつて財前医院があった近くに二人の顕彰碑が建てられている。


2)渡辺 優 

ー県立病院産婦人科に勤務、後に大分市で開業ー

明治43年に県立大分高等女学校で行われた創立10周年の記念式典の絵葉書(所収)
明治43年に県立大分高等女学校で行われた創立10周年の記念式典の絵葉書(所収)

  

 渡辺優(子)は明治28年7月29日、大野郡上緒方村(現 緒方町)冬原に生まれた。生家は農家だが祖父が医師だったというから、やはり、医師に縁のある家だったようだ。地元の尋常小学校から明治43年に県内唯一の女学校である大分市内の大分高等女学校に進み、大正3年に卒業した。同時に東京女子医学専門学校に入学して医師への道を歩み始めた。このころは辛島篤はすでに医術開業前期試験に合格して、難関の後期試験に必死に取り組んでいるころである。

 

 東京女子医学専門学校は済生学舎を卒業した吉岡弥生が、夫と共に明治33年に設立した女子専門の東京女医学校が明治45年に専門学校に昇格したもので、現在の東京女子医科大学の前身である。

 

 渡辺はこの東京女子医学専門学校を大正9年つまり辛島篤が大分市内で開業した翌年に卒業し、慶応大学付属病院に勤める。そして翌10年に医術開業試験に合格(医籍登録番号46937)した。慶応大学付属病院では産婆・看護師養成所の講師も務めたようだ。この慶応大学付属病院には大正14年3月までいて、大分市内の県立病院に移る。担当は小児科と耳鼻咽喉科だった。このころ、別府市内に居住していて、自宅でも診察していたのか、大正14年発行の大分県医師会写真帖には別府市不老町の住所になっている。この年は辛島篤が死んだ年で、生きていれば同じ小児科医師として何等かの接点ができたことだろう。

明治44年に竣工した大分県立病院本館。後に、昭和20年7月の空襲で焼失する。(戦前絵葉書所収)
明治44年に竣工した大分県立病院本館。後に、昭和20年7月の空襲で焼失する。(戦前絵葉書所収)

  

 大分県立病院を昭和5年に退職した渡辺は満州に渡る。この間のいきさつはわからないが、軍医の夫(婿養子)と結婚したことと関係があったかもしれない。満州では最初に関東州大連市信濃町で開業したが、やがて満州石油ソーダ株式会社合同診療所長になった。そして昭和13年から3年間、奉天医科大学の研修生として専門の耳鼻咽喉科の研修を行った。この後、終戦まで大連市甘井子診療所長を務めた。

 

 戦後の22年に引き揚げた渡辺は坂ノ市町(現 大分市)細で開業したが、4年後に中嶋に移転して小児科医院を開業した。以後、昭和62年に病気で引退するまで、約40年にわたって診療を続けた。この間、40年に大分市から表彰されている。平成元年6月21日に死亡。

 

 一人娘が医師になり、同じく医師の夫と結婚し、郷里の宮崎県日向市で共に黒木医院を開業している。

 

3)日野 俊子

ー101歳の長寿を全うするー

日野俊子が生まれた戦前の由布院の風景。由布山からの撮影と思われる。(戦前絵葉書所収)
日野俊子が生まれた戦前の由布院の風景。由布山からの撮影と思われる。(戦前絵葉書所収)

 

 日野俊子は明治29年1月18日、速見郡由布院村(現 湯布院町)に生まれた。生家は古い医家で、江戸時代にシーボルトに学んで京都に種痘館を開設した名医 日野鼎斎の一門だと言われる。本来、兄が継ぐはずだったが、病弱だったことから、俊子が医師の道を歩むことになった。

県立大分高等女学校の南側から見た風景。中央遠方に高崎山が見える。(戦前絵葉書所収)
県立大分高等女学校の南側から見た風景。中央遠方に高崎山が見える。(戦前絵葉書所収)

 明治44年大分高等女学校に進み、大正4年に卒業する。そして2年後に上京し一橋女子職業学校に入学する。このあたりまではまだ自分が医師になると言う考えはなかったようだ。ところが、このころ兄 要が病気になり、医師として家を継ぐのは困難になった。このため、自ら医師になって家を継ぐ決心をする。

 

 大正7年、東京女子医学専門学校に入学し同10年に卒業すると同時に医師免許を取得。その翌年、東京浜田医院に勤務する。だが、1年後に関東大震災に遭遇、かろうじて一命を取り止め、未曽有の混乱の中で被災者の手当てに奔走した。

 

 だが、兄の病状が思わしくなくなったため、大正13年に郷里由布院町に帰省し医家を継いだ。当時、女医は珍しく、世間の人達も最初は一人前の医者として見てくれなかったが、日野の高い技術と女性らしいこまやかな応接態度でしだいに、土地の人たちの信頼を高めていった。

 

 日野俊子は長年、地域住民の健康を預かり、昭和49年には国際女医学会賞を受賞、さらに県知事賞、湯布院町名誉町民、読売医療功労賞、日本女医会賞などに輝いている。平成9年、101歳で死亡。日野病院は湯布院町を代表する大規模な医療施設に発展、現在は長男 副之助氏が後を継いでいる。

 

4)佐藤 イクヨ

ー九州大学最初の女性医学博士ー

佐藤イクヨが在学していた頃の東京女子医学専門学校全景(大正14年度卒業記念写真集 所収) 
佐藤イクヨが在学していた頃の東京女子医学専門学校全景(大正14年度卒業記念写真集 所収) 

  佐藤イクヨは東京女子医大の教授、名誉教授を務め、女性としてはわが国で10番目に博士号を取得した女医である。専門は耳鼻咽喉科で多くの後進を育成し、わが国の女医育成に貢献した。県内にも佐藤の指導を受けた女医は多い。


 佐藤は明治29年4月24日に中真玉村浜(現 真玉町)に生まれた。父 直造、母 カズエの次女で、10人兄弟の末っ子である。生家は醸造業を営むとともに大地主であった。直造は私財を投じて新田の開発に心血を注ぎ、広大は田畑を所有する一方、ハゼの品質改良などにも力を入れるなど地域の殖産に貢献し、中真玉村長や西国東郡会議員などをも務めるなど名士だった。


 地元の尋常小学校を卒業した佐藤イクヨは大分県内唯一の大分高等女学校に進み、大正2年に卒業した。この年、佐藤家では7番目の兄がアメリカで死亡、さらに父 直造や長男も相前後して死亡するなど不幸続きだった。このため、佐藤イクヨは上級学校にも進まず、就職や他家に嫁ぐこともしないまま、ひたすら生家で好きな勉学に励んだ。そんな生活を10年ばかり続けた後、26歳になった大正11年、東京女子医学専門学校に入学する。なぜ医学を志したのか、今となっては不明だが、父や兄たちの相次ぐ死亡が何らかの形で関係しているのかもしれない。

佐藤イクヨが在学していた頃の東京女子医学専門学校の講義(クレンペル内科診断学)風景(大正14年度卒業記念写真集 所収) 
佐藤イクヨが在学していた頃の東京女子医学専門学校の講義(クレンペル内科診断学)風景(大正14年度卒業記念写真集 所収) 

 

 東京女子医学専門学校に進んだ佐藤イクヨは、昭和2年に卒業すると同時に母校の耳鼻咽喉科教室に在室する。主にジフテリアの免疫研究などに取り組み、昭和7年4月、同大学の助教授になった。この年の9月、吉岡弥生校長の指示で九州帝国大学の久保猪之吉教授の下に内地留学し、専攻生として2年5ヵ月を過ごした。この間、ムコーズ菌を使って猫の前頭洞炎や同洞炎性脳膜炎の実験的研究を行った。翌10年6月、研究論文が認められて九州帝国大学で学位を取得した。女性としては同大学第一号、全国でも10番目だった。

 

 母校の東京女子医学専門学校にもどった佐藤イクヨは本格的にジフテリア免疫の研究を進め、研究成果を論文や著書の形で現した。昭和17年、教授に昇任し、20年3月には主任教授になった。

 

 戦後、同専門学校が大学になった後も教授を続け、31年6月には同大学至誠会第二病院院長を兼務。同34年までの在任中に、それまで結核治療中心だった同病院に精神科や産婦人科を開設するなど内容の充実に努めた。

 

 大学に復帰した佐藤イクヨは耳鼻科の講義と臨床を担当。さらに付属図書館の副館長になり、次いで昭和40年5月には館長に就任。この年の11月、第36回日本医学図書館協会総会を同大学で開いたり、翌41年10月には新校舎内に新しい図書館を開設、秩父宮殿下を迎えて記念式典を挙行した。

 

 昭和42年3月、定年退職。4月には名誉教授、女子医学会名誉会員となった。またこの年の11月、私学振興の業績が認められ、勲四等宝冠章が贈られた。定年退職後も昭和55年まで女子医学会雑誌編集人として「女医界」の編集などに携わった。

 

  <参考文献> 東京女子医科大学耳鼻咽喉科学教室同門会誌「菊友三号」

 

5)その他の女医たち

  大正14年発行の『日本医籍録」には坂井ミサキと古賀ハルカという2人の女医の名前が掲載されている。坂井ミサキは五和村つまり現在の日田市にいたようだ。明治21年4月29日生まれで、辛島篤と同じ大正5年に医術開業試験に合格している。医籍登録番号は39942号で辛島篤より37号早い。古賀ハルカも五和村で、明治32年4月18日に生まれている。医術開業試験に合格したのは大正11年に女子医学専門学校卒業となっているが、医籍登録番号は掲載されていない。この2人の女医がもともと五和村出身なのか、それともよそから結婚やその他で移ってきたか不明である。


 一方、大正6年発行の『大分県人名辞書』に杉本とも子という女医が紹介されている。その内容は「熊本の人。熊本赤十字病院看護婦。憤然勉強、内務省試験に合格。熊本県立病院、小倉市民病院に勤務。後に若松町に開業。昨年、別府に本院を移し、若松を分院にする」とある。この杉本という女性がいつごろ医術開業試験に合格したのか、年齢はいくつぐらいか、不明である。


 このほか、湯布院の日野俊子の東京女子医学専門学校の卒業写真に直入郡岡本村つまり現在の竹田出身の平野ヒデ子という女性が写っている。この女性がどういう女性なのか竹田の郷土史家に尋ねてみたが、かつて岡本村だった地域に平野という家があったという話は聞いたことがない、ということだった。今後の調査の課題である。

明治40年頃の日本赤十字社大分支部 大分県写真帖(所収)より
明治40年頃の日本赤十字社大分支部 大分県写真帖(所収)より

 

(参考文献)

 

大分県史現代編1(大分県)

大分県医師会史(大分県医師会)

大分の医療史(高浦照明・大分合同新聞社)

大分県医師写真帳(大分県)

風雪の一世紀(大分県立病院)

佐田村史

豊後の国佐田郷土史(大隈米陽)

ふるさと佐田

宇佐山郷先達伝(大隈米陽)

帆足万里先生門下小伝(大塚富吉・日出町教育委員会)

安心院町誌(安心院町)

辛嶋氏史(小野精一)

照山白石先生遺構(白石照山先生遺稿編纂会)

田原氏の系譜

大分おんな百年(古庄ゆき子・ドメス出版)

大分教会の百年史(メソジスト大分教会)

第一高女八十五年の歩み(津田露)

大分県歯科医師会七十年史(大分県歯科医師会)

大分県歴史人物事典(大分合同新聞社)

医界風土記(九州・沖縄編)

花埋み(渡辺淳一・新潮社)

済生学舎と長谷川泰(唐沢信安・日本医事新報社)

医事公論(昭和18年8月16日号)

日本医籍録(大正14年8月10日発行・日本医事時論社)

大分県人名辞書(小俣慇)

菊友(昭和58年3月特別号・東京女子医大)

官報第1140号(大正5年5月22日発行)

官報第1159号(大正6年6月13日発行)

大分新聞

近代の大志ー杵築(ハヌマン)

別府今昔(大分合同新聞社)

 

(本ページ作成に関する補遺)


 本ページを作成するにあたって、原本の縦書きから横書きに変換する際に読みやすいように段落ごとに1行空けたことをはじめ、漢数字の一部はアラビア数字に、著者のあとがきを冒頭部分に移動するなどの改訂をさせて頂きました。また、著者の清原芳治様の御写真に加えて、私が所有している戦前の地図や絵葉書、現在の写真などを参考資料として加えさせていただきました。ご寛容を頂ければ幸いでございます。(※所収と付記していない写真は、原本からスキャンして収録したものです。著者と発行者の御了解を頂いておりますが、問題がありましたらご連絡ください。)

 私がこの本に出会ったのは、大分医科大学図書館(現 大分大学医学部図書館)です。大分県女性で初の医師という文章に惹かれて興味深く読みました。現在は残念ながら絶版となっておりますが、幸いに古書店で入手することができ、今回はその本を電子化させていただきました。今年は辛島篤先生がご逝去されて90年となりますが、私自身も先生の御生涯を辿りながら、先生が幾多の困難を乗り越えられた道のりを知って感動しました。

 貴重な御本をインターネットで公開するご許可を頂きました、清原芳治様、辛島和夫先生、辛島篤吉先生の格別なご高配に重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。

   平成27年(2015)5月25日 みえ記念病院 内科副院長 森本 卓哉 拝