1.はじめに ~キーゼヴェッター大佐のガイドとして~

2.金池小学校の風景今昔

   ①大手通り(遊歩公園通り)からの学校全景

   ②第1校舎

   ③第2校舎

   ④第3校舎

   ⑤第4校舎と大分第2俘虜収容所

   ⑥ユリウスさんの葬儀写真

   ⑦大分第1俘虜収容所

3.百年前の大分の風景

4.ドイツ語の郷土絵葉書

5.終わりに ~佐藤元校長先生の伝言「金池魂」~

6.参考文献・サイト

7.謝辞 

1.はじめに キーゼヴェッター大佐と母校の皆様のガイドとして

 このサイトは、ドイツ駐日大使館武官のカーステン・キーゼヴェッター大佐が、御親族の墓参のために昨年大分に来られたことをきっかけに作成しました。大佐の曽祖父の弟のユリウス・キーゼヴェッターさんは中国青島近郊でホテルを経営していたそうですが、1914年(大正3年)に第一次世界大戦によって現地召集され、日本軍との交戦で捕虜となり、大分に移送された後、1917年(大正7年)に病死されました。ユリウスさんが移送されたのは大分尋常小学校(現在の大分市立金池小学校)の施設の一部を転用して、下士官向けに作られた「大分第二俘虜収容所」でした。大佐は御友人の本名龍児先生(海上自衛隊幹部学校一等陸佐)と共に、金池小学校も訪れたそうですが、収容所があった校舎の具体的な場所がわからず残念だったと伺って、当時の写真絵葉書や史料をもとに調べてみることにしました。

 

 金池小学校は私の母校でもあります。通学時期(1975年~81年)は、明治35年(1902年)に作られた木造校舎は既に取り壊されていましたが、第1校舎の一部が校外の北に移築されて倉庫になった姿や、戦前に建てられた講堂(現在の体育館の位置)は「金池魂」の額と共に覚えています。コロナ禍で調査は延び延びとなっていましたが、今年8月に母校を40年ぶりに訪問して、母校に保管されていた平面図などの史料を拝見させて頂きました。また、現在の職場である医療機関で行っている回想法ケアのために集めた千枚近くの大分の郷土絵葉書、県立図書館やネットで公開されている資料をもとに小学校の校舎や大分の風景の変遷をまとめました。

 

 このサイトが、今年10月に大分を再訪される大佐と、母校の皆様のガイドとして、また大分の歴史に興味がある方々に少しでもお役にたてば幸甚でございます。

 

(追伸)先日母校を訪れた際には、ちょうどグラウンドに新しい校舎を建設中で、来年冬には現在の校舎や管理棟も全て取り壊されて、そこが新しいグラウンドになるそうです。小学生の頃から慣れ親しんだ多くの大樹も正門そばの槙の木を残して伐採されるそうで、真に残念ではありますが、百年前からの校舎の配置を再確認する意義があったと皆様の御縁に感謝しております。

 

     令和3年(2021年)10月11日 森本卓哉(郷土史家・医師)拝

 

 

 

 こんにちは。第一次世界大戦時の大正3年~7年(1914年~1918年)に設置された大分ドイツ俘虜収容所について、当時の日本で唯一学校(大分尋常小学校、現在の大分市立金池小学校)に設置されたことと、私の母校であるから、石川校長先生と斉藤教頭先生の御快諾を頂いて、卒業以来40年振りに学校を訪問して調べてみました。このページでは、1914年~1918年にドイツ俘虜収容所が設置された大正時代の金池小学校について

 

著者所蔵の『大分県案内』(明治35年10月発行)より。「大分尋常高等小学校」の説明文がある。現在の大手通り(遊歩公園)側から東方向の学校全景を撮影したもので、写真左(北)から正門(北門)、第一校舎~第四校舎で構成されていた。このときは第一、第三、第四校舎は二階建てで、第二校舎のみが平屋であり戦後は「中校舎」として最後まで親しまれた。

 

著者所蔵の『大分県案内』(明治35年10月発行)より。「大分尋常高等小学校」の説明文がある。現在の大手通り(遊歩公園)側から東方向の学校全景を撮影したもので、写真左(北)から正門(北門)、第一校舎~第四校舎で構成されていた。このときは第一、第三、第四校舎は二階建てで、第二校舎のみが平屋であり戦後は「中校舎」として最後まで親しまれた。

 

著者所蔵のドイツ俘虜絵葉書。大正5年4月10日の大分郵便局消印がある。上の写真とほぼ同じ視点場から撮影され、建物は変っていないが木々が大きく育っている。左端の第4校舎の✖印は、俘虜収容所であることを示したと思われる。「DIE BERUHMTE LANDSCHAFT ZU OITA(大分名勝)」とドイツ語説明文があり、「大分碩田号」の制作による絵葉書と思われる。

 

著者所蔵のドイツ俘虜絵葉書。「大分第二俘虜収容所」の説明文と、住所面には大分郵便局で押された大正5年11月21日のスタンプがある。ドイツ俘虜のうち、士官クラスは大分赤十字社、下士官以下は大分尋常小学校の南にある第四校舎が収容所として使用された。周囲は有刺鉄線のある塀に囲まれている。※この写真から撮影当時は北側の第三校舎が明治期の二階建てから平屋になっていたことがわかる。

 

著者所蔵のドイツ俘虜絵葉書。「大分第二俘虜収容所」の説明文と、住所面には大分郵便局で押された大正5年11月21日のスタンプがある。大分尋常小学校(現 大分市立金池小学校)の南にある第四校舎が収容所として使用された。周囲は有刺鉄線のある塀に囲まれている。※この写真から撮影当時は北側の第三校舎が明治期の二階建てから平屋になっていたことがわかる。

 

6.

 

清國時雄様(昭和3年の金池尋常小学校卒業記念写真帖をご提供頂きました。)